第2話-2
昼休みになって涼介は、やはり机の中に置き去りにしていた、日本史の教科書を読みふけっている。置き勉が得意で、暗記ものは大の苦手分野だというのに、その目は真剣だ。
教科書を読みたい涼介に、あいつらが矢継ぎ早に話しかけている。
「貸した一万、早く返せよなあ」
これは不良というレッテルそのままの、須藤(すどう)耕(こう)哉(や)のセリフ。彼の名もまた、目立つからすぐに憶えた。涼介は誰かにお金を借りたことなんて、絶対ないのに。
「ねえ、涼介~。美理が彼女だってことも、忘れちゃったの? ふたり、つきあってるのにい?」
これは華恋のセリフ。そんなことあるはずがない。華恋の隣では、うるうるした瞳で、美理と呼ばれた女子が涼介を見つめている。
困った。天晴れコンビはグラウンドにサッカーをしに行ってしまった。涼介は誘われたのに、静かに読書をしたいと断ったんだ。
ほかの連中は、見て見ぬふりだ。そりゃ、誰も厄介ないざこざに、巻きこまれたくはない。
見ていられない。ここは私がなんとか言い返そう……私が?
私が出しゃばって須藤にお金なんか借りてないって言ったら、こんどは私が恐喝されるかもしれない。
私が涼介は彼女なんていないって言ったら、華恋にどんな嫌がらせを受けるかわからない。
どうしよう、ものすごく怖い。私にはできない。
だけど涼介を守りたい……よし。
「うるせえんだよ、おまえら!」
思っている言葉が、すうっと出てきた。
ほかの誰かの口から。
それは
ベリーショートの髪に、制服の代わりにいつだって学校指定のジャージ着用。杉田さんも涼介に、さっき古文を教わっていた。
「涼介は勉強したいんだよ、邪魔すんな」
「うっさいなあ。陽彩ってば、ヒーロー気取りなの?」
華恋が言えば、須藤も加勢する。
「男オンナ! おまえなんて一生どんなに憧れたって、ホントの男にはなれねえんだよ!」
「なんだよっ!」
杉田さんは鋭い目で須藤をにらみつけ、立ちあがった。拳をにぎりしめている。
ヤバい。これはヤバいヤバいヤバい!
私はとっさに杉田さんのもとに走って、彼の手を引いた。
「ダメ、おさえて」
ささやくと、杉田さんは私のことまでにらみつける。
「あんた、どっちの味方だよ」
「そりゃ、杉田さんに決まってるでしょ。だけど、ケンカはダメ」
「キモい、こいつらレズじゃね?」
須藤のその言葉に、杉田さんは「ちがう!」と言い放った。
ふたりは一触即発、にらみあう。
「あの~」
緊迫した空気を割るのは、やわらかな呼びかけ。
それまで黙っていた涼介が、ガタっと席から立ちあがる。
「訊いてもいいかな? 大東亜戦争って、ほんとうに終わるの?」
「はあっ?」
拍子抜けした華恋が、首をかしげた。
「なんだよそれ、大東亜戦争って」
須藤が苦笑いしている。
「あ……えっと……」
あわてて涼介は、日本史の教科書を広げる。
「ああ、第二次世界大戦だ。それは、ほんとうに終わるの?」
「そうだよ?」
華恋の陰から出てきた美理が、嬉々としてうなずく。
「じゃあ……日本は、ほんとうに負けるの?」
「え? 涼介なに言ってんの? 負けたんじゃん」
あきれた調子の杉田さんが、どかっと席についた。
「そっか……負けたのか……」
涼介も席にすわり、また日本史の教科書に没頭した。
華恋も須藤も興ざめしたようで、もうなにも言わず、眉をひそめて去っていった。
「つかれたでしょ?」
学校帰り。自転車に乗って、後ろをついてくる涼介に話しかけた。
「つかれた……」
ため息をつくような声が聞こえる。
途中の駅までは天晴れコンビがつきそって、今はこうしてふたりきりで、自宅の最寄り駅から帰るところだ。ここなら、華恋やほかの女子たちの目がないから安心していられる。
うちの学区から通う、あとふたりの男子は運動部だから、めったに同じ電車にはならない。ゆえに、涼介をまかせられない。
「小春ちゃん、ちょっと時間あるかな?」
後ろから涼介の声がした。つかれているのに誘ってくれるなんて、素直にうれしい。
「うん、あるよー。鈴香さんのお店、寄ってく?」
大声で返すと、
「あの蔵には行きたいけど、今日は公園に。家の近くにあったよね?」
大声で返ってきたから「公園? わかったー」、私もまた大声で賛同する。
私たちは、家の手前の蔵カフェ・季旬のそばにある、小さな公園に立ち寄った。青いブランコにそれぞれすわって、そよ風に吹かれる。
涼介が話しだすのを待っていた。きっとなにか、言いたいことがあるんだと思って。
幼稚園児が砂場ではしゃぎ、母親たちが見守っている。小学生の男子がふたり、黄色いジャングルジムにのぼっている。そのうちのひとりは
「丈琉~っ!」
叫ぶように発して手を振ると、小さな弟はすっ飛んできた。青いブランコの前の、真っ赤な柵に手をつく。
「小春ねえちゃん、おかえり!」
「ただいま。丈琉、ちょうどよかった。涼……」
「誰?」
丈琉はブランコにすわったままの涼介を見て、難しい顔をしている。
「誰、この人」
「なに言ってるの。どう見たって、涼介でしょう?」
「涼介のわけないじゃん。誰なの、小春となにしてんの?」
怒ったように、にらみつけている。
丈琉は小さいながらも、必死に私を守ろうとしてくれているらしい。
だけど。
「こら、失礼でしょ! ごめんね、涼介。私の弟の、丈琉だよ」
「ああ、そうなんだ……よろしくね、丈琉くん」
あっかんべえー!
実に子どもらしい拒絶反応で、丈琉は見事な〝あっかんべえー〟を涼介にお見舞いした。
私も涼介もあっけに取られていると、丈琉は友だちのもとへ走り、公園を出ていった。
「え……と、とりあえず、ホントごめんね、失礼な弟で」
涼介は首を横に振ってから、私を見た。思いつめたような表情で。それから目をそらした彼は、小さく咳払いをして、もう一度私を見つめた。
「小春ちゃん、聞いて」
「……ん?」
聞いてと言われても、聞きたくないような気がした。なぜだか耳をふさぎたくなった。
涼介のひどくまじめな声が、私を緊張感でつつむ。
「丈琉くんの言うとおりなんだ」
ささやいた言葉の意味が、全然理解できない。
「えっと……言うとおりって、なに?」
「僕は、涼介くんじゃないよ」
あまりに突飛なカミングアウトを、頭の中で何度も反芻した。
涼介じゃないと言った彼は、私を見つめて、うなずいてみせる。
思わず私は噴きだしてしまう。
「……っていっても、君は涼介だよ。まあ、涼介は僕キャラじゃないけどね。オレって言ってたよ?」
そう返しながら、たしかに涼介じゃないと思ったほうが、腑に落ちるとも理解した。
それに、丈琉の直感はかなり正確だ。さっき言ったことは、意味がわからないとしても。
「だからね、僕は涼介くんじゃないんだ、ほんとうに。あのね、僕は……」
その真剣なまなざしに射すくめられる。
「僕はね、昭和20年を生きていたんだよ」
「……え? なに、もう一回言って」
「だから、僕はね、涼介っていう人じゃない」
涼介なのに、涼介じゃないってこと?
「ん? なにを言ってるの?」
大きな風が吹いて、涼介のさらさらヘアを乱れさせる。私の前髪も、ふんわり揺らす。
「僕も困っているんだ。僕は、僕の名前は……
「そうきゅう?」
「青空っていう意味。こういう字」
彼は制服のズボンのポケットから小さな手帳を取りだし、すらすらと名前を書いて見せてくれた。
「難しい字」
涼介はこんな難しい字を書けなかった。しかもこんなに達筆じゃない。だいいち、ポケットに手帳なんて入れるタイプでもない。
「僕がいたのは、昭和20年の2月なんだ」
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