第13話 深夜の邂逅
死者は眠りを必要としない。
実際、イリスはこの屋敷に来てから、意識的に睡眠を取ろうとしなければ眠りに落ちることはなかった。死者にとって、眠りは正しく嗜好品なのだ。
だが、その日は何故か強烈な眠気に襲われ、イリスはすとんと眠りに落ちてしまった。
そして、それは唐突にやってきた。
胸の辺りの圧迫感と、奇妙な息苦しさに、イリスはふっと目を覚ました。視界がやけに暗い。おそらくまだ夜中だ。
おかしな時間に起きてしまったなと身じろいで、気づく。体の上に、何かが乗っている。
それが何かを認識した瞬間、イリスはぎょっとした。
胸の上に、誰かが跨っていた。顔すら見えない暗闇の中で、何かがじっとイリスを見つめている。
まさかザグレウスが夜這いを? と思ったが、そんな余裕があるわけがない。
その誰かは微動だにしなかった。イリスは息を詰めてじっとそれを見つめる。
ややあって目が暗闇に慣れてきたころ、イリスはようやく、それが誰かを認識した。
「お前、初日に庭で会ったわね」
それは、あの甲冑姿の女だった。奇妙なほど表情の消えた顔で、じっとこちらを見下ろしている。
「こんな夜中に何を……」
言いかけて、イリスは絶句した。
女はその手に、自分の体躯ほどはあろうかという長さの、巨大なハンマーを握っていたのだ。
すさまじい大きさのそれは、もはや視界に収まりきらない。彼女はそれを肩に担ぐようにして持っていた。道理で重いわけだと納得する。
何も言えないまま、じっとりとした冷や汗をかく。まさか、こんな夜中に自分の武器を見せに来たわけではあるまい。
「お前、何をしているの?」
慎重に言葉を選ぶ。女は何も言わない。
イリスは努めて何も感じていないような顔で、再び口を開く。
「とりあえず、降りてもらえる? 流石に重いわ」
「姫様、傷が発現したんだって?」
唐突な問いかけに、イリスは虚を衝かれた。いきなりなんだ、と思う。傷について尋ねられたことも、彼女がイリスの傷を知っていることも不可解だった。
女がふっと、口元だけで笑う。
「脱走した囚人を捕まえたそうじゃないか。手柄だね」
「大したことはしていないわ。私だって、自分がどうしてあの力を使えたのか、よく分からないのよ」
「へえ?」
女の声がぞっとするほど低くなる。
「聞いたよ、姫様。言葉一つで、相手の生死すら思うがまま……そういう『傷』なんだろう? 納得だよ、だってあんたは姫様だ。周りの人間が
くつくつと笑う女は、おもむろに天を仰いだ。
「気づけなかったのはあたしの落ち度だな……あんた、お姫様なんだもんな。そりゃあ、あたしの
「これがあたしの『傷』だよ、姫様。この槌は、クソッタレな貴族共を殺すための武器だ。相手の地位が高ければ高いほど、強く、大きく、殺傷力が高くなる。流石にここまで大きくなったことはないけどな。あんた、本当に姫様なんだなあ……」
「お前、私を殺すの?」
ぴたり。
女の動きが止まる。しまったと心の中で舌を打った。直球すぎた。
落ち着け、と言い聞かせる。なくした心臓の代わりに、頭の中でずっと警鐘が鳴り響いている。
「私、お前のことをほとんど知らないわ。初日に会ったきりだもの。けれど、それでも分かることはある。話し方や、声色、目の動き、言葉の一つひとつ、全てが情報よ。私は人と
努めて平静を装い、唇を湿らせる。
「お前の『傷』の話を聞いて、確信したわ。お前、カイネス・ククリね?」
女がわずかに目を見張ったのを、イリスは見逃さなかった。確信への答え合わせをしながら、呟く。
「世界中のありとあらゆる財宝を盗み、時には無作為にそれらをばらまいて世界を混乱させた、大盗賊団の女首領、カイネス・ククリ。数々の所業ののちにこの国で捕らえられ、冥府刑に処された女盗賊。この国の歴史に関することだもの、知っているわ」
彼女がどうしてこんなことをしているのかも、おおかた想像がつく。傷になるほど、貴族という存在が嫌いなのだろう。彼女の所業は義賊にも近いもので、そこには貴族や王族への嫌悪が滲んでいる。
女――カイネスが皮肉げに唇を歪めた。
「へえ? じゃあ、そのご立派な歴史書には、あたしの子供たちのことは書かれてんのかい?」
「……子供?」
咄嗟に眉をひそめた。カイネス・ククリに子供はいなかったはずだ。そもそも、生涯独身を貫いたと聞いている。
だがその瞬間、カイネスは爆発したように笑い出す。
「ふっ、ははははは! そうだろうなあ、載ってるわけがないよなあ……! あたしと一緒にいたからって理由で、まとめて冥府刑に処した子供のことなんか……肥溜めみたいな貴族の屋敷にいた奴隷の子供のことなんか、歴史に残す価値もなかったんだろうなあ……」
イリスは
「なあ、お姫様。子供の体と心のまま首を絞められて殺されて、冥府刑に処された孤児たちの魂がどうなるか、知ってるか?」
唐突な言葉に、イリスは少しだけ眉根を寄せ、首を横に振った。
カイネスは「だろうな」とぞんざいに呟き、ぐるんと首を回してイリスを見た。
「文字通りの
顔を歪めて叫ぶカイネスを、イリスは呆然と見つめた。
冥府刑についての書類なら、王族だったころに一通り読んだ。罪を定める側として、罰を受けた側のことを知る必要があったからだ。
そこに、冥府刑に処された子供がいたという記録はなかった。
カイネスの言葉が正しければ、これは立派な、国ぐるみでの
そして、社交界の荒波に揉まれ続けたイリスの勘が、彼女が嘘をついていないと言っていた。カイネスの持つハンマーは、彼女の怒りと恨みの結晶なのだ。
「お前は、王族を恨んでいるの? だから、私を殺したい?」
「さあな。あたしにはもう何も分からないよ。ただ、あたしを裁いて、子供たちの手指を切り落とした、あの裁判官の顔がずっと消えないんだ。あいつの頭を、この槌で潰してやりたかった……」
気づけば、カイネスは片手でハンマーをやすやすと持ち上げ、宙に掲げていた。そして、もう片方の手でイリスの首をわし掴む。
「あたしだって馬鹿じゃない。あのクソッタレな男と、あんたが違う人間だってことくらい理解してる。そもそもあんたはもう姫じゃないし、あんたを殺したところで、あの子たちの心が戻らないことも、あの子たちがどこにも行けないことも分かってる」
まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。ハンマーを持つ指がぶるぶると震えている。
「けど、あんたは傷を発現させた。よりにもよってあのクソ男みたく、言葉一つで人を殺せる力を持っちまった……あんたが、あたしの子供たちみたいな子を生まないっていう根拠が、もうない」
「……死人は、殺せないわよ」
「でも、壊せはする。あの子たちみたいに」
イリスは顔をしかめた。それは、あまりに悪手だと思った。
人は、自分の大切な存在を傷つけられたのと同じ方法で、平然と誰かを傷つけられるほど強くはできていないのだ。たとえ義賊でも、犯罪者でも同じことである。
彼女を陥れた裁判官が相手ならまだしも、直接関係ないイリスの心を壊したが最後、この女も無事では済まないだろう。
ザグレウスは、死者の体は死なない代わりに、心が直接反映されると言っていた。
ならば、イリスが壊れた瞬間、カイネスも壊れる。
「悪いけれど、私、あなたと心中するつもりはないの」
きっぱりと言って、イリスは躊躇なく手を伸ばした。カイネスの首元にある鎧を掴む。
わずかに動揺した隙をついて、彼女をぐっと引き寄せた。
「お前、よく分かっているじゃないの。そうよ、私を殺したところで、お前の子供たちの心は戻らない。心が壊れた人間が一人増えるだけよ」
カイネスの目元にさっと
「でも、お前が私を殺さないなら、私にはお前の子供たちを助ける用意があるわ」
カイネスはびたりと動きを止めた。しかし、すぐに苦々しい顔で呟く。
「嘘をつくな……」
「嘘じゃないわよ。ねえ、カイネス。お前、催眠術というものを知っている? あれって、特定のことを忘れさせたり、思い出させたりすることができるらしいわ。傷を持たない普通の人間でも、人の心を操ることくらいはできるのよ」
不可解そうな顔をする彼女に向かって、はっきりと告げる。
「なら、心が壊れた子供たちに、私が『もう死んだ日を繰り返さなくていい』と言霊で命令したら、その子たちの心は戻るのじゃない?」
「……は」
唖然と目を見開いて、カイネスはイリスを凝視した。そのままはくはくと口を開閉させる。
「で、きるわけ、ない……」
「あら、何故?」
「何度やったってダメだった……あたしが何度声をかけても、ろくに反応が返って来なかった……五十年かけた……五十年かけて駄目だったんだ! だから、あたしは諦めて……」
「お前が諦めたから、お前の子供たちはこの先ずっと、壊れたままでいなくてはならない?」
彼女は言葉を失った。イリスは彼女の瞳を真っ向から見つめて言葉を繋ぐ。
「お前には助けたい者がいるのでしょう? その恨みが『傷』となるほどに愛していたのでしょう? なら、その子たちを助けるのに邪魔な考えなど全て捨てなさい。矜恃も怨みも涙も怒りも、愛する者の前では全て
人差し指で、彼女の胸元をとんとつく。生きていれば、心臓があっただろう場所を。
「カイネス・ククリ。子供たちを助けたいのか、助けたくないのか、どちらなの。今はそれしか重要じゃないわ」
これは賭けだった。手負いの獣をどうにかする
けれど、助けると誓ったことは嘘ではない。
この国の民一人救えずして、どうして王族を名乗れようか。
やがて、気の遠くなるような沈黙を経て、カイネスは顔を歪める。
ずるりと、その手からハンマーが落ちた。宙に溶けるようにして消えたそれを見つめる。彼女は力の抜けた声で呟いた。
「助けたい……あの子たちを……」
「ええ」
「私が連れ出した。私が手を引いて、ここまで連れてきた。なのに、私が突き落としたようなものだ。せめて、あの子たちを見つけたのが私でなければ……私みたいな、薄汚い泥棒でなければ……あの子たちは天寿を全うできたのに……」
涙すら枯れ果てた者の声だった。振り上げた
「己を責めるのは後よ。あなたのそれはね、あなたが自分で自分に罰を与えるか、当の子供たちに許されるかしないと、一生消えない傷だわ。罪人の一生なんて、普通の人間の余生の何十倍もあるんだから、考えすぎると壊れてしまうわよ」
カイネスに自分の上からどくように指示してから、イリスはゆっくりと起き上がる。就寝時のネグリジェ姿に、カーディガンとストールを手早く羽織った。
「だから、許しをもらいに行くわよ。お前の子供たちはどこ?」
「……まさか、姫様、今から行くのか?」
カイネスは何が起こっているのか分からないという顔で、ぱち、ぱち、と幼子のように瞬く。
イリスは当たり前でしょうと首を傾げた。
「約束するだけしてじゃあ今日は休みますなんて言ったら、お前、また錯乱して私を殺そうとするかもしれないじゃないの。困るわ」
「いや、流石にそんなことは……」
「いいから。私だって、私の国の民が苦しんでいる中で、のうのうと眠っていられないのよ。墓地はどこ?」
困惑顔のまま、カイネスが外を指さす。
「……あちらだ。東の墓地」
イリスは頷くとは躊躇なく窓を開け、そこからひらりと外に出た。
夜風に当たった頬が、なんとなく熱い気がした。
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