第23話 予感
アダム・ザイードは
「弱くなったな、今の術士は」
足元に跪き、ひたすらに祈りの言葉を呟く術士を見つめて、アダムは呟いた。
「私の術は既に、術士にしか効かないように変質したが、能力自体は変わっていない。今お前が見ているものは、お前にとって心底大切な存在――お前の心の中にある神の姿だ。崇めるものであって、恐れるものではないはずだが」
尊大とすら言えないような、淡々とした声がその場に響く。倒れた術士はもはや祈りの言葉すら言えなくなっていた。ぐるりと目を回し、白目のまま赤子のように唸り続けるばかりだ。
相変わらずエグい力だな、とザグレウスは思った。
アダムの能力は至ってシンプルだ。相手にとって最も大切な存在を、もしくは大切にしたいと願う存在を見せること。それ以上でもそれ以下でもないが、故に強固だった。誰だって、戦場に大切な人間が現れたら驚く。
本物にしか見えないその人が、本物としか思えない声で「行かないで」と言う。本物としか思えない感触で手を握り、肩を抱き、時にはすすり泣いて、危ないことはするなと懇願する。それだけで、大抵の戦士は動きを止めるのだ。戦場では自殺行為だと分かっていても。
それでも、アダムの術にかかった人々は泣きながら戦意を失う。恐怖でも痛みでもなく、愛情によって戦場を支配するのが、アダム・ザイードのやり方だった。
今やその力も術士にしか効かないが、それでも十分だ。何せ、術士にとって最も大切な存在は人間ではない。
彼らが心を預けるのは神だ。術士はそれぞれ、術が発現する際に己の神を見て、その神々しさに心を強制的に明け渡す。その忠誠に報いるように、神が術を与えるのだ。
だがその代わり、神の姿を見た瞬間に発狂し、そのまま戻ってこられなくなる者も少なくない。
アダムが言うには、神とは、宗教画に描かれているような美男美女ではないらしい。アダムが見た神は、大きな一つ目を腹に持ち、十の翼を生やした大鷲の姿をしていたという。
皮肉なことに、術士であるはずの彼の力は、同じ術士に最もよく効くのだった。
彼の足元に転がった術士が早々に気絶した。夜会で見せていた傲慢な態度は見る影もない。
ザグレウスはそれを見つつ、奇妙な違和感を覚えていた。横から斬りかかってきた男を切り伏せ、首を傾げる。
「……変だな」
ぐるりと辺りを見回す。そこかしこから
アストラスへの謁見まで取り付けたテンペスタが、ここで騒ぎを起こす意味がわからない。確かに、自分はカルニフェク辺境伯だ。捕らえて交渉材料にする手もあるだろう。
だがテンペスタの軍はあまりに弱かった。おそらく術士が数名と、国境近くの丘を埋め尽くすほどの人間の軍勢。だがそんなもの、レ・ヴァリテにいる「傷持ち」の敵ではない。
そこら中に打撃や斬撃の音が響くものの、倒れているのは普通の人間ばかりだ。そもそも罪人たちはもう死なないのだから、当然ではある。
レ・ヴァリテに喧嘩を売ること自体が無謀なのだ。
それだけがずっと違和感として残り続けている。虫が体の中を這っているような。
考えながら、ザグレウスは立ち向かってくる兵士たちを切り伏せる。蛇のように剣筋がうごめく。頭のどこかがずっと冷静だった。何か、嫌な予感がしていた。
そして、それは不意に的中する。
「……イリス?」
目の前の人間をひと通り叩きのめした直後、脳天を何かに引かれるような奇妙な感覚を覚えた。
後ろを振り向く。
そこに彼女はいなかった。相変わらず、むせぶような血の匂いと、怒号と、武器の交わる景色が続くばかりだ。当たり前だった。
だが事実を受け止めて一拍、ざっと血の気が引いた。
「領主、どうした」
アダムの声が耳を素通りしていく。ザグレウスは戦場の真ん中で棒立ちになって、屋敷のほうを凝視していた。
「イリス」
口から名前がこぼれ出る。皮膚が泡立ち、背筋を冷たいものが撫でた。
――離れていく。
「イリス!」
彼女の魂が遠ざかっていくのが分かる。
この感覚を自分は知っている。つい先日、彼女が脱走者を追って自分の元から離れたとき、この感覚を頼りに路地を駆け抜けたのだ。
冥婚を経て、今のザグレウスはイリスがどこにいるのか、感覚的に分かるようになっていた。彼女を見失うはずがない。
だが、だからこそ、彼女が有り得ない速さでこの街から遠ざかっていくのが分かる。
人の速度ではない。ならば、おそらく本人の意思ではない。
何かあってこの街から離れているなら、フィニが伝え鳥を飛ばすはずだ。それがないということは――
「クソが! イリスが
ザグレウスは、怒号混じりの声を上げた。
「こっちが陽動だ、クソ……! 手が空いてる傷持ちは気絶してる奴を何人かふんじばっておけ! 今から俺はレ・ヴァリテを出る!」
アダムが横で首を傾げる。
「いいのか、領主。まだ数では押されているが」
アダムの言う通り、国境防衛戦はまだ終わっていなかった。術士は全員が気絶しているだろうが、それを抜きにしても、兵士の数の多さといったらない。
傷持ちはそれぞれが一騎当千の力を持つが、それでも時間はかかる。未だに、この場にいる『傷持ち』よりも敵方の数の方が多い。
だが、ザグレウスは据わった目で呟いた。
「もういい。奈落を出す」
いつの間にか、ザグレウスは右手に、銀糸で編み込まれた手袋を嵌めていた。そのまま素早く片膝をつくと、右手の手のひらをばんと地面に叩きつけた。
「第三十二代目カルニフェク伯爵家当主、ザグレウス・カルニフェクの名のもとに誓約する! これよりこの地に、緊急の『縛り』を課す!」
それは、あまりにも唐突だった。
ずん、と、足元が震えた。
同時に、罪人たちがつまらなさそうに鼻を鳴らし、肩を落とした。ああ、もう終わりか――と、誰かが呟く。
テンペスタの兵士たちは、戦っている相手の変化に気がつく暇すらなかった。断続的に足元が揺れている。咄嗟に下を見るが、何もない。
何もないのに、何かが。
そこに、何かが。
「怒り、猛り、叫び、惑う――奈落の女王よ、底の主よ」
ばち、と、ザグレウスの黒髪が雷のように爆ぜた。
「この地はあなたの座すべき戦場、この空は声なきあなたの冠」
ヴゥ、ン、という音がして、足元に陣が花開いた。銀色の線が縦横無尽に地を駆け、完璧な円と線が大地を蹂躙する。
高らかに、東方国境の主が叫ぶ。
「あまねく罪人の母たる者よ、今ここに、閉ざされた奈落の門を開け!」
一瞬、全ての音が消えた。
そして、声が。
おぞましいほど低く、重く、どす黒い咆哮が、その場を満たした。
「っ!」
テンペスタの兵士たちが、一斉に体勢を崩した。
頭が芯から痺れるような叫びが聞こえる。それが嘆きなのか、怒りなのか、慟哭なのか、誰にも分からない。人のものではありえない声だ。
そして、陣がどろりと溶けた。
そこにいる人間が、一人残らず目を見開いて地面を見る。銀色の陣は輝きを増して、ずるりと、そこから何かが這い出してきた。
それは泥の色をした手だった。骨に泥をまぶしてどうにか人の形を保っているような、歪な形をしている。よく見ると腕だけではない。足もある。それどころか、頭も。
ぐちゃぐちゃに溶けた人間のような何かが、地面の下から無数に這い出てくる。
「今ここに、奈落が座した。これより先、この地は
ザグレウスの言葉に呼応するように、人の形を成していない何かが敵兵たちに襲いかかった。足を掴み、腕を掴み、悲鳴が上がる人間たちの合間を縫って、地面に引きずりこもうとする。
人が、泥の海に沈んでいく。
そして唐突に、人々の頭上に影がさした。
「はは、はははは、はははははははははは!」
大地に、美しく、残酷な声が響き渡った。
ザグレウスはゆるりと顔を上げる。そこには、予想通りの顔があった。
「ようやく
「お久しぶりです、奈落の女王」
ザグレウスが軽く頭を下げるのと同時に、それはにい、と
美しい女が、その身一つで宙に浮かんでいる。紅を引いたつややかな唇と、全てを飲みこむような金色の瞳。
「……ああ、良い悲鳴だ。妾の足元に
女は
「女王、来てもらって早々で申し訳ありませんがね、俺は今からここを離れます。傷持ちを何人か置いていくんで、好きに暴れて、気が済んだらお帰りを」
雑に言い放ったザグレウスを見下ろし、女王はけたけたと笑う。
「おや、おや、おや、おや……珍しいのう。お主がそれほどに余裕をなくすのは」
彼女はぎらりと金の瞳を瞬かせ、実に楽しげに目を細めた。
「ふふ、ふふふ! お主のような男がそのような顔をするとは、余程のことと見える。女にでも逃げられたかえ?」
「……
「ふむ。妾の血を引く女を
にたり、と笑う女を見上げる。
奈落の女王は、尊大な名前をつけられてはいるが、その実、レ・ヴァリテの罪人たちと同じ存在である。
その名を、マリアーナ・セヴェス・ディルクルム。
数百年前、ディルクルムに女王として即位した女だ。起こさなくていいはずの戦争を勃発させ続け、あらゆる場所を血で染めあげたと言われる稀代の悪女。ひっそりと冥府刑に処され、今は奈落の女王として、この土地の下に眠っている。
イリス・ヴィエーラ・ディルクルムの、先祖にあたる人物である。
「まあよい。妾もちょうど退屈しておったところよ。好きに暴れるとしようかえ」
彼女はにたりと笑ってから、戦場の真上を、舞うように飛んでいく。どんな体勢だろうと姿勢は真上から吊り下げられたように美しく、指先まで洗練された動きをしている。高貴な人間としての立ち居振る舞いが、心の臓にまで刻みこまれた者の姿だった。
彼女はまさしく冥府の女王だった。ひとたびまなざしが戦場に届くだけで、新たに悲鳴が響く。
泥のような何かに腕や足を掴まれるたび、真上を飛ぶ「奈落の女王」の哄笑が響くたび、一人、また一人と敵兵たちはくずおれていった。傷持ちたちが肩を竦めて真上を見る。今やこの地は女王の独壇場だ。罪人たちが戦う間もなく、敵が勝手に沈んでいく。
ザグレウスほその光景を平坦な目で見つめると、踵を返して歩き出す。
イリスの気配は既に、随分と遠ざかっていた。
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