第6話 使命と代償.6

 驚きながらその腕を辿ると、洋装の男性がすぐ目の前で心配そうに初音を見下ろしているではないか。

「大丈夫か?」

「は、はい」

 綺麗な男だった。少し長い前髪から覗く瞳は切れ長で、すっとした鼻梁と薄い唇が完璧に配置されている。背は六尺以上ありそうで、細身だが初音を支える手は力強い。腰まである黒い艶髪を無造作に首の後ろで結わえていた。

 男は呆然とする初音の腕を引っ張り近くの木の下まで行くと、そこでやっと手を離した。

 ポケットから手巾を出すと、初音に手渡す。初音は慌てて首を振った。

「あ、ありがとうございます。手巾は自分のがありますから」

 急ぎ胸元から出した手巾を男に見せると、改めて頭を下げる。

「助けてくださりありがとうございます」

「いや、礼を言われるほどのことではない。足は大丈夫か?」

 一瞬ぽかんとしたのち、初音はうんうん、と何度も頷いた。「大丈夫か」と聞かれたのは何時ぶりだろう。

 男は少しほっとしたように口元を緩めると、空を見上げた。

「止みそうにないな」

「あ、あの。私はもう平気ですから、どうぞお帰りください」

「しかし……ここからどうやって帰るつもりだ?」

 顔を空に向けたまま、視線だけを初音にやる。黒曜石のような瞳はどこかで見たような気がするが、思い出せない。

「人力車がすぐそこにあります」

「ひとりで来たのか?」

 暫しの間ののち、初音は俯きがちに首を振った。

「許婚と妹と来ました」

「そのふたりは?」

「私が転んだのに気づかず行ってしまったようです」

 困ったように笑う初音に、男は眉を顰めた。

「許婚を置いてか」

 それを言わないで欲しい、と初音は苦笑いのまま視線を逸らし、いい加減ふたりを追いかけなくてはと土砂降りの空を見上げた。

 と、急に腕を取られ、さらには着物を肘まで上げられた。紳士だと思っていた男の無粋な行為に初音はギョッと目を見開く。

「あ、あの」

「血が出ている」

 転んだ拍子に傷口が開いたのだろう。ぱっくりと裂いた部分からドクドクと血が流れていた。

「数日前の傷が開いたようです。手巾を巻けば大丈夫です」

「それなら俺のを。君のは濡れているだろう」

 男はまだ手に持ったままだった手巾を、躊躇なく初音の腕に巻いた。

 止血の意味もあるのだろう、少々強めに手巾の端と端をぎゅっと結ぶと、すぐに手巾が赤く染まる。

 それに慌てたのは初音だ。男が取り出した濃紺のかすり柄の手巾は、滑らかな光沢から絹と思われた。もし本当にそうなら高価な品だ。

「す、すみません。私の血で汚してしまいました。弁償いたします」

「必要ない。これはあなたに差し上げる」

「ですが……あの、せめて名前だけでも」

 そう聞けば、男はやや間があったのち「帆澄」と口にした。

 おそらく名前だろう。苗字ではなくどうして名をと思いつつ、初音は忘れないよう口の中で復唱する。

 そんな初音に帆澄は蝙蝠傘を手渡した。

「人力車までこれを使うといい」

「あ、あの。それでは帆澄さまが濡れてしまいます」

「問題ない」

 そう言うと、革靴がざっと水たまりを踏んだ。煙るように降る雨の中を、帆澄はもう振り返りもせず走っていく。

 木の下に取り残された初音は、渡された蝙蝠傘を戸惑いがちに見た。

 使っていいのだろうか。迷いはあるが、人力車で自分を待つ春人たちを思い出し、それを広げた。男物の傘は大きく、初音をすっぽりと覆う。まるで守られているようだ。

 初音は意を決したように、落雷の中に踏み出す。

 傘が大きいからだろうか、さっきより雷が小さく聞こえた。これなら怖くない。

 そうして急ぎ足で人力車を停めた場所まできた初音だったが、そこには人力車どころかふたりの姿はなかった。


 すっかり雨が上がった夕暮れ、やっとのことで初音は家まで辿りついた。

 二刻ほど歩いた身体はくたくたで、この日のためにと選んだ着物と袴は泥と雨でぐっしょりと濡れ汚れてしまっている。春の雨は冷たく、手足は寒さでかじかんでいた。

 玄関横の車寄せには人力車が止まっているのでふたりはとうに帰っているのだろう。その横を通り抜け重い身体で玄関扉を開けると、沓脱石に足を乗せたままぺたりとへたりこんだ。

 裾から濁った雨水がしたたり落ち、沓脱石の色を変える。

 このままでは上がれないので、使用人を呼ぼうと廊下の向こうに視線をやると、バタバタとやけに大きな足音が聞こえてきた。しかも複数。

 さすがに心配してくれたのかとどこかほっとしたような気持ちでいると、父親と春人、美琴の順に姿を現す。

「お姉さん、ごめんなさい。私……」

「いや、美琴は悪くない。かなり体調が悪かったので、至急の事態と判断し人力車を医者へ走らせたのは僕です。人力車の中で随分と待ったのですが、初音さんが来られなかったので……。一体、何をしていたのですか?」

 まるで初音が悪いと言わんばかりの口調に、袴をぎゅっと握り締める。

 雨の中、右腕の痛みに耐えながら帰って来て早々投げかけられた言葉が、労わりでなく叱責だったのが冷え切った身体に堪えた。

 何か言い返そうと顔を上げると、父親がそれよりもと春人を押しのける。

「そんなことより、初音、お前に新たな縁談が来た」

「新たな縁談? ですが、私には春人さんという許婚がおります」

「分かっている。だが、これは帝直々の命令なのだ」

 帝? 命令?

 何の話だと当惑していると、やっと使用人が湯の入った桶を持って現れた。

 とにかく足を綺麗にし着替えて居間に来いと言われた初音は、訳も分からないまま下駄を脱ぎ、桶の湯で足を清める。温かな湯が足のこわばりを解くも、頭は混乱するばかりだ。

 二階へ行き濡れた着物を脱ぎ棄て、毛糸の袷に袖を通した。もう仕舞おうかと考えていた羽織も取り出す。だけれど、冷え切った身体は温まらない。手足は氷のごとく冷たいままだ。

 本来なら湯につかり身体を暖めたいが、初音は階段を駆け下りると居間の障子を開けた。

 そこにはすでに全員が集まって座卓を囲んでいる。父親の横に春人が座り、春人の向かいに美琴が座っていた。初音は美琴の隣にある座布団に腰を下ろす。

 それを見計らったように父親が一通の封筒を座卓の上にすべらせた。初音が緊張した面持ちでそれを受け取り開く。

 勅令独特のくどい言い回しに辟易しながら読み進めるも、その言葉がまったく頭に入ってこない。何度か読み返したのち、初音はようやっと顔を上げた。

「帝は、このままでは破魔の力を持つ人間が減るのではと、危惧されておられるのですね」

「そうだ。現在、破魔の力を使役できるのは八重樫と宮應のふたつだけだ。我が八重樫が「封」を得意とするのに対し、宮應は「滅」を使う」

 破魔の力を使える一門が多数いた時代から、突出した力をもつこの二家は犬猿の仲でもある。

「破魔の力を途絶えさせないよう、それぞれの一門から人を出し結婚させ、より強い力を持つ者を育てる。それが帝のお考えである。宮應は現代、当主代行が一門を纏めている。おまえはその男と結婚し、破魔の力を後世に残すのだ」

「そんな。でしたら、八重樫本家はどうなるのですか? 私が当主を継がなければ誰が……」

 と言いかけ初音は美琴を見た。その視線を受け、美琴がにまりと笑う。

「私が当主となります」

「美琴が? だって美琴は破魔の力が使えないのでは」

「ええ。ですが、それは病弱のせいで、破魔の力自体はお姉さんに負けじとあります。この力を受け継ぐ元気な子供を産めばよいのです」

 ね、春人さん。と美琴は春人に微笑む。

「もしかして、美琴が春人さんと?」

 声が震えた。今まで初音を支えていたものがどんどん消えていく。奪われていく。

「そうだ」と答えたのは父親だった。

「現八重樫本家は美琴と春人くんが継ぐ。ふたりにはお前が帰ってくるまでに説明し、双方了承済みだ」

 初音が美琴と春人を交互に見ると、ふたりは視線を交え頬を赤らめた。

 春人が少し気まずそうに頬を搔く。父親が言葉をつづけた。

「お前が留守がちだから、美琴が変わりに春人くんの話相手をしていた。儂の目から見ても、ふたりが結ばれるのが妥当だろう」

 あまりの展開に、初音は言葉を失う。

 なにより、自分が雨の中を歩いている間にすべてが決まっていたのが悲しい。

 そんな初音に父親は厳しい声を向けた。

「何をぼぉっとしている。話はこれからだ。さきほど現八重樫本家は美琴が継ぐといったが、これはあくまでも仮だ。お前と宮應、優れている方の名を残し、劣っている一門はその門下に入る。つまり、初音が勝てば宮應の当主代行が婿養子となり、お前が八重樫の当主となる。そのときは美琴は分家に位を落とす」

「その優劣はどうやってつけるのですか?」

「帝が決められる。いいな、初音。お前に八重樫一門の未来が掛かっているのだ。決して宮應に負けるな。八重樫のほうが優れていると証明しろ」

(結局、どこまでいっても私は八重樫の駒でしかないのだ)

 目の前が涙で歪んだ。泣きたい気持ちを堪え、初音は「はい」と答えた。その答えしか許されないのを知っているからだ。

「これで話は終わりだ。ま、春人くんは美琴のほうが気が合うようだし、落ち着くべきところに落ち着いたのだろう」

 ははは、と笑う父親の声が遠くに聞こえた。耐えきれず初音が席を立つ。

「お父さま、身体が冷えましたので、湯に浸かってきてもいいでしょうか?」

「ああ、そうしろ。それから宮應との結納の儀は一週間後だ」

 ぽとり。

 耐えきれなかった涙がとうとう頬をつたい、胸元に染みを作った。でもそれを見られないよう、初音は踵を返すと障子を開ける。

 本当は気が付いていた。春人の瞳にいつも誰が映っているのか。

 でも、妻になればきっと自分を見てくれるだろう。優しい春人だもの、裏切ったりしないと信じていた。

 誰でもいい。当主としてではなくひとりの人間として、見てくれる人が欲しかった。

 脱衣所に駆け込んだ初音は、着物を脱ぐと湯に飛び込む。そしてそのまま頭まで浸かつまた。

 涙はとめどなく流れたが、それを咎める人はここにいない。

 湯から顔を出せば、顔を覆うのが湯か涙かもう分らない。

 初音は震える肩を自分の手で抱きしめ、身を小さくし泣き続けたのだった。

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