第二章‐3:巡礼街区の影
第三巡礼街区は、ヴェザリアの中でも特に信仰色の濃い区域だった。
白石で舗装された巡礼路は、聖句が刻まれた旗とともに左右に折れ、
通りの両端には、装飾の施された祈りの碑が一定の間隔で設置されていた。
昼前の時間帯でも、静けさは変わらなかった。
この区域に住む人々の多くは、朝と夕にしか外出しない。
それが信仰の一部でもあり、都市の“習い”でもある。
歩いていると、ときおり視線を感じた。
だが振り返っても、誰もいない。
石壁に空いた小窓、閉じられた木扉、その向こうから、何かがこちらを見ている気配だけが残る。
私はあてもなく歩いた。
あの声が告げた“日没”までには、まだ時間がある。
だが、無防備にその時を迎えるわけにはいかなかった。
何が起こるのかはわからない。
だが、“起こる”という確信だけはあった。
そうでなければ、あの祈りのような通信は、存在しなかったはずだ。
路地の奥に、小さな水盤があった。
巡礼者が手を清めるための場所らしく、ひとりの老婆が静かに水面に触れていた。
私は足を止め、軽く会釈する。
老婆は無言のまま頷いた。
「このあたりに……特別な祈祷所か、古い礼拝の場はありますか?」
そう尋ねると、老婆はゆっくりと手を水から離し、指で西を示した。
「昔、“記憶の祭壇”と呼ばれていた場所があった。今は誰も使わない。……そこに行くのかい?」
私は少しだけ考えてから、肯いた。
「あなたも、“沈む”と聞いたのね」
老婆のその言葉に、私は言葉を失った。
彼女はそれ以上何も言わず、再び水に指を沈めた。
まるで、それが都市との唯一の交信手段であるかのように。
“記憶の祭壇”と呼ばれる場所に辿り着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
崩れかけた石段の先に、半ば土に埋もれたような小祠があった。
扉はなく、内部には祈りの台座らしきものがひとつ置かれているだけ。
だが、その空間には明らかに“何か”があった。
風が吹いていないのに、台座の周囲の砂がわずかに揺れていた。
空気が、内側から息をするように震えていた。
私は手帳を開き、ページに記録を残す。
──《第二章・記録3:巡礼街区内、旧祈祷所にて不可視の揺らぎを確認。日没時、再訪予定。》
そのとき、背後で音がした。
振り返ると、一人の男が立っていた。
灰色の外套。顔はフードに隠れている。
男は何も言わず、私を見ていた。
その目だけが、はっきりと見えていた。
赤い──いや、光の加減か。
だが、確かに“見られている”という感覚が、全身を貫いた。
私は思わず身を引いたが、男はそれに構わず、静かに踵を返した。
そして、一言も発せずにその場を去っていった。
私はその背中を見送りながら、息を吐いた。
あれは、ただの通行人ではなかった。
確信はない。証拠もない。
だが、私は記録する。
──《未知の男、巡礼街区旧祈祷所にて目撃。接触なし。意図不明。》
日が沈むまで、あと六時間。
私はその場を離れ、再び支部への道を取った。
あの都市で、“誰かと目を合わせた”という事実だけが、
この時点では唯一の手がかりだった。
だがそれは、記録官としての私にとって、
それまで以上に“記録できない恐怖”を示すものでもあった。
この街では、目撃もまた、消されるのだ。
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