第1話・後編:塩味の涙と、甘い再出発のショートケーキ

女性は、ゆっくりとフォークを口元へと運んだ。

そして、小さく開いた唇から、ショートケーキが、ふわりと彼女の口の中へと消えていく。


その瞬間、俺の舌に、衝撃が走った。


最初に広がるのは、上質な生クリームと、しっとりとしたスポンジの、優しい、けれど確かな甘み。

それは、まるで、陽だまりのような温かさで、彼女の心を包み込むようだった。

そして、その甘みの奥から、かすかに、本当に微かに、塩味が顔を出す。


その塩味は、彼女の舌の上で、甘さと溶け合うように混ざり合った。

まるで、彼女自身の涙の味と、ケーキの甘みが、シンクロしていくかのように。


「っ……」


彼女の目から、再び、大粒の涙が溢れ出した。

だが、それは、来店時の悲痛な涙とは、明らかに違っていた。

もっと、温かく、心が洗われるような、静かな涙だ。


俺の舌にも、彼女の感情の「味」の変化が、鮮明に感じ取れる。

最初の強烈な塩味が、デザートの甘さと溶け合い、次第に「癒しを伴う、優しい甘み」へと変化していく。

まるで、彼女の悲しみが、透明な水で洗い流され、浄化されていくかのように。


時折、まだ微かに残る苦味や酸味は、彼女が乗り越えてきた困難の証。

だが、それも、甘さの中に溶け込み、物語の一部となっていく。


彼女は、震える手でフォークを握りしめ、ゆっくりと、けれど確かにケーキを食べ進める。

一口、また一口と、ケーキが減っていくたびに、彼女の表情は、少しずつ、けれど確実に、和らいでいく。


俯いていた顔が、少しずつ上がり、肩の震えも収まっていった。

まるで、凍っていた心が、温かい光に照らされて、ゆっくりと溶けていくようだ。


最後の一口を、彼女はゆっくりと味わうように口に含んだ。

その時、俺の舌に広がったのは、もう、塩味も苦味も酸味もない、澄み切った、純粋な甘さだった。

そして、その甘さの中には、微かに、新しい「希望」の輝きが感じられた。


彼女は、空になった皿をじっと見つめ、それから、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、まだ涙の跡が残っていたが、そこに宿る光は、来店時とは比べ物にならないほど、強く、澄んでいた。

小さな、けれど確かな微笑みが、彼女の唇に浮かぶ。


「ごちそうさまでした」


彼女の声は、来店時とは打って変わって、穏やかで、少しだけ弾んでいた。


「とても……温かい味でした」


その言葉に、俺の胸に温かいものが込み上げてくる。

彼女の心に、俺のデザートが、確かに届いたのだ。


彼女は席を立ち、代金を払う。

その足取りは、来店時よりもずっと軽やかで、迷いが消えたように見えた。


ドアのベルが、カラン、カランと、心地よい音を立てる。

彼女は、最後に一度だけ振り返り、俺に深々と頭を下げた。

その笑顔は、まるで、春の陽光のように、まぶしかった。


店を出ていく彼女の後ろ姿を見送りながら、俺はカウンターに残る彼女の「味」の余韻を感じていた。

それは、新しい物語が始まるような、清々しい甘さだった。

悲しみを乗り越え、前を向こうとする、彼女の「再出発の味」。


俺は、再び厨房に戻り、次の仕込みに取り掛かる。

今回のエピソードを通して、俺自身もまた、他者の悲しみに寄り添うことの深さと、それがもたらす癒しの力について、新たな気づきを得た。


感情は、ただ感じるだけじゃない。

それを理解し、受け止めることで、人は、そして俺は、もっと強くなれる。


カラン、カラン。


再び、ドアのベルが鳴る。

新しい客が入ってくる音だ。


その客からは、今度はどのような「味」が感じられるのだろう。

俺の舌は、次の物語の始まりを、静かに待っていた。

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