第十八話 「この声で、僕は」

 廊下を歩くたび、誰かの視線が、ぴたりと背中に張り付く気がする。


 ざわり、と空気が揺れる。けれど、振り返れば何もない。視線の主などいなかったかのように、ただすれ違う制服の群れ。


 誰かが笑っていた。その笑いが、自分のことではないと分かっていても、胸の奥がきゅうと冷える。


 ――変わってしまったのは、自分の方なのか。それとも、世界の方なのか。


 その違いさえ、もう分からなかった。

 


 きっかけは、ほんの些細な一言だった。


「なあ、蒼って……声、低くね? 女にしてはさ」


 体育の授業後、汗のにおいが残る教室で、隣の男子が冗談交じりに言った。それだけのこと。誰も気に留めないような軽口。けれど、耳に刺さったその言葉は、ゆっくりと心の中に染み込んでいった。


 “女にしては”。


 その言葉が、枠を示している。


 誰かが決めた、「こうであるべき」の枠組み。


 蒼は、その枠から、はみ出していた。いや、そもそも、最初からその枠の中に、自分はいなかった。



 教室でも、廊下でも、空気の温度が変わって感じられる。何かが、自分を測ろうとしている。試そうとしている。


 誰も何も言わない。ただ、それが逆に恐ろしい。沈黙のなかにある無数の「らしさ」の刃が、じわじわと彼を切り裂いていた。

 


 昼休み。いつもの校舎裏のベンチへ向かおうとして、蒼は足を止めた。


 ――もし陽莉に、何か言われたら?


 そんなこと、思いたくなかった。信じたい。それでも、不安は静かに胸を満たす。


 ベンチの方へは行かず、代わりに図書室へ向かった。あの場所なら、誰にも声をかけられない。自分を見透かすような目もない。


 そこは、現実から逃れるための小さな避難所だった。

 


 けれど――陽莉は、蒼の変化に気づいていた。


 その目は、何も問い詰めず、ただ彼を見ていた。無理に明るくするでもなく、無理に励ますでもなく。


 “言葉にしてくれるまで、待つ”。


 その距離の取り方が、蒼には何よりもありがたかった。


 


 放課後。

 雨は、細い針のように空から降り続いていた。


 図書室の窓ガラスを叩く雨音だけが、静かな時間を縫っていく。


 蒼は陽莉の隣に座り、ふと、ぽつりと呟いた。


「……もしさ、僕の“正体”が、広まっちゃったら……どうする?」


 言ってから、声が震えていたことに気づいた。陽莉がどう返すか。それによって、自分はもう、立ち上がれないかもしれない。

 

 だけど。


 陽莉は、ゆっくりと本を閉じて、静かに顔を上げた。その瞳は、蒼の不安をすべて受け止めるような、まっすぐな光を湛えていた。


「もし世界中を敵に回しても、私は蒼の味方でいるよ」


 その言葉は、静かに、しかし確かに、蒼の胸を打った。まるで、張りつめた心の奥に、ぽとんと水滴が落ちたようだった。



 図書室を出ると、外の世界はまるで別の空気を纏っていた。灰色の雲の下、校庭には細かな雨が、まるで静かな音楽のように降り注いでいる。


 生徒の姿は少なく、グラウンドの端には誰かが忘れた傘が風に煽られて転がっていた。


 蒼はゆっくりと歩き出す。傘は差さなかった。髪が濡れる感触も、制服の肩に染みていく冷たさも、不思議と気にならなかった。


 陽莉が隣を歩いていた。


 彼女もまた傘を持たず、同じ速さで、同じ空の下を進んでいる。二人の足音が、ぬかるんだ土を踏むたびに小さく鳴る。


「……バカみたい、だよね」


 蒼がぽつりと呟いた。


「何が?」


「いろいろ、全部。隠してきたことも、怖がってきたことも……。でも、こうして歩いてるだけで、なんか、泣きそうになるんだ」


 陽莉は返事をしなかった。ただ、ゆっくりと、蒼の手を取った。その手は、あたたかかった。冷たい雨に濡れているはずなのに、不思議と震えていなかった。


 蒼の喉が詰まる。


 言葉にできない想いが、心の中で渦を巻く。


 “自分なんて、本当はここにいてはいけない存在なんじゃないか”――そんな思いに、ずっと囚われていた。


 でも今、この手を通して伝わってくる陽莉の想いが、その呪縛を、少しずつ溶かしていく。


 誰かに見られているかもしれない。明日にはまた、教室に噂が流れるかもしれない。


 けれど、それでもいい。


 蒼は立ち止まり、空を見上げた。細い雨粒が、まつ毛を伝って頬へ落ちていく。


「……陽莉」


「うん」


「ありがとう」


 小さな声だった。でも、紛れもなく自分の声だった。誰かに合わせたものでも、何かを装ったものでもない。自分の奥の奥から、生まれてきた言葉。 


 その瞬間、ふとこみ上げるものがあった。


 涙じゃない。恐れでもない。


 ――笑いたくなった。


 胸がふっと軽くなるような、何かがほどけるような感覚。


「……っ、ふふっ……あはっ」


 こぼれた笑い声は、どこか自分でも驚くほど、澄んでいた。まるで、知らなかった声帯が初めて震えたような、自分だけの音。


 陽莉が目を丸くしたあと、すぐに微笑んだ。


 その笑顔を見て、蒼はもう一度笑った。



 ――自分の声で、笑った。


 

 雨は止まなかった。空はまだ暗かった。それでも、蒼の世界はほんの少しだけ、確かに明るくなっていた。


 傘のないまま、手をつないで歩く二人の足跡が、ぬかるんだ土の上に、しっかりと刻まれていく。


 それは、たった今始まったばかりの、「自分で選ぶ」未来の始まりだった。

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