STAGE.9 夢の中へ――夢の中

「よお、お前ら。とりあえず死なないように暴れろや」


 シンタロウがそう投げつけるようにフロアへ命令を下すと獰猛な獣の群れが雄叫びをあげるようにしてレスポンスが返ってくる。


 その従順なお返事を確認するとナナコは間髪入れずにスラップをぶちかます。

 五弦が親指/サムピングで打ち付けられると丹田たんでん鳩尾みぞおちを殴るような低音が、高音弦が人差し指/プリングで引っ張られると喉元と側頭部を抉るガラスを割るようなつんざく高音が、それらが規則的な並びで連打される。

 ヒロノブがハイハットのツーカウントでタイミングを取ると超高速のツービート/ダブルタイムビートで猛然と走り出す。


 ナナコから始まった音の暴力の連鎖に全身を殴打され、

 ある者はその場で痙攣するように震え――

 ある者は柵にもたれかかって頭部をがくがくと揺さぶり――

 ある者は大量に噴出したアドレナリンによって狂戦士バーサーカーとなって暴れ――

 フロアは混沌ケイオスそのものとなった。


――来た! 来た! 来た! 来たあ!!


 ナナコは眼前の狂乱に抑えきれない愉悦を感じ背中に走るぞくぞくが止まらない。最高の夜を確信。思わずにやりと舌なめずり。


「うおォォい!! 暴れろォ!!」


 曲が間奏に差し掛かってシンタロウが、まだ二曲目だというのにすでに壊れしまった操り人形パペットたちに、もっと壊れろさらに壊れろと無慈悲な号令をかける。


 下手側ではナナコがステージモニタースピーカー/ころがしに左足をかけて、網膜に焼き付けるようにして観客一人一人の顔を見る。その目の瞳孔はとっくにがっつりと開ききっていた。


 その体勢のまま全音符をドーンと鳴らすと右手がフリーになる。自由になったその手を腰のあたりの高さに。人差し指を突き立てて「上げろ! 上げろ!」と手首を上下に激しく揺らす。


 それを後ろから見ていたヒロノブがビートのテンポを上げる。上がったテンポに合わせてモッシュピットの振動数も上がる。


 シンタロウとナナコの両翼に煽られて機能不全に陥った従順な犬たちは口の中いっぱいに塩と鉄の味が広がってもうわけが分からない。視界も白く明滅を繰り返し今にも意識が飛んでしまいそうだ。


 DIExDAxLAxBOCCHIダイダラボッチのライブはこの状態になってから九十分間の短距離走を強要する。

 通い馴れた者はそれを承知でこの場にいるし、初めての者はナナコたちの姿を目の当たりにして脳髄が焼きただれて、これが当たり前だと調教される。


 バンドが次次に燃料を投下して観客の内にあるものすべてを絞り出させる。

 熱で焼け死ぬ直前にナナコがプラコップに注がれた水をざばっとフロアに浴びせる。

 空になったカップをぽいっと客に放り投げる。

 踵を返して舞台中央に向かうナナコの視界の端でカップをキャッチした女がはしゃぐ。

 ナナコはその女に顔を向けてにこっと笑ってやった。

 その笑みで女はナナコから渡ってきたカップをぎゅうっと握ったまま卒倒した。

 ライブハウスのスタッフに抱えられてロビーに連れていかれる――。


 観客の汗と汗とが細かな粒子となって天井目がけて立ち上っていく。

 空中を漂う水蒸気は照明に反射してきらきらと煌めく。


 もうこの地獄てんごくも終わりが近い――。


「お前ら、よくついてきてんじゃん」


 シンタロウが不適な笑みを浮かべて、もうほとんどカラカラの伴走者たちを労う。

 一番の肉体労働者/ドラムのヒロノブがその後ろでがしっとタオルで顔を拭くが吹き出す汗が止まらない。

 ナナコは祝杯とでもいうようにプラコップの水をごくりと一気にあおる。


「また遊びに来いよ」


 そう言ってシンタロウがフロアに掌を見せる。


 シンタロウ――ッ!!

 ナナコ――ッ!!

 ヒロノブ――ッ!!

 ありがとう――ッ!!


 DIExDAxLAxBOCCHIはセットリストにすべてを詰め込んでいる。

 だからアンコールには一切応じない。

 ファンはそれを分かっているから――

 今の別れの挨拶で――

 この次に鳴らされる音で――

 会場のみなで奏でてきたこの狂想曲が終わりだと理解している。


 最後の曲。

 会場の照明が全部焚かれる。

 ナナコは、

 バンドは、

 この空間にいる人々は、

 光に包まれて真っ白になった――。


 ※


「はあー! 最っ高だったー! んじゃ、あーしは帰っから! ばーははーい!」


 手早く機材の撤収を済ませたナナコ。すでにギグバッグ背負い、手にはエフェクターボードを抱えてライブハウスの出口に向かっている。

 バンドメンバーに背を向けたまま「おつかれー。さいならー」と右手をひらひら。


「おぉい! ざけんな、ナナ公! 一緒に飲んでけー! うまい焼肉屋取ってもらってんだぞー!」


 打ち上げ大好きシンタロウが大声をあげてナナコの帰宅を阻止しようと試みるも、ナナコはバッグの金具をカチャカチャと揺らしたままで止まる気は一切ない。


「ま、今日の出来なら当然こうなるだろうな」


 ヒロノブはいつもどおりGreat Job最高の仕事を完遂した二人を見て微笑んでいた。


 ※


 ナナコは川崎駅から東海道本線、山手線、西武新宿線と乗り継いで何事もなく自宅のある上石神井駅に到着。


 駅舎から出ると熱狂を演じて火照ったナナコの体を冷ます気持ちの良い夜風がそっと吹く。

 ここまで来ればもう二度目の最高の夜を邪魔する者は誰もいないとわくわくそわそわ。無意識にスキップのステップになってギグバッグやエフェクターボードの取っ手がかっちゃかっちゃと小気味よく揺れる。


 ナナコが玄関を開けると中は真っ暗。スズカはまだ帰っていないようだ。


 荷物を置くと風呂場へ行って給湯スイッチをオン。

 手を洗ってから冷蔵庫のあり物を取り出してささっと夕食を取る。そのまますぐにシンクで洗い物も済ませてしまう。

 食事を終えるとすぐに風呂場へ。たくさん汗をかいた体を流すシャワーが心地よい。体を洗ったら湯船へ。湯船の中で歯も磨いてしまう。入浴時間はぴったり十五分。しっかりとリラックスして一度心をニュートラルに戻す。

 風呂を終えると正装/寝間着/着潰したバンドティーに身を包んで髪の毛も乾かす。


 準備は整った――。

 いよいよナナコの二度目の最高の夜が始まる――。


 布団の上でチャクラでも練るかのように胡座の姿勢になる。


 ゆっくりと目を閉じる。


 次第にナナコの目蓋の裏に鮮明な映像が広がり、耳にもその時に鳴っていた音が響く。


 ナナコは舞台袖に立っている。


 会場が暗転するのと同時にMötleyモトリー Crüeクルーの『Kickstartキックスタート Myマイ Heartハート』が爆音でかかる。


 舞台袖からステージへ。


 祝福のようなどでかい歓声を一身に浴びる。


――ああ! やべー! もう興奮が天井だぜ!


 ミドルテンポのナンバー。

 ナナコのスラップから始まるナンバー。

 その他もろもろ暴力的な火力を備えたナンバー。


 ナナコはその一つ一つを寸分違わぬ映像と音とで超高精細に再生していく。


 ナナコは二度目の最高の夜の中へ、夢の中へと深く潜っていった――。


 ※


 スズカが上石神井の駅舎から出ると残暑を忘れさせるようなひやりとした風が髪をなびかせた。

 涼しいなとも思ったし、これ以上スズカから何かを奪い去っていく乾いた風のようにも感じられた。


(はあ。いい加減、ナナコにちゃんと言わなきゃだよね……)


 スズカは楽器店をクビになっていた。吉祥寺で迷惑配信者と揉めた際の一件が最後の引き金となって、もうこれ以上は庇護できないと、ぽいっと摘まみ出されてしまった。

 今は辛うじて楽器店での仕事のツテを頼りに個人ギター工房の方で日雇いのような形でお世話になっているが誤魔化しが効かなくなるのも時間の問題だろう。


 クビになってからというもの後ろめたさからかシラフのままのスズカは重い足取りで帰路に着く。


 スズカが玄関を開けるとナナコが布団の上に座っているのが見えた。


「ナナコ、おつかれー。ライブはどうだった?」


「へ、へへ。でへへ! えへ。あ! うぅ。でへー」


 ナナコは半分白目を剥いて、表情は緩みに揺るんで、だらしなく開いた口からはだばだばよだれが垂れている。

 もはやスズカの声が届く状態ではなかったが、その様子を見たスズカは「今日も最高のライブだったんだな」と優しい顔になった。


 神聖な儀式の邪魔をしないようにしてスズカは寝る準備を整えると部屋の灯りをパチンと消した。


「ナナコ、頑張ったね。良かったね。おやすみ」


 ライブ終わりのナナコのいつもの様子に、返事がないのは分かっているけどスズカは柔らかな響きでおやすみの挨拶。そして、するりと布団に潜り込んで目を閉じた。


 隣からはいまだにでへでへと声が漏れていて、ナナコの幸せそうな様子にスズカの心もじんわりと温かくなる。


 スズカの脳裏にほんの一瞬泣きじゃくっているナナコの顔が浮かんだが、すぐに隣でうへへとにやついている現実のナナコの顔で上書きされた。

 大丈夫。今が最高なんだ。幸せなんだと、今ここに流れているこの時間を噛み締めるようにしてスズカも夢の中へと落ちていった――。

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