詠姫 ~土地が錆びる時、姫は歌を詠む~

斎詠清淀

第零柱 裏の理

第零柱ノ壱:清流のほとりで

春の柔らかな陽光が、サービスエリアのアスファルトに降り注いでいる。


キャンピングカーの運転席で、東雲しののめ 旭あさひはエンジンを切った車内から、窓の外に広がる幾重にも連なる青い山並みを眺めていた。


その稜線は春霞の中に淡く溶けている。


膝に広げたノートに最後に数文字を書き加えると、ふぅ、と小さなため息をついた。


ノートのページには、少し癖のある、だが丁寧な文字が並んでいた。




"山並みは 霞みて遠し 春の道  行き先知らぬ 我はどこへ行く"




「……我は、どこへ行く、か」




自らが詠んだ下の句を、自嘲するように呟く。


フロントガラスの向こうでは、観光バスから降りてきた家族連れが弾むような声で笑い合っていた。


手をつないだカップルが、楽しそうにスマートフォンの画面を覗き込んでいる。


誰もが明確な目的地を持ち、誰かとの時間を共有しているように見えた。その光景が、今は少しだけ胸に痛かった。




高校を卒業し、新しい生活が始まるまでの春休み。


進学する同級生、就職を決めた友人。


それぞれのスタートラインに立つ仲間たちを心のどこかで羨みながら、旭はどちらも選べなかった。


選ばなかった、というより、選ぶ勇気がなかったというのが正しい。


そうして始まったこの旅は、「自分探し」という聞こえの良い、実態のない「モラトリアムという名の逃避行」だった。




新名神高速道路から伊勢自動車道へ。緑色の大きな道路標識が見慣れない地名を示している。


ただ「伊勢」とだけ入力したカーナビに従い、彼女は走り続けてきた。


日本で一番神聖な場所。ここに来れば、何かが見つかるかもしれない。そんな、ほとんど祈りに近い淡い期待を抱いて。




まず向かったのは、私たちの暮らしそのものをお守りくださる、豊穣の神様が祀られているお宮。


木で組まれた巨大な鳥居の前で、旭は一度立ち止まり、浮ついた旅人の心を引き締めるように背筋を伸ばして、深く丁寧に一礼してから境内へと足を踏み入れた。




旅の前に読んだ本によれば、こちらの神様と、内なるお宮の大御神とは車の両輪のように、共にこの国を見守っているのだという。だからこそ、まずはこちらにお参りするのが古くからの習わしなのだと。




ざっ、ざっと玉砂利を踏みしめる音が心地よい。町の喧騒が嘘のように遠のき、静かで、それでいてどこか親しみやすい空気が彼女を包んだ。


参道を進むとやがて視界が開け、左手に美しい池が見えてきた。


その形が、古代の装身具である勾玉に似ているのだという。春の光を受けてきらめく水面には優雅な舞台が張り出し、水鳥たちが静かに羽を休めている。その穏やかな光景に、旭の心も自然と和んでいった。




やがて見えてきた正宮は、想像していたよりもずっと素朴で、力強い印象だった。


華美な装飾は一切なく、白木の質感がそのまま活かされた直線的な造り。


屋根の上で交差した木が、天を指している。


その簡素さゆえに、人の手による「作品」というより、森の木々がそのまま寄り添って神様のための家を形作ったかのような、根源的な神聖さが宿っていた。




旭は、白く敷き詰められた石の上、御幌みとばりがかけられた場所まで進み、深くお辞儀を二度繰り返す。


そして、胸の高さで右手を少し下にずらして手を合わせ、二度、柏手を打った。パン、パン、と乾いた音が静寂な境内に清々しく響き渡る。


そのままそっと手を合わせ、目を閉じた。


特別な願い事はない。ただ、こうして無事に旅を続けられていることへの感謝と、空っぽな自分をこの神様はどう見ているのだろうかという、漠然とした問いを心に浮かべた。


祈りを終えると、最後にもう一度深くお辞儀をした。


ほんの数秒の作法。しかし、終えた時には心の表面を覆っていたささくれのようなものが、少しだけ滑らかになったような不思議な安らぎを感じていた。







お参りを終えた旭は、数キロ離れた聖なる川のほとりにある賑やかな鳥居前町へと車を走らせた。次のお宮へ向かう前に、少しこの街の空気を味わってみたくなったのだ。




川に沿って美しい石畳の道が続く。


切妻・入母屋・妻入り造りの黒い木造建築が軒を連ね、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようだった。


軒先で香ばしい匂いを漂わせるひもの屋。


真珠の柔らかな輝きを並べる宝飾店。


地酒の看板を掲げる酒屋。


歩いているだけで、心が浮き立つようだった。




その一角は特に人で賑わっていた。


古き良き日本の風情が凝縮されたような場所だ。


醤油の焼ける匂い、出汁の優しい香り、太鼓の小気味よい音。


様々な匂いと音が混じり合い、活気に満ちている。旭はあてもなく、その人波に身を任せて歩いた。


うどん屋の店先からは、たまり醤油と鰹節が混ざった独特の、甘く濃い香りが漂ってくる。


店内の客が食べている真っ黒なタレがかかった極太の麺が、やけに美味しそうに見えた。


かと思えば、すぐ隣の店からは、じゅう、という音と共に極上の和牛が焼ける、抗いがたいほど食欲をそそる香りがした。


霜降りの肉が串に刺され、炎の上で脂を滴らせている。一本千円以上という値札を見て、旭はそっと溜息をつき、その匂いだけを胸いっぱいに吸い込んだ。




「すみません、これ一つ」


結局、選んだのは、店先で威勢のいい声が響いていた揚げかまぼこだった。


ほんのり甘く、魚の旨味が詰まった熱々のかまぼこを頬張りながら、またぶらぶらと歩く。


それだけで、少しだけ旅人らしくなれたような気がした。




やがて、彼女のお目当ての店が見えてきた。


川沿いに開かれた、趣のある茶屋だ。縁台に腰掛け、差し出された盆を受け取る。


屋号が書かれただけの素朴な包装紙。それを開くと、艶やかなこし餡の表面に、すぐそばを流れる川の清流を模したという三筋の跡がつけられた、名物のあんころ餅が二つ、行儀よく並んでいた。




一つを口に運ぶ。


滑らかな餡の上品でしっかりとした甘み。


その奥から現れる、驚くほど柔らかい餅の食感。


不確かな未来への漠然とした不安、その苦い味に対する、束の間の、しかし完璧な解毒剤のようだった。


添えられた香ばしい番茶が、口の中に残る甘さをすっきりと洗い流していく。


「……おいしい」


心の底から漏れた言葉に、彼女は少しだけ笑った。







お盆を返し、旭は再び石畳の道をゆっくりと歩き始めた。


賑やかな町並みを背に、川の流れに沿って歩みを進める。


道の先、木々の向こうに、ひときわ大きく荘厳な木造りの鳥居が見えてきた。


この地の中心、天を照らす大御神様を祀るという、内なるお宮の入り口だ。




神域へと渡る、巨大な木造りの橋。


そのたもとの鳥居の前でも、彼女は同じように深く一礼し、神域へと足を踏み入れる。


橋板を踏みしめる一歩ごとに、町の賑わいが嘘のように遠のき、神聖な静寂が辺りを支配していくのがわかる。


橋の下を見下ろせば、聖なる川の清らかな流れ。その水面は、春の光を受けてきらきらと輝いている。




橋を渡りきると、玉砂利が敷き詰められた、どこまでも続くかのような広い参道に出た。


すぐ右手には、先ほどまで町の喧騒と共にあった川が、今は静かに、そして神々しく寄り添うように流れている。


多くの参拝者が、川岸に設けられた石畳の洗い場で、その清らかな水に手を浸し、身を清めていた。


旭もそれに倣い、川面に手を差し伸べる。ひやりとした水の感触が心地よかった。




参道を進む。見上げるほどの巨木――杉や楠が天を覆い、心地よい春の日差しを木漏れ日に変えている。


ひやりと涼しい風が、芽吹いたばかりの若葉の香りを運んできた。


お参りを終えた後も、旭はしばらくその場を離れがたかった。


人の流れから少し外れた場所にある、ひときわ大きな楠の木の前に、彼女は吸い寄せられるように立ち尽くす。


幹に手を触れると、ざらりとした樹皮の下に、幾星霜を経てきた力強い生命の脈動が感じられる気がした。




「私、これからどうすればいいのかな……」


旅は楽しい。けれど、これは逃げているだけなのかもしれない。


答えなんて、どこにもないのかもしれない。


目を閉じ、ただ静かに、この聖域の気に身を委ねた、その瞬間だった。




ふっ、と音が消えた。


今まで耳に届いていた、風が木々の葉を揺らす音も、遠くで鳴いていた鳥の声も、人々のざわめきも、全てが嘘のように途絶えた。まるで分厚いガラスの向こう側にいるような、絶対的な静寂。




次に、光が変わった。


閉じた瞼の裏で、春の柔らかな木漏れ日がまるで意思を持ったかのように、黄金色の凝縮された一筋の光となって自らの額に注がれるのを感じた。


熱くはない。だが、魂の芯まで届くような、抗いがたい温かさ。


目を開けることができない。身体の自由が、完全に奪われている。




そして、「言葉」が来た。


それは鼓膜を震わせる音ではなかった。脳に直接響く思念でもなかった。


世界そのものが、歌っていた。


楠の木の脈動が、玉砂利の一つ一つが、風の粒子が、光の粒が、全てが同じ意味を成し、一つの巨大な意志となって、旭の魂に直接その意味を刻み込んでくる。




……錆は、満ちる……


大いなる災いが、近づいている……




畏れ。あまりに巨大で神聖な存在を前にした、原始的な感情が旭の全身を支配する。




……始まりの子を探しなさい……


だが、道は閉ざされている……


まずは、導き手を得なさい……


三本足の烏が眠る、甦りの地へ……




……熊野へ……




最後の言葉が刻み込まれると同時に、凝縮されていた黄金の光がふわりと解けていく。


堰を切ったように、世界の音が耳に流れ込んできた。ざわめき、鳥の声、風の音。あまりの音量に、一瞬耳がくらむほどだった。




「はっ、……はぁっ、はぁっ……!」


旭は楠の幹に背を預けるようにして、その場にへたり込んだ。膝が笑って力が入らない。全身は汗でぐっしょりと濡れていた。ほんの数十秒の出来事だったはずなのに、永遠とも思える時間を生きたような疲労感があった。


だが、恐怖だけではない。


空っぽだったはずの心の中に、熱い何かが確かに灯っていた。




「熊野……」


震える唇で、その言葉をなぞる。それはもうただの地名ではなかった。自分の魂に直接刻まれた、最初の道標。


彼女はもう一度、深く楠の木に一礼すると、おぼつかない足取りで、しかしその瞳には確かな光を宿して参道を戻り始めた。


キャンピングカーの運転席に座ると、カーナビの画面に新しい目的地を打ち込む。




【目的地:和歌山県・熊野地方】




東雲 旭、18歳。


彼女の本当の旅が、今、この伊勢の地から、確かな意志を持って始まった。

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