第16話 誰がための傷


 目が覚めたとき、イリスは知らない部屋に寝かされていた。

 部屋に明かりはない。窓からさしこむ青い月の光だけが、白い指先を照らしている。


 月が近い、とイリスは思った。


 王都ではこれほど近くに月が見えたことはなかった。傾国王女として名高かったイリスは常に暗殺の危機にさらされていたので、窓に近寄ること自体を固く禁じられていたのだ。

 綺麗だ――とぼんやり思って、何も考えずに窓へ手を伸ばす。


「動くな、姫いさん」


 思わず肩がびくりと跳ねた。咄嗟に振り返ると、イリスの傍らでずっと手を握っていたらしい男が不満そうに鼻を鳴らす。彼は寝台に突っ伏すような姿勢で、目だけでこちらを見ていた。


「びっくりした……どうして気配を消してるの、ザグレウス」

「うるせえな。動くなって言っただろ、この猪女いのししおんなが……」


 あまりの口の悪さに唖然とする。月明かりに照らされた顔が、人を殺しそうなほど凶悪に歪んでいる。

 彼は蛇のようにゆっくりと頭をもたげると、無言でイリスを睨んだ。


「姫いさん、俺は言ったよな? きちんと休めって。あれは別に社交辞令じゃない。『傷が発現したから』休めと言ったんだ。なのにいつの間にか部屋から抜け出すわ、墓地に侵入するわ、挙句の果てに傷をばかすか使いやがって……そりゃ『傷酔い』もするだろうさ」

「傷……酔い?」

「死んで、『傷』を発現したばかりの人間が、考えなしに傷を行使するとそうなる。二日酔いと重い風邪がいっぺんに来る感じだ」


 すさまじい勢いで貶された気がしたが、とりあえずイリスはそれらを脇に置き、黙って彼の話を聞いた。


「だいぶ熱は下がったが、すぐにまた起き上がれなくなるはずだ。傷酔いは一日やそこらじゃ治らない」


 ザグレウスは有無を言わさぬ力でイリスを寝台に押し込むと、自分は脇にある椅子に座り直す。確かに、起きたときはだいぶ楽だったが、既に熱で頭がぼうっとし始めていた。


「くそが……あんたが、この国の民のことになると加減を忘れる人間だってことがよく分かったよ」


 ザグレウスの手は冷たかった。彼は嘆息するとイリスの手を己の額に当て、何かをぶつぶつと呟き始める。

 祝詞のりとのような言葉だ。イリスが彼と初めて会ったとき……冥婚めいこんを結んだときに、彼が唱えていた言葉に似ている。


「……それは何?」

「黙ってろ、姫いさん。集中してんだ」


 雑な物言いだったが、彼の額には汗が浮かび、握る手の力は徐々に強くなる。彼女はじっと見つめながら、この男は真剣にしていれば美しいなと思った。

 夜の闇にすら浮かび上がるほどの漆黒の髪と、不意に瞬く血のような色の瞳。きちんと仕事をしていれば美しいのに、そうでないときはどうして色々と残念になってしまうのだろう?


 顔を歪めながら言葉を唱える彼のこめかみを、汗が流れる。イリスはぼんやりとその姿に見とれた。

 彼の発する言葉だけが澄み渡った空間に響いていて、頭が勝手に思考を回し始める。イリスはつらつらと、昼からのことを思い返していた。


「ザグレウス、お前、本当に変ね」


 ぴた、と言葉が止まる。イリスは意識をかすませながら呟いた。


「死人が病にかかっても怪我を負っても、特に問題なんかないでしょう? ましてや私は罪人なのだから、尊重されること自体がおかしいわ。なのに、お前は私を好きだなんて言うし……まるで、私のことが特別心配みたい」

「あんたは頭がおかしいな、姫いさん」


 急角度で罵倒されて、思わずぱちくりと瞬く。怒りよりも先に不可思議だと心が訴えた。ザグレウスが、恐ろしいくらいの無表情でこちらを見ていた。


「あんたの使命感は異常だよ。誰も指摘してやらなかったのが不思議なくらいだ。俺は、あんた以上に自分の命を粗末にする人間を見たことがない。自分の国の民のためだったら、手足を切り落とされても笑えるんじゃねえか?」


 はは、と笑った直後、彼の顔から一切の表情が抜け落ちた。


「反吐が出そうだよ」


 イリスは反論もできずにザグレウスを凝視する。

 この男はどうしてそんな、人を殺したみたいな顔をしているのだろう?


「ザグレウス、お前、怒っているの? どうして?」

「どうして? ……どうしてって聞いたか? あんた、本当に分からねえのか?」

「無茶をしたことなら謝るわ。勝手に屋敷から抜け出して、縛りを壊したことも。お前の監督不行届を疑われるような行為を、今日だけで二度もしてしまった。それは申し訳ないと思っているのよ。けれど、なんだかそれは、お前が欲しがっている謝罪じゃないような気がするの」


 ザグレウスはほの暗い瞳で少し黙り、低く問いかけた。


「カイネスに殺されかけたってのは本当か、姫いさん」


 急に話が変わり、イリスは一瞬言葉に詰まった。


「だから、カイネスをなだめるために墓地なんかに行って、傷をばかすか使って、挙句このざまか?」

「違うわ、シオンたちを助けたのは私の意思で、私の贖罪よ」


 イリスはきっぱりと言い切った。


「王族というのは、必要なときには命を賭してでも民を守り、民の生活を支えるものだわ。だから、私はその責務を果たすべきだと、助けを求めるカイネスに応じるべきだと思ったのよ。ましてや、かつて人の上に立つ人間が、彼女を貶めたというのなら……」


 わずかに潤んだ視界をまたたかせ、イリスはまっすぐザグレウスの目を見た。


「その代償を払うわ。私は王族だったのだから」


 ザグレウスはひどく冷たい視線をイリスに向けた。冷たいのに、奥底で業火が燃えているような目だった。


「それにあのとき、カイネスは錯乱していたわ。自分の子供を理不尽に奪われたのだから、ああなってもおかしくないでしょう? 血は繋がってなくても、シオンたちの母親みたいなものなのだから……」

「そうやってあんたは、自分の母親のことも許したのか?」


 びしりと硬直する。背筋を、冷たい手でなぞられたような感覚を覚えた。


「自分を愛していると言う母親に、自分の全てを奪われて、こんな辺境に追いやられて、それも王族の責務か? 必死に愛されている子供の振りをしているのに、その実、誰からも疎まれて嫌われて憎まれて……あんたはどれくらいの傷を負ってここまで来た? どこまで背負わされたら、そんなに綺麗に壊れることができるんだ?」


 徐々に熱に浮かされつつある頭で、イリスはぼんやりと考えた。ザグレウスが今、何を思ってそんなことを言っているのかを。


「……ザグレウス、お前……何がそんなに悲しいの?」


 彼は一瞬、確かに殴られたような顔をした。しかしすぐに唇を歪める。


「悲しい? これが悲しんでるように見えんなら、あんたの目はどうにかなってるだろ」

「そう。お前がそう思うなら、それでもいいわ」


 イリスは、寝そべったまま一度目を閉じる。何故かは知らないが、彼が自分を怒らせようとしていることは分かった。


「あのね、ザグレウス。お母様はね、最初からああだったわけではないのよ。少なくとも……私が七つになるまではね」


 目を閉じる。記憶を揺り起こす。二度と戻ってはこない過去のことを。


「お母様とお父様は政略結婚だったけれど、愛し合っていたわ。お父様は側妃だって取る予定はなかったし、私の他にも、お母様は子を産む予定だったの。でも、お母様が私を産んで……あっという間にお母様は弱ってしまわれた。どれだけ手を尽くしても体の中は壊れていって、そして、もう子供などとても望めないというときになって現れたのが、お兄様と、お兄様の母親である男爵令嬢だったの」


 ザグレウスはイリスの手を振り払うことはなく、黙って話を聞いていた。


「お母様はね、少しずつ狂ってしまわれたわ。生涯で唯一愛していたお父様に……自分も同じくらい愛されていると信じていた人に……他に愛していた人がいたこと。王族には絶対に必要な世継ぎを、既に産んでいた女性がいたこと。自分はもう、対抗する世継ぎ候補を産めないこと……全てがお母様を追い詰めた。お母様は愛を信じられなくなった。私が十になるころには手遅れだったわ。かつて、王族としてのあるべき姿を説いてくださったお母様はね、もうすっかり死んでしまわれたの」


 人の上に立つべき人間は、その下にいる方々の血肉によって支えられているのですよ、と、かつての母は言った。だからこそ、いざというとき、王族は自らの手を、足を、頭を切り落としてでも、民のために国を存続させる必要があるのだと。

 民のためにあれと、そう教えた母は死んでしまった。


「お母様はね、私を上へ押し上げることに執心したわ。私が認められれば、お父様の愛が戻ってくるものだと思っていたのね。そのために私を着飾って、守って、愛していないと安心できなかったのでしょう。けれど、お母様はもうとっくに歪んでいて、私を愛しているはずなのに、私をどんどん追い詰めた。私が侍女と仲良くすることを許さなかった。婚約者との交流を許さなかった。私がお兄様に笑いかけるのを見て、お兄様のことを、いっそう恨んだ」


 哀れな人だった。イリスに子供のように微笑みかけるあの顔で、あの声で、狂ったように泣き叫び、侍女を傷つけ、国の中枢にある家の者たちを追放した。アストラスへ憎悪を叩きつけ、「イリスだけは見捨てないわよね」と泣きながら言い募った。

 遅かれ早かれ裁かれていた。あの人はもう手遅れだ。


「私を可哀想だとか言う人もいるわ。お前もきっと、私を心配しているのでしょう。でも、お母様を最後まで見捨てられなかった私に、そんなことを言ってもらう権利などないわ。お母様をこの手で裁けなかった代償として、私はここにいるのだもの」


 声もなくこちらを見下ろすザグレウスに、イリスは安心させるように笑った。


「お母様は、私を女王にしたかったのでしょうけれど、いざというときに民を優先できない者に、王たる資格はないわ。民が間接的に苦しめられているというのに、私はお母様を見捨てられなかった。そんな人間に、ディルクルムを治める素質など、最初からなかったのよ。だからこれは当然の帰結なの。人の上に立つべきでない者は、王族として生きる権利がなかったというだけの話よ」


 刹那、彼の瞳に焔が灯った。眉が歪み、眉間にぐっと皺がよる。まなじりがつり上がり、すさまじい形相でぎりと歯を鳴らして――ふっ、と、唐突に笑った。


「そうかよ。じゃあ、あんたの兄はさぞかしご立派な王になるんだろうな?」

「……え?」

「そうだろう? あんたの兄は……アストラスは、姫いさんの母親を裁いた。あんたのことも。自分の存在が姫いさんの家族を壊したことを知っていながら、のうのうと玉座に座って、まるで被害者みたいな顔であんたを殺して、こんな辺境に追いやった……そりゃあ、さぞかし優秀な兄だったんだろうな?」


 一瞬、頭が真っ白になった。

 彼は歪な顔で笑っていた。


「そうだろ、イリス」

「……やめて、ザグレウス」


 掠れた声が、イリスの喉からこぼれ落ちる。

 だが、ザグレウスは止まらなかった。言葉の刃を逆手に握り、イリスの心臓に突き立てる。

 せせら笑う彼の言葉が牙を剥く。


「何故。俺は真実しか言っていないし、あんたの言葉を肯定してるだけだ。ああ、よく分かった。あんたには国を治める資格なんかなくて、それを持ってるのはアストラス・ヴィア・ディルクルムのほうだったんだろう。何せ、自分の母親を最後まで見捨てられなかった姫いさんと違って、自分の妹をこうもあっさり切り捨てられるんだからな。それがあんたの言う、王の素質とやらなんだろう?」


 瞬間的に、イリスの頭の中で何かが弾けた。

 繋がれたままだった手を掴み返し、自分の体をぐいと起こす。毛布をはねのけ、左足を素早くベッドから下ろして、もう片方の足をはね上げ、彼の胸と肩を打ち据えた。

 頭ががんがんと痛む。呼吸がうまくできない。熱と疲労で鈍った思考は、イリスの本能を剥き出しにした。


『倒れろ!』


 考えるより先に、イリスは叫んでいた。

 鈍い音がして、彼の体が床に倒れこむ。椅子が派手に倒れてけたたましい音を立てた。それすらもわずらわしくて、思わず力の限りに蹴飛ばす。

 肩で息をしながら、イリスは静かに彼を見下ろした。

 理性などなかった。あるのは煮えたぎるような怒りのみだ。


「――お前、今何を言ったのか分かっている?」


 絶対零度の視線が彼を射抜く。部屋の温度が瞬間的に下がった。


「もう一度言ってみなさい。お兄様が、なんですって?」

「ははっ……自分の妹を簡単に見捨てて平然と国を回せる、冷酷無慈悲な王だって、言ってんだよ。ああ、まだ王じゃなかったか……まあ、どちらにせよ民は喜ぶだろうよ。いざとなったら、家族を切り捨ててでも自分たちを守ってくれるのが、次代の王なんだからな!」

「ふざけるな!!」


 すさまじい怒号が部屋を震わせた。


「お兄様が冷酷ですって? 簡単に家族を見捨てて、平然と国を回せる……? お前、今、私のお兄様を――この私のお兄様を、『王位継承権しか持たない』愚鈍な人間だと、そう言ったの?」


 繋いだままの手首に爪を立てる。自分の爪が彼の皮膚を食い破り、温かな血が指を伝った。失ったはずの心の臓が、怒りに震える音を聞く。

 ゆら、と揺れる視線が、漆黒に染まる。


「――殺すわよ、お前」


 えげつないほど低い声が、イリスの唇からこぼれ落ちた。


「できるのか、姫いさん?」

「できないと思うの? 言霊を使ったっていいわ」


 獰猛な笑みを浮かべて、イリスは倒れたままのザグレウスの胸にどんと足を乗せる。真白い肌が、そこから放たれる燐光が、月明かりに照らされて青白く光った。


「言霊を使って、この魂と引き換えにしてでもお前を殺すわ。お前を殺せなかったとき、私は言霊の呪いで魂ごと消滅するかもしれないわね。でも、だからなんだというの? お兄様を愚弄されて反論の一つもできない、哀れな妹に成り下がるくらいなら消えた方がマシだわ!」


 掴んでいた手を離し、代わりに彼の胸ぐらを掴む。そのまま彼の上に勢いよく跨った。


「お兄様がどんな思いで、私が毒杯を飲むのを見ていたと思う? お兄様がどれだけ私のことを愛していたと思うの? 自分の手で妹を殺さなければならなくなったお兄様が、どれだけ血反吐を吐く思いで、それでも国のために、民のためにと、心を殺して私を葬ったと思っているの!」


 イリスは人生で初めて激怒していた。目の前が真っ赤に染まるような怒りだ。王宮での罵倒や陰口といえばイリスに向けられたものがほとんどで、兄たるアストラスへの悪意など、自分の母以外からは見たことがなかった。

 だから、加減が分からない。身のうちに荒れ狂う嵐のようなこの怒りを、どうぶつけたら伝わるのかが分からない。


 彼の腹に跨ったまま、固めた拳を胸の上に振り下ろす。全く効いていなさそうなのが恨めしかった。死人はやはり、生きた人間には傷をつけられないのだろうか?

 イリスは必死だった。言葉を組み立てる暇もない。心が紡いだ言葉が、そのまま口から流れ出ている。


「お前が……お前ごときが、お兄様の心の内を、どれほど理解しているというのよ、言ってみなさい!」


 暴風雨のようなイリスの勢いとは裏腹に、ザグレウスの瞳は至極冷静だった。吸いこまれそうな赤い瞳を見ると、いっそう怒りが湧いてくる。今すぐにでも、この男を跡形もなく引き裂いてしまいたい。

 だが、彼はイリスへと手を伸ばすと、何故かそっと頬に触れてきた。

 産まれたての赤子に触れるような、ひどく慎重な手つきだった。


「あんたの兄が、そんなに素晴らしい人格者だったって言うなら」


 彼の指が頬をすべる。曲げられた人差し指の関節が、イリスの瞳のふちを拭った。


「どうしてあんたは、そんなに泣いてるんだよ」

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