第25話 夢路(2)


 気づけば、他の人間たちも消えていた。いや、あれは人間だったのだろうか? 到底、生きているとは思えなかったが……


「はは、生きてんのか、マジかよ……」


 ずるりと手が離れて、青年がその場に崩れ落ちる。イリスがハッと振り向くと、彼は青を通り越して白くなった顔で、二の腕を押さえていた。


 ぜいぜいと息を荒くする青年を見下ろし、イリスが素早く膝をつく。


「大丈夫、少しだけ待って」


 冷静に声をかけ、躊躇なくドレスの裾を引き裂いた。青年がぎょっとするのも構わず、その下のパニエから軟膏の入った瓶を取り出す。


「何を……」

「黙って。これ、よく効くけどすごく染みるのよ。大声をあげたら、さっきのよく分からないものが来てしまうかもしれない」


 言って、男の口にドレスの切れ端を噛ませる。訝しげにした彼の傷口に、取り出した軟膏を躊躇なく塗りつけた。


「――っ!」


 咄嗟にドレスを噛み切らんばかりに噛み締め、青年は少女に縋り付く。反射的に掴まれた腕が、ギリギリと締め上げられた。

 骨が折れてしまうのじゃないかと錯覚するほどの痛みだ。だがイリスは僅かに顔をしかめ、痛みにただ耐えた。彼の大きな背を、安心させるように撫ぜる。


「大丈夫よ、絶対に治るわ。これ、私の主治医のお墨付きなの」

「ぐっ、ぅゔ……!」


 イリスにとっては慣れた痛みなのだが、彼はそれどころではなかったらしい。不意に、噛ませた布がぶちぶちとちぎれる音がした。唖然とするイリスの目の前でぐわりと口が開く。

 気づけば、青年はイリスの肩に噛みついていた。


「っ!」


 鋭い痛みが肩口に走る。だが、首を狙われたときに比べたら痛くない。少女は無理やり痛みを無視して、青年の頭を抱えた。


「大丈夫、大丈夫よ」


 数分経って、ようやく青年は落ち着いたらしい。呆然と口を離した彼の傷口は、すでに血が止まっていた。

 イリスは頷き、新たに引き裂いたドレスを包帯代わりに傷に巻き付け、結び目を作る。青年は息を荒らげながら、大きく息を吐いた。


「お前、これ、なんのつもりだ……」

「何って? 私を助けてくれたのだから、お礼にこれくらいはすべきだわ。痛みは引いた?」


 彼は訝しげに眉を寄せながら傷を見る。一拍して、驚きに目を見張った。


「……痛くない」

「良かった。やっぱり効くのね。ええと、これもあげるわ。飲めば一晩は痛みも感じずに眠れるわよ」


 彼は、イリスが差し出した小瓶の中の液体を、ためつすがめつ眺める。


「……毒か?」


 イリスは仰天した。


「失礼ね、鎮痛剤よ!」


 咄嗟に叫ぶと、肩の傷がじくりと傷み、思わず顔をしかめる。手を当てると、ぬるりという感覚がした。多分血が出ているのだろう。

 雑にドレスで傷口を押さえていると、青年が罰の悪そうな顔で手を伸ばしてきた。裂いたドレスで手際良く傷口を縛ってくれる。


「あら、ありがとう」

「……なんで俺に、こんなことした。お前、貴族だろ。このドレスなんか、きっと俺より高く売れる」


 何を言っているかよく分からず、イリスは首を傾げた。


「私のドレスよりお前の傷でしょ、どう考えても。大丈夫よ。傷に効く軟膏も、薬もまだまだあるわ。私が何回命を狙われたと思ってるの」


 疑り深そうな視線で、男は尋ねた。


「何回なんだよ」

「そうね、毒は三日に一度は盛られているし……あ、刺されたことあるわよ。ほら」


 ドレスの袖をまくった。さらされた両腕には刺傷が五つ。右手に三本、左手に二本だ。青年はぎょっと身を引いた。

 信じられないという顔で、青ざめたまま問いかけてくる。


「……誰に」

「分からないわ。私が死ぬと得をする誰かよ」

「得って、なんだよ」

「さあ? 地位か、お金じゃないかしら」


 淡々と言うイリスに青年は絶句した。はくはくと口が動く。


「怖く……ないのかよ。お前、さっき、死にかけてたんだぞ。そもそも、まつろわぬ民の住む場所に、のこのこ入ってくるなんて、意味わかんねえ」

「あら、やっぱり私、死にかけていたの?」


 イリスはあっさりと言った。やはりあの危機感は合っていたらい。侍女が首を絞めてきたときと同じ感覚だった。


「でも、お前が助けてくれたわ。私、悪運は強いのかもしれないわね」


 青年がひゅっと喉を鳴らし、再び閉口した。

 そういえば、この男の名前を聞いていないなとイリスは思った。一国の王女を救ったのだ。今は無理かもしれないが、後で礼をすべきだろう。


「……お前を殺して、金になるなら」


 ふと、低い声が耳に届いた。青年の手が、イリスの首元に触れている。


「俺がお前を殺すとは、思わなかったのか?」


 イリスはそのとき初めて、青年の目を真っ直ぐに見た。血のように赤い瞳だ。その目に、言いようのない苛立ちが混ざっている気がして、イリスの肩が反射で震える。

 だが、すぐにそれは収まった。彼が自分を殺すとは思えない。何故だろう? 分からないのに、確信があった。

 ただの勘だ。だが、イリスは己の勘を疑わない。


「……私はまだ殺される訳にはいかないわ。どうすれば、殺さないでいてくれる?」


 青年は笑みを浮かべた。笑っているはずなのに、何故か、泣きそうだと思った。


「お前を殺すよりも価値のあるものを、お前が俺にくれるなら」


 少し困惑して、黙り込んだ。自分を殺すより、価値のあるものを?

 しばし考え、イリスは静かに焦りだした。まずい、何も思いつかない。この国で今、最も金になるのは己の命であるという確信がある。


 青年はせせら笑うように告げる。


「お前を殺すと金になるんだろ。地位とかはよく分かんねえけど……そんなもんよりもっと高いもんを、俺にくれよ」


 イリスは懸命に考えたが、思いつかなかった。そもそも、未だに何も成せていないイリスが、差し出せるものなど限られている。

 イリスはこくりと喉を鳴らして、慎重に尋ねた。


「……何が欲しいの?」

「……お前を」


 ぽつんと呟かれた言葉に、イリスはぱちり、と瞬いた。


「お前をくれよ。俺、お前の命を助けたろ」

「それは……殺したい、ということ?」

「ちげぇよ、箱入りだと分かんねえのか?」


 からかうように笑って、しかしイリスが何も分かっていないことを察したのか、男は真顔になった。


「お前の命は高いんだろ。殺されるくらいの価値が、あるんだろ」


 困惑しながら頷く。何が言いたいのか分からない。


「でもお前は、俺を助けた。まつろわぬ民に殺されかけてたくせに、まつろわぬ民から俺を守ろうとして、実際、追い払っちまった。ありえねえ。死神辺境伯でもねえのにあいつらと戦うなんて、ただの馬鹿のすることだ。なのに……」


 そこで言葉を切って、ザグレウスは押し黙り、イリスを見る。痛みをこらえるような顔で笑う。


「お前は、俺が薄汚いただの貧乏なガキでも、どこぞの王子でも、同じように俺を助けたか?」

「当たり前でしょう」


 イリスは即答した。何を当然のことを問うているのかと思った。


「あなたは私が守るべき、ディルクルムの民よ。なら、助けるのに立場も見た目も関係ないわ。あなたを傷つけたあの男を、私は許さないわよ。今から助走つけて殴りに行ったっていい」


 ははっ! と弾けるように笑って、青年はイリスの、怪我をしていないほうの肩を掴んだ。


「じゃあやっぱ、お前がいい。お前が欲しい。お前みたいな女が隣にいたら、俺は、俺に価値があると思っていいだろ……」


 正直、イリスには、彼が何を言っているのかがいまいち分からなかった。だが漠然と、この男が自分を欲していることは分かった。


 だが、問題がある。イリスは王女なのだ。


「……分からないわ。私、自分で自分をあげられる立場にないの。この身は国の所有物だから。それに、じゃあ私を『あげる』ことになったんだとして、平民に私を下賜かしできるかどうか……」

「貴族なら?」

「え?」

「俺が貴族なら、許されるのか」


 よく分からないながらに頷く。


「そう、ね。貴族なら、少なくともあなたを従者にすることもできるし、どうにかすれば、下賜かしだって……え、あなた、貴族なの?」


 見た限り、男の服装は普通の平民のものだ。しかも少し薄汚れている。多分、あまり良い生活はしていないのだろう。よく見れば、手も足も擦り傷だらけだ。

 青年は答えず、かすかに口角を上げる。


「なら、俺が貴族としてお前のことを見つけたら、お前を俺にくれよ」


 いいよな? という念押しに圧を感じる。思わず一歩後ずさった。


「け、結婚してるかもしれないわ、私」

「その前に見つける。お前今いくつだ」

「え、き、九歳……」

「九……見えねえな……貴族っていつぐらいに結婚するんだ」


 イリスは問われるままに答えた。


「……婚約なら十前後でもおかしくないわ。今の私はそれどころではないから、婚約もしていないけれど……結婚自体は、時期もあるけど、十八くらいかしら」

「あと九年か……」


 何か、話がものすごく進んでいる気がする。


「待って、私……」

「くれないのか? お前を助けた礼を」


 ぐっと言葉に詰まる。そう言われると、弱い。

 唇を噛んで黙り込んだイリスに向かって、ザグレウスは楽しげに笑う。


「なあ、お前、名前は? 名前くらい知っておかねえと、貴族になってもお前を見つけられなかったら困る」


 イリスは一瞬ためらった。この青年を巻き込んでしまわないかと怖くなったのだ。

 だが、彼はイリスの目をじっと見て、逸らさない。手を離す気配もない。途方もない時間が経っても、彼

は永遠にイリスを見ていた。

 結局、根負けしたのはイリスのほうだった。


「……イリス。イリス・ヴィエーラ・ディルクルムよ」


 青年は目を見開いた。名前に国の名を背負うというのがどういうことか、分からないわけではないだろう。


「私が誰かを知っても、私が欲しいの?」

「ああ。お前じゃないと嫌だ」


 即答されて思わず苦笑する。一体何が、彼の琴線に触れたのだろう?


「それなら、いいわ。私もなるべく、隣の席は空けておくから」

「信じてねえな? まあいい。お前が十八になる前に、貰いに行く」

「そう。あなたこそ、名前は?」

「ザグレウス」


 男は端的に己の名前を口にする。ザグレウス、と復唱すると、彼はくしゃりと顔を歪めて笑った。


「今はただのザグレウスだけど、そのうちカルニフェクの姓がつく。覚えとけよ、お姫様」

「カルニフェク……」


 習ったような気がする名前だ。どこの貴族だったか……

 しかし、思い出すより先に、背筋を唐突な冷気が撫でた。ぞくりとした肩を押さえる。

 ザグレウスが舌を打ち、イリスの腕を掴んだ。


「くそ、あいつらが戻ってくる。おい、ここにいたらまずい。こっち来い」


 彼は迷いのない足取りで歩き出した。何も言わずについていくイリスに向かって、顔だけで振り向いて告げる。


「約束、忘れんなよ、イリス」

「……ええ……」


 ああ、とイリスは懺悔した。忘れないと約束したのに、覚えていられなかった。傷つけられた記憶の中に埋もれて、彼の温かな温度も忘れていた。

 引かれた手の力強さも、全部、忘れていたのだ。


 後悔が形になった瞬間、目の前が白く弾けた。


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