第20話 夜会


 つまらない夜会だ、と男は思った。

 夜会会場であるカルニフェク辺境伯の屋敷、その大広間はひどく質素だった。申し訳程度にいくつかあるシャンデリアと、端々に飾られた燭台が明かりを灯しているが、夜会というには煌びやかさが足りない。

 壁や天井にも装飾がほとんどなく、会場に点々と置かれた花々のみが彩りを添えている。床も丁寧に磨かれてはいるが、それだけだ。


 自分たちをもてなすための夜会だというのに、楽団や曲芸のひとつもなく、会場には数名の奏者が儚い音を奏でるのみだ。これでは夜会というより葬式では? と男は思う。


 男は術士である。幼いころにテンペスタの教会に引き取られ、数々の殉教者を象ったステンドグラスがひしめく講堂の中で、彼らのようになりなさいと再三言い聞かされて育った。戦場は男にとって大舞台だった。美しく生き、美しく死ぬための。

 男は、十二で信仰心を得て、術士となった。おぞましくもおそろしい神が、頭の中で天使たれと囁くのを聞いたのだ。


 幸運なことに、男が得た力は戦争に向いていた。

 術士は信仰により力を得る代わりに、一人につき使える術は一つだけだ。そして、使うたびに寿命が縮む。諜報に向いている力を得たせいで、戦場に出られず死んでいく術士を何人も見てきた。影のように死ぬのはごめんだった。

 だから、戦場で死ねる自分は幸福だと思った。神の御許に行く前に、神のために敵を殺せるのだ。


 だというのに……


 男の視線の先には、一人の貴族がいる。闇を塗り込めたような漆黒の髪と、深紅の瞳を持つ男。この土地で死人の管理をしているカルニフェク辺境伯だ。

 彼を見つめて、ぎりと奥歯を噛み締める。この地で罪人と呼ばれる者たちの中には、術士のような力を振るえる者もいるという。本来それは、神のために使われるべき御業みわざのはずだ。それなのに、カルニフェク辺境伯はその力を独占している。許されざる大罪だ。


 自分が何をすべきかを頭の中で反芻はんすうして、男は一歩を踏み出す。


「初めまして、カルニフェク辺境伯。お会いできて光栄ですよ」


 カルニフェク辺境伯――ザグレウス・カルニフェクはわずかに目を見張り、薄い微笑みを浮かべた。


「こちらこそ。会えて光栄です、ヴァトゥス卿。テンペスタでも名高い術士である卿に来ていただけるとは」

「私などまだまだ若輩でしょう。術士になってたった七年です。我が国でも貴族として扱われてはいますが、所詮は庶民上がりの卑賤な身、爵位も一代限りのものです。先祖代々、爵位を受け継ぐあなたとは……おや、失礼」


 いかにも言葉を間違えたと言わんばかりの微笑みで、男は眉を下げた。


「当代のカルニフェク辺境伯も、貴族出身ではないのでしたな」


 ザグレウスは柔和な笑みを浮かべた。


「ええ。若輩と仰いますが、私も辺境伯を賜ってから五年ほどしか経っておりませんので」

「おや、そうでしたか? ですが、カルニフェク辺境伯の名はこちらでも有名ですよ。この規模の罪人を一人で取りしきっておられるのでしょう? 王城からの招待にも応じられないほど忙しいのだとか」


 ちくりと刺すような物言いはもちろんわざとだ。どこの国だとしても、王族の開く晩餐会に五年も応じないなどとは聞いたことがない。


「さすが、死神辺境伯と呼ばれるだけはある。王族よりも死人を優先せねばならないとは、難儀な仕事でしょう」


 優雅な笑みに毒を含ませ、男はザグレウスを挑発した。彼は平民出身の無頼漢という噂だ。ここで激高してくれたほうが都合がいい。王太子の謁見のときに有利に働くだろう。

 だが、ザグレウスが何か言う前に、凛とした声がその場に響いた。


「まあ、本当にテンペスタの誇る術士の方に来ていただけるなんて、思ってもみなかったわ。レ・ヴァリテは随分とお兄様からの信頼が厚いのね」


 咄嗟に声のしたほうに視線をやり、男は怪訝な顔をした。


 ……誰だ?


 夜と朝を混ぜ合わせたような、深紫のドレスを纏った少女が、優雅にこちらへやってくる。体のラインを強調する、艶かしいマーメイドドレスだ。夜会には似合いだが、年頃の貴族女性が着るにしてはあまりに挑戦的である。

 しまいには、彼女の顔はほとんどが薄紫のヴェールで覆われ、さらに扇で口元を隠されていた。レ・ヴァリテではこのような格好が流行っているのだろうか?


 困惑する男の前で、少女はカルニフェク辺境伯の隣に並び立つように足を止めた。その所作は一級品で、こんな辺境の地にいる令嬢とは思えない。同じ貴族でも、教育の差が必ず所作に現れるものだ。

 天から糸で釣られたように立つ少女は、くすりと笑ったようだった。


「あなたがテンペスタの術士ね? まあ、本当に白い衣装を着ているのね。戦場でひとつも血を被らない証明として、術士は白を好むというのは本当なの?」

「姫様、お戯れを。他国の貴賓ですので」

「あら、分かっているわよ。お前は本当に口うるさいわね」


 やや不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ぽかんとしている男に向き直り、少女は優雅なお辞儀カーテシーをしてみせた。それもまた、十分な高等教育を受けた娘の所作である。


「初めまして、ヴァトゥス卿。私の名はイリス。イリス・ヴィエーラ・ディルクルムよ。ここまで言えば分かるかしら?」


 見えないヴェールの奥で、少女が婉然えんぜんと微笑んだのが分かった。男の顔からざっと血の気が引く。

 イリス・ヴィエーラ・ディルクルム。

 それはまさに、この国の第一王女であり、悪名高い、傾国王女の名に他ならなかった。




◇◇◇


 イリスが名乗ると、あからさまに術士に動揺が走った。その後ろで控えていたらしい護衛や従者も、数名顔をこわばらせている。

 一代限りの爵位というのは本当らしい、とイリスは冷めた頭で思う。これでは社交界のような腹芸はできまい。動揺が顔に出すぎだ。


「お、王女殿下……失礼いたしました。あなた様が、このような地にいらっしゃるとは存じず……」

「あら」


 イリスは小悪魔のような笑みを浮かべ、小首を傾げた。


「私がここにいてはいけない?」

「まさか、滅相もない! ですがこのような、罪人の多く留まる地に、御身のような尊い方がいらっしゃるとは」


 ありえないくらいの失言である。そこかしこで働く使用人たちがぴくりと反応しかけたのを、ザグレウスが無言で制した。


「体調を崩してしまって、今は療養中なの。お兄様が空気の綺麗な場所を、とここを用意してくださったのよ。もう随分と退屈だったから、こうやって夜会にも出られて嬉しいわ」


 ザグレウスが肩を竦めた。


「よく言いますよ。あれほどしつこく打診されては、頷くしかなかったというのに」

「あら、王女が夜会に出てあげるのよ。光栄に思いなさいな」

「王太子殿下に知られれば、俺が大目玉ですよ」

「お兄様のお小言くらい我慢しなさいよ、お前、私の国の領主でしょう」


 傾国王女としての振る舞いは得意だ。何も考えなくてもできるくらいに体に染み付いている。

 ヴェールで見えていなくとも、目線に下々の者への侮蔑を滲ませることを忘れない。声に婀娜あだめいた音を含ませるのを忘れない。それでいて、姿勢を美しく保つことを忘れない。

 王女としての最低限の気品と、周囲を悩ませる小悪魔レベルの傍若無人さ。二つが同居した態度を、母は好んだ。


「ザグレウスから聞いたわよ、テンペスタの者がお兄様へ謁見だなんて、初耳だわ。私がここに来る前、そんな話は聞いたこともないけれど。お兄様にどんなご用事?」


 にわかに術士の雰囲気が変わった。まなじりを下げ、あからさまに話題を避けようとする。


「王女殿下のお耳に入れるようなことでは……」

「あら、お兄様には言えて、私には言えないようなことなの?」


 軽やかに、しかし鋭い針のような音で、イリスは術士を刺した。


「いえ、まさか!」

「なら良いでしょう? どうせ、私も王都に帰ったら知ることになるのだし」

「ですが、私どもも、こちらに王女殿下がいらっしゃるなど、王太子殿下から一切聞き及んでおりませんでしたので……どこまでお話して良いものかと……」


 イリスは心の中でわずかに悩んだ。やはり、怪しまれている。

 アストラスに謁見となれば、事前のやり取りでレ・ヴァリテに途中滞在することも伝えているだろう。本当にここにイリスがいるのならば、その際に聞かされているはずだと暗に言っている。ここにいるのは、本当に第一王女なのかと、勘ぐっているのだ。


 イリスは心の中で嘆息した。実態はもう少し複雑だ。一国の王女が処刑され、罪人として魂のみの存在になっているなど、予想できるはずもないだろう。


 ヴェールで顔を覆わなければ、あるいは信じただろうが……しかし、素肌を見せれば、死者特有の燐光があることも知れてしまう。

 数瞬でこれらのことを考え、イリスはぱちりと扇を閉じた。目を伏せ、瞬間的に哀れな声を出す。


「あら……もしかして、私が本当に王女なのか、お疑いになっているのかしら。悲しいわ」

「いえまさか、そのようなことは」

「では、私の声を忘れてしまったの? そちらの祭典に伺って、術士の方々の前で挨拶をしたこともあるというのに……あまりに薄情ではなくて?」


 不意に、イリスの声の温度が氷点下まで落ちた。


「私が、王女だというのが、そんなにも信じられない?」


 人を脅えさせる声のトーンも得意だ。敵に回したら命がない人間だと、知らしめる態度も得意だった。

 全て母親から学んだ。声も、態度も、泣き方も、媚び方も。イリスがおぞましい声で侍女を責めているのを見るとき、母はいっとう嬉しそうだった。

 ……多分、本当は分かっていた。母の振る舞いが、無意識ではないこと。

 母は、イリスを傾国王女にしたかったのだ。王女としての素養を持ちながら、自分から離れていかない程度に人に嫌われる娘が、欲しかったのだ。


 術士は取り繕った笑みを浮かべ、首を大きく横に振った。


「いいえ、いいえ、まさか。ですが記憶している限りでは、王女殿下は、そのような暗い色のドレスをお好みになられてはいなかったはず。そのヴェールも、あまりに御身の美しさを損なっておられる――」


 不意に手が伸びてきて、イリスは驚く。

 おそらくは、下級貴族の娘か誰かが、王女を騙っていると思ったのだろう。男の手は、明らかにヴェールを剥ごうとする動きで、イリスへと伸ばされていた。

 あの声で怯まないとは、随分と胆力のある男だと一瞬感心してしまう。そのせいで咄嗟に反応できなかった。


 だがその刹那、ばしんと小気味のいい音がした。


「不敬だ、卿」


 ぞっとするような声で、ザグレウスが男の手を叩き落としていた。イリスはぽかんとザグレウスを見つめる。

 イリスの声が氷だとしたら、こちらは焔だった。喉の奥で炎が燃えている。明らかに本気の怒りを滲ませて、ザグレウスが術士を見ている。

 術士は怯んだ様子で口をつぐんだ。刃を突きつけられたように、こめかみにわずかに冷や汗をかいている。


「我が国の花である王女殿下を疑い、あまつさえ軽率に触れようとするなど、手首を切り落とされても文句を言えん。卿は自分が何をしたか分かっているのか?」


 言いながら、ザグレウスはイリスの肩を抱き、己のほうへと引き寄せた。いやお前も触れてしまっているけれど……? とイリスは思った。

 ふと、自分の肩を抱く手を見る。背に回された腕は温かかった。肩を掴む手は大きかった。そうだ、この男の手は大きい。イリスの手を掴めば、指先すら見えなくなるほど。

 力が強くて、足から力を抜いても立てそうだ。

 人に支えられるというのは、こんなに楽なのかと思った。


 ふっと笑みがこぼれる。くふくふと笑って、イリスは彼の胸を手でとんとんと叩いた。


「ふふ、いいのよザグレウス。花に蝶が集まるのは自然なことだわ」


 だが、彼はイリスを離そうとしない。仕方がない男だと思うのに、何故か、たしなめようという気持ちにはならなかった。

 ふと、顔をしかめながらも未だにじっとイリスの顔を見てくる術士に、奇妙な違和感を覚えた。まるで、何かを見定めるような視線だ。これは本当に王女なのかと言いたげである。


 もしかして何か、他にもイリスを疑う理由があるのだろうか?

 

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