第五章‐4:転写される魂

アトリエに一人で残ると、音という音が遠ざかっていく気がした。


外の喧騒はまるで存在せず、空気そのものが絵の具に変わっていくかのような錯覚に囚われる。




机の上には、レオが最後に使ったであろう筆と顔料が残されていた。


染みついた黒と赤の混ざり合い――


それは、血と記憶の中間にある何かのように見えた。




私は小型の記録端末を再起動し、残されていたバックアップファイルを復元した。


それは以前、レオの絵に解析用として貼り付けたナノスキャナが、内部的に記録していた低頻度ログだった。




復元された音声ファイルが、一つ。




再生すると、かすかに聞こえた男の声。


それは、レオ本人のものだった。




「絵は、魂の鏡ではない。


魂そのものを、写し取る器だ」




「記録という言葉に君たちは囚われすぎる。


これは保存ではない。転写だ。




“死”という行為がなければ、完全な像は写らない。


だが、“生”の記憶だけを映した絵に、何の意味がある?」




「私は……神になる。


魂を集め、再構成し、


この手の中に、世界の“終端”を描く」




録音はそこまでだった。




私は息を詰めたまま、再生を止めた。




それは狂気と紙一重の理論だったが、この街では、否定しきれない現実でもあった。


魂が絵に宿る。


そして、それを見た者の記憶が侵される。




事実、私もスケッチの中に自分の姿を見てからというもの、


ときおり“誰かの死”を自分の記憶として錯覚しそうになる瞬間があった。




“自分が殺された”という記憶の断片。


“自分が殺した”という感覚の疑似体験。




記録官としての冷静さがなければ、もう自我を保てなかっただろう。




――いや、もしかすると、すでに何かが書き換えられているのかもしれない。




私はカリムにこの音声を転送した。


すぐに支部内連絡回線が開かれる。




「オスカー、それは……間違いなく彼の声だ。教団内部でも、彼は特異だった。


“視覚の魔術”を極めた異端者。


神経の反応すら色彩で誘導できると信じていた」




「教団……」




私はその名を口にするのを、ためらいそうになった。




だが、もうはっきりした。


レオの行為は、信仰に裏打ちされた“儀式”だった。




魂を描く。


それは、自分の中に神を定着させるための、連続的な儀式。




私は再びアトリエを見渡した。


すべての絵が、儀式の痕跡だった。




描かれた者たちは、もはやただの犠牲者ではない。


“構成要素”だ。


神を模る、最後の図像を完成させるための。




私の指先が、無意識に一枚の絵の額縁に触れた。


それは、レオ自身の自画像――未完成の、空白の目をした男の肖像だった。




“最後の魂”が、彼の中に転写されたとき。


この絵は完成し、“神”となる。




そのとき、オルカ灯の光が、一瞬だけ揺らいだ。




私は理解していた。




その最後の一筆が、私自身になること。


その絵が完成するとき、レオは完成する。

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