第二章『境界線の向こうに』

第六話 「変わる声、揺れる心」

 春の空気は、冬の冷たさをまだほんのわずかに残していた。窓際の席に座る蒼が、ペン先をノートに滑らせるたび、肩までのボブがふわりと揺れる。その横顔から、目が離せない。



 ――あの子の声が、少しだけ変わった。



 昨日までと同じはずの声なのに、今日はどこか掠れ、低く響くように感じる。


 授業中に何度も咳払いをして、喉にそっと手を当てる仕草が、心なしか不安げに見えた。


「……風邪?」


 小声で問いかけると、蒼は一瞬きょとんとした後、すぐに笑って首を振った。


「ううん、なんでもないよ」


 その「なんでもない」が、どこかぎこちない。

 笑みの奥に、私が知らない何かを必死に隠しているように見えた。


 チャイムが鳴り、クラスメイトたちがわっと席を立つ。教室の空気が一気に騒がしくなる中、蒼はゆっくりと立ち上がり、鞄の紐を肩にかけた。

 

 動作の一つひとつが、いつもより慎重に思えるのは気のせいだろうか。



 放課後の昇降口。靴を履き替えながら、私は隣にいる蒼の様子を盗み見る。


 今日の体育は見学だった。それでも、クラスメイトの着替えが終わった後、更衣室から最後に出てくるのは、いつも蒼だった。



 ――また、みんなをやり過ごすみたいに。



 スカートのウエストをきつく締める指先が、ほんの少し震えていた。


「……大丈夫?」


 気づけば、言葉が漏れていた。


 蒼は一瞬だけ視線を逸らし、それから、ほんの少し遅れて「うん」と答えた。唇が、無理やり笑みに形作られているのがわかる。



 ――その「大丈夫」は、本当じゃない。



 問い詰めたいのに、言葉が喉にひっかかって出てこない。ただ、二人の間を春の風だけが通り抜けていった。



 何も言えないまま、校舎を出る。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていく。


 歩調を合わせるたび、心臓の奥に小さな棘がひとつ、またひとつと積もっていくのを感じた。

 


 帰り道、春の風が吹き抜け、蒼の髪がふわりと揺れる。そのたびに、私の胸の奥に言葉にならない焦燥が芽生えた。


「ねえ、陽莉」


 不意に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。少し低く掠れた声が、夕暮れの空気に溶けていく。


「……私、変わったかな?」


 予想していなかった問いに、言葉が詰まる。答えを探そうとした唇が、乾いた音を立てて閉じる。


「……どうして、そんなこと聞くの?」


「……なんとなく。最近、喉の調子が……変でさ。声も、少し……」


 蒼が言葉を濁し、うつむく。夕陽に照らされたその横顔は、普段の穏やかさの裏に、ほんの一瞬、脆さを覗かせていた。


「……ううん。蒼は、蒼だよ」


 絞り出すようにそう言いながら、心の奥に小さなひびが入るのを、私ははっきりと感じた。 



――「変わった」ことに、蒼自身が一番怯えている。



 沈黙が風の音に溶ける。



 「ねえ、陽莉……もし、私が“変わっても”――」


 不意に蒼が言いかけ、すぐに「……いや、なんでもない」と笑い直した。


 そのとき、夕陽の影の中で彼女の指先がスカートをきゅっと握るのが、陽莉には見えてしまった。



――――――――――

  その日の夕食もほとんど喉を通らず、部屋に戻った蒼は、机に突っ伏したまま、声を出す練習をしていた。



 ――高い声が出ない。



 何度も声を繰り返すたび、自分という輪郭が喉の奥から崩れていくようだった。

 

 喉の奥で低く揺れる音が、まるで自分のものではないように感じる。


 以前の「女の子の声」は、指の間から砂のようにこぼれ落ちてしまったのだろうか。



 鏡をのぞき込むと、肩までのボブの下にある輪郭が、ほんの少しだけ昨日より「自分じゃない何か」に近づいている気がした。



 ――これが、私?



 指先で首筋をなぞりながら、知らない声が自分の口からこぼれる恐怖に、息を詰める。


この声を聞いた陽莉が、笑顔でいられるだろうか。



 胸の奥で、冷たい不安が少しずつ広がっていく。


 「まだ……大丈夫。まだ、守れてる」


 肩まで伸ばした髪を握りしめ、そう自分に言い聞かせるたび、指先に微かな震えが走った。


 でも、それすらもいつか「足りない」と言われてしまうのではないかという不安が、胸の奥で渦を巻く。


 鏡の中の自分を、長い間見つめる。見慣れたはずの顔に、知らない誰かの影が少しずつ重なっていくのを、ただ息を殺して見ていた。



――――――――――

 同じ頃、陽莉はベッドの上でスマホを握りしめ、蒼との今日一日のやり取りを思い返していた。



 ――蒼ちゃんは、今、何を感じているんだろう。



「……私、変わったかな?」

 あの一言が、耳の奥にこびりついて離れない。


 本当は「何が怖いの?」と聞きたかった。だけど、踏み出す勇気が出なかった。


 スクロールする画面には、真央たちのグループLINEが賑やかに流れている。そこに混ざれない自分を誤魔化すように、ため息をひとつ。



――私、ちゃんと蒼の「味方」でいられてるのかな。

 


 心の奥に小さな棘がまたひとつ、静かに沈んでいった。それはやがて、呼吸のたびに胸の奥をちくりと刺し、眠りを遠ざけていく。



 変わり始めた声と、握りしめた指先。その奥に、私の知らない痛みが確かにある。  


 けれど、問いただす勇気が出ないまま、胸の奥に積もった棘のひとつひとつが、じわりと重みを増していくのを感じていた。


その重みは、やがて彼女自身の笑顔をも曇らせていく。



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