第四話 「仮面の下にある痛み」

 日が傾くのが、ほんの少しずつ遅くなってきた。春の夕暮れは、空気の中にまだ冬の冷たさを残しながら、それでも柔らかさを増していく。



 蒼と別れて家に着くと、私は鞄を床に置いたまま、しばらく玄関に立ち尽くしていた。


 扉一枚隔てただけで、世界の色がこんなにも違って見える。


 学校では「いい子の陽莉」を演じ続け、帰れば、言葉を交わす相手すらいない。マンションの一室に響くのは、冷蔵庫の低い唸りだけ。


 リビングの照明をつけると、薄暗い部屋の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。


 誰も座っていないソファ、整ったままのテーブル、そして、壁に掛けられたままの小さなカレンダー。そこには今日の日付を囲む赤い丸が、虚しく一つだけ印を残していた。



 ――母の帰りは、今夜も遅い。



 習い事や塾に行く同級生たちを見送る放課後、誰に見られることもなく、まっすぐ家に帰る。


 私は小さい頃から、ずっと、ひとりぼっちの生活をしていた。


 それでも、帰り道が寂しくなくなったのは、蒼と出会ったから。



 夕食は冷蔵庫にあるラップのかかった作り置き。電子レンジの回転皿が、単調な唸り声を上げる。その音を聞きながら、心の奥で、何かが少しずつ沈んでいくのを感じる。


 テーブルに腰を下ろし、温めたパスタをフォークで巻き取りながら、ふとスマートフォンの画面を覗き込んだ。


 通知は、真央たちのグループLINEのやり取りでいっぱいだった。「次の日曜、カラオケ!」という文字が画面に明るく踊っている。



 ――行かなくちゃ、また「浮く」



 頭ではわかっている。



 けれど、返信のスタンプ一つ打つだけで、胸の奥に小さな棘が刺さる感覚がある。フォークを置き、指先をこすり合わせた。爪と爪が擦れるわずかな感覚に、現実感を取り戻そうとする。



 食器を流しに置き、シャワーを浴びた後、部屋のベッドに仰向けになる。天井の模様を目でなぞるうち、瞼が重くなる。



――そのとき、不意に、過去の断片が頭をよぎった。



 小学三年生のある日の夕暮れ。まだ、蒼と出会う前の忘れられない記憶。休み時間の、賑やかな教室で、笑顔の仮面がひび割れる音がした。



「陽莉ってさ、なんか気持ち悪い」



 軽い調子で放たれたその言葉に、教室のざわめきが、一瞬だけ凍りついたように感じた。

 

 誰かが笑った気がした。けれど、私の視界は白くにじみ、表情を読み取ることができなかった。喉がひゅっと縮み、息を吸うことすら忘れた。



――私の存在が、誰かにとって「気持ち悪い」ものになる。



その認識が、鋭い針で胸を貫いた瞬間だった。



 たった一言に、周りの音が、耳鳴りにかき消されるように遠ざかった感覚がする。



 何も言い返せなかった。


 

 返すべき言葉を、頭が必死で探そうとしたのに、口が縫い付けられているみたいに動かなかった。



 このとき、私は初めて、いい子の仮面が「盾」になると学んだ。



 それ以来、私は「いい子の陽莉」を手放せなくなった。どんなときも、誰の前でも、笑っていれば安全。そう思い込むようになった。


 目を閉じても、心臓の奥に、その日のひび割れた音が残響している。




 翌日。放課後の校舎には、夕暮れの光が差し込み、廊下の床を長い影で塗りつぶしていた。


 昇降口で靴を履き替えていると、蒼が私の隣で待っていた。


「今日も、一緒に帰ろ?」


「……うん」


 並んで歩き出すと、やわらかい風が頬をなでる。通学路の両脇に立つ街路樹が、葉っぱを揺らしている音が聞こえた。


 私は無意識に、蒼の袖口をそっとつまむ。


 指先に伝わる布の感触が、心臓の奥に微かな温度を残した。



「ねえ、陽莉」

しばらく歩いたあと、蒼が不意に口を開いた。

「今日の昼休み、無理して笑ってたよね? ……大丈夫?」


 窓際から、輪の中心で笑う私を、そっと見つめていたのかもしれない。笑うたびに、ほんの一瞬だけ視線が泳いだのを、蒼は見逃さなかったのだろう。


 気づかれないはずの、仮面の裏側を、少しだけ覗かれている気がした。


 思わず立ち止まり、足元のアスファルトを見つめる。 



 ――図星だった。



 なのに、口をついて出たのは、いつもの答え。



「……大丈夫だよ」


 けれど、その声が自分でも驚くほどかすれているのに気づいた。


 蒼は小さく首を傾げ、私の顔を覗き込んだ。

 マフラーの端がふわりと揺れ、その奥の瞳が、まっすぐに私を捉える。


「……ねえ、陽莉。本当に“大丈夫”って、思ってる?」


 胸の奥に、鋭い棘が刺さる。“仮面”の裏側に隠していた感情が、今にもあふれ出しそうになる。



 ――私は、誰にも言ったことがない。



 「いい子の陽莉」という役を演じなければ、誰もそばにいてくれないのではないか、という恐怖を。



 答えられない私に、蒼はそれ以上問い詰めず、代わりに小さくため息をついた。


 そして、私の手首にそっと自分の指を絡める。


「……たとえ、仮面を外しても、私は逃げないよ」


 低く、けれど確かな声だった。


 心臓の奥で、ひび割れた音が一つ、すうっと消えていくのを感じた。


「……ありがとう」


 それだけ言うのが、精一杯だった。



 並んで歩き出すと、夕陽が二人の影を一つに溶かす。マフラーの端が私の腕にかすかに触れ、胸の奥に、温かい痛みが広がった。



 ――初めて、誰かに「仮面の下」を見られても、怖くないと思えた。



 蒼の横顔を見る。



 ――このぬくもりを、もう少し感じていたい。



 この人の隣なら、もう少しだけ、本当の自分でいられると、私は思ったのだ。


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