第8話
沙耶と瀬川さんが戻ってきたあと、俺たちは彼女のデスクを囲むようにして腰を下ろしていた。
「ところで綾瀬さんは、いつこっちに引っ越してきたんだい?」
ひとり立ったままの瀬川さんが、穏やかな笑みを浮かべて声をかける。
沙耶は少し照れたように苦笑いを返した。
「実は……二日前なんです。思いのほか家を決めるのに時間が掛かってしまって」
すると真っ先に食いついたのは三好だ。
「うわ、だったらまだ街にも出れてないんじゃないです? ……って、東京に比べたら見て廻るところなんてないも同然ですけど」
「そんなこと……。こっちにだっていろいろ――」
と言いかけたところで、沙耶ははっと口をつぐむ。
その様子から察するに、もともとこの街の出身だってことは伏せておきたいらしい。
神原課長にどう伝えているのかも気になるが……今は余計な口を挟まないほうがよさそうだな。
幸い違和感に気づいたのはどうやら俺だけだったらしく、のんきな声で三好が続ける。
「いいですよね、東京。私も久しぶりにティムニー行きたいなぁ」
「って、なんで俺のほう見んだよ?」
「べ、別に見てませんし……! ねっ、綾瀬さんも好きでしょ、ティムニー?」
「えっと……私、人の多いところがちょっと苦手で。そういう場所はあまり行かないんです」
「そうなんですか? あ、ていうか綾瀬さん、私のほうが後輩なんですし、タメ口でいいですよ。ね、先輩もそう思いますよね?」
「え、ああ……。俺も同期だし、そのほうが気楽かもな」
でかした三好。
正直、俺も沙耶と敬語で話してるのがさっきから妙にむずがゆかったところだ。
一瞬だけ迷うような表情を見せた沙耶だったが、「そう言ってくれるなら」と頷いてみせた。
「決まりですね。じゃあせっかくですし、沙耶さんって呼ばせてもらってもいいですか?」
「え、うん……私は構わないけど」
「やった。じゃあ私のことはひよりでお願いします。改めてよろしくお願いしますね、沙耶さん」
「ええ。こちらこそよろしくね、ひよりちゃん」
すげぇ……。
みるみるうちに、沙耶の壁が崩れていってるんだけど。
ほんと、こういうところが三好のすごいとこっつうか……。
同性というアドバンテージはあるにしても、到底真似できるもんじゃない。
一転アットホームな空気の中、穏やかに様子を見ていた瀬川さんが口を開く。
「にしても綾瀬さん、よくわざわざこんな地方に来ようと思ったな。会社の辞令とはいえ、なにか理由があったのかい?」
「……それは――」
瀬川さんには悪気なんてない。
けど、その何気ない一言に沙耶の声が少しだけ揺れた。
平然と見えても俺には分かる。
こういう顔のときの沙耶は、たぶん本音を言いたくない時だ。
正直、俺だって帰ってきた理由を聞きたくないわけじゃない。
でも、それ以上に沙耶の困った顔は見たくなかった。
「あー! そういえば同期だったっけ。綾瀬さんと俺」
「は?! なんだよ岡野、急にびっくりするじゃねぇか」
凛々しい眉を寄せ、驚いたように俺を見る瀬川さん。
沙耶もぱちぱちと瞬きをして固まる。
三好を含めた半径二メートル、誰もがなにが起きた?って顔だ。
「どうしちゃったんですか先輩? 今、瀬川さんが質問してたのに。そもそも同期って、さっき自分でも言ってたじゃないですか」
そう言って、三好が顔を覗き込んでくる。
俺は頭をかきながら、苦笑いでごまかすしかなかった。
「え? そうだっけ。悪い、ちょっとぼーっとしてて」
一瞬の沈黙――そして次の瞬間、三好と瀬川さんが同時に噴き出した。
「すみません沙耶さん。この人、たまに変なスイッチ入っちゃうんですよねー」
「あるある。岡野って、たまにわけの分かんねぇ行動するよな」
ぐ……三好はともかく、瀬川さんまでそう思ってたのかよ。
軽くショックを受けるなか、ちらっと沙耶に目をやる。
すると反対にじっと見つめられてしまい……。
もしかしてミスったか?
言っても最後に会ったのは六年も前のことだ。
わかった気になってた俺がバカだったのかもしれない。
そんな感じ、自虐の念に苛まれていると、ひとしきり笑いが落ち着いたタイミングで瀬川さんが腕時計を見て声を上げた。
「やべっ。悪い岡野、俺今からちょっと経理に行かなきゃでさ。少しの間、綾瀬さんのこと頼んでいいか?」
「それは、もちろんいいですけど……」
頷くと、「頼んだ」と軽く手を上げて瀬川さんは早々にその場を後にした。
すると背中が見えなくなったのを見計らうようにして、沙耶が小さく声をかけてくる。
「あの、岡野くん。ちょっといい?」
「ん、どうかした?」
「私、少し喉が渇いちゃって。給湯室はどこかなって」
そう言ってひとつ目配せ。
さっきはミスったかもだけど、今のは間違いない。
それは昔から俺にだけ分かる合図だった。
「あっ。それなら私が案内しますよ」
勢いよく立ち上がった三好を、俺は片手で制した。
「いや、俺が行くよ。綾瀬さんから聞かれたのは俺だし」
すると、三好がすかさずジトッとした目を向けてくる。
「なんですかそれ、めっちゃ怪しいんですけど」
「なにがだよ? どこも怪しくねぇだろ」
いや、どう見ても怪しいのは分かってる。
けど仕方ない。こればっかりは。
「じゃ、綾瀬さん、こっちに。三好、すぐ戻るから留守番頼むな」
「はいはい、分かりましたよー。でも、ちゃんと戻ってきてくださいね?」
「なに言ってんだ。戻るに決まってんだろ」
背中越しに愚痴る後輩を聞き流しながら、俺は沙耶と二人で席を離れた。
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