薄紅の簪

瞬遥

第1章 「わたし」と「ぼく」 ①仮面の日常-1


1.1.1 「ぼく」でいる時間


講義室の窓が、夏の光をぼんやりと受け止めていた。


古ぼけたサッシの向こうで、風に揺れる木の葉がかすかにきらめいている。

ガラス越しの光景は、どこか現実感がなくて、まるでスクリーンに映された風景のようだった。


教室の中には、ひそやかなざわめきと、ノートに鉛筆を走らせる音だけが満ちている。


わたし……いや、「ぼく」は、教室のすみの、誰の視線にも触れないような席に座っていた。


 

半袖のシャツの襟元に、わずかに汗が滲んでいる。


クーラーの効きが悪いこの建物は、毎年夏になると学生たちから小さく文句が出るのだけれど、今日はなぜか、そこまで不快じゃなかった。

むしろ、その少しの熱が、自分が今ここにいる証のように思えていた。


民俗学ゼミの講義は、静かに進んでいく。


前方のホワイトボードには、「明治期の宿場町における民間伝承と社会制度」という文字が大きく書かれていた。



「さて、たとえば“女衒”という存在。これは当時の旅籠と密接に結びついていた商業的媒介者の一つで……」

教授の声が、ぼんやりと耳に入ってくる。


「旅人と土地の娘をつなぐ役割を担っていたわけだが、中には“迷い娘”と呼ばれる、出自のわからぬ女たちもいて……」


その言葉に、ふと視線が黒板に引き寄せられた。


「迷い娘」。


どこかで聞いたことがある気がした。

でも、それがいつだったかは思い出せない。


記憶の底で、淡いざわめきが起きる。



「この記録は、明治十三年の旅籠帳からの引用です」


教授が、スライドを切り替える。


そこには、くすんだ墨で書かれた古文書の画像が映っていた。


『此娘、名を問ふも答へず。迷ひ来たりしと云ふのみ。……橋を渡る者は時を越える、との噂、此所にて再び耳にす。』


小さな文字をなぞるように読みながら、胸の奥がわずかにざわついた。


“橋を渡る者は時を越える”――


不思議な響きだった。まるで、物語の中の言い伝えのようで。



「霧島くん、どう思う?」


不意に名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。


教授の目が、静かにこちらを見ていた。

周りのゼミ生たちの視線が、さっと集まる気配。


「……ええと、」


一瞬、言葉が詰まる。


「ぼくは……迷い娘という語が、あくまで記録者側の視点から名付けられたものに過ぎないと思います。彼女たちが本当に“迷っていた”のか、それとも“逃げてきた”のか、あるいは――そうであることを選んだのか。……文献だけでは判断しきれないと、感じました」


なんとか、教科書的に整えたような言葉を並べる。


教授は「ふむ」と頷き、特に深追いせずに次のスライドへ移った。


それでいい。今の自分には、それ以上のことは言えない。


いや、言いたくないのかもしれない。




講義の後、ゼミ生たちはそれぞれの話題で盛り上がっていた。


次の発表テーマはどうするか、学会の日程がどうとか、教授の推薦がどうとか。


ぼくは、そのどれにも加われずにいた。


ノートを閉じ、バッグに教科書をしまいながら、小さく息を吐く。


なにかを拒絶しているわけじゃないのに、気づけばいつも、輪の外側に立っている。


声をかけられないことにも、慣れてしまった。




――やっぱり、「わたし」とは、まるで別人みたいだ。


女の子の服を着て、ふわりと笑っているときのわたしは、もっとちゃんと呼吸ができている気がする。


今こうして「霧島悠」としているときは、どこか、ほんの少しだけ、肺が圧迫されているような感じがしてならない。




「……ふぅ」


ひとつ、短く息を吐いて、教室を出る。


初夏の光が、廊下の窓を白く照らしていた。


どこか、べつの世界へ続いていく扉が、この日常のすぐ隣にあるんじゃないか――

そんな気が、ふとした瞬間にしてしまうのは、きっとぼくだけだろう。


でも、それでもいい。


そういう想像だけが、いまの自分をかろうじて呼吸させてくれるから。




次の講義まで、少し時間が空いていた。


ぼくは静かに歩きながら、自販機の前で立ち止まる。


冷たいミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、キャップを開ける。


その瞬間、教室で聞いた言葉が、ふと頭の中で反響した。


――橋を渡る者は、時を越える。




なんだろう。

この既視感。


どこかで、確かにその景色を見たことがある気がする。


薄紅の空。

揺れる水面。

橋の向こうから、誰かが歩いてくる夢。


夢……?


それとも――



「……変なの」


わたしは、水を一口、喉に流し込んだ。


そして、ペットボトルを手に持ったまま、まだ少しだけ火照る胸の奥に、そっと指先をあてた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る