2
◆
夕方五時。僕は、台所で忙しそうに夕飯の支度をしている母さんの目を盗んでこっそり家を抜け出した。
なるべく音をたてないように玄関のドアを開け閉めして、ガレージに置いてある自転車を取り出すと、陽咲と待ち合わせをした近所の公園へと急ぐ。
先に着いたのは僕。陽咲は無事に家を抜け出せるだろうか。
僕の家も陽先の家も、門限は五時。その時間に家に帰ることはあっても家から抜け出すことはまずない。
今日の計画は、僕か陽咲のどちらかが親に見つかってしまったらアウトだ。
雨に寄る劣化でペンキが剝がれかけている公園の時計を見上げながら少し心配していると、しばらくして自転車に乗った陽咲がやってきた。
「ごめん、ごめん。遅くなって」
僕の隣で自転車のブレーキをかけた陽咲が、眉尻を下げて笑う。
「大丈夫だった?」
「大丈夫、大丈夫。マンションの駐輪場で買い物帰りの大晴のママと鉢合わせしそうになっちゃって焦ったよ」
「え、それ、ヤバいじゃん」
「うん。ちょっとドキドキしちゃった。でも隠れてちゃんと見つからないようにしたから大丈夫」
眉根を寄せる心配性な僕を、陽咲が呑気に笑いとばす。
「行こう。行き方は事前に調べてあるんだ」
陽咲はそう言うと、自転車のペダルに足をかけて、僕を誘導するように漕ぎ出した。
「行ったことある場所なの?」
陽咲を追いかけながら、斜め後ろから少し声を張り上げる。追いついて隣に並ぶと、陽咲は僕のほうに顔を向けて「うん、幼稚園くらいのとき」と頷いた。
「お父さんが、自転車で連れてってくれたの。周りの景色が少しずつ田んぼと畑だらけになっていって、それからしばらくしたら、ぽわーってした小さな光が空中をいっぱい飛んでて。綺麗だなーって思ったのを覚えてる」
「へぇ」
陽咲の話を聞いて、昼間に図鑑で見たホタルが舞う川辺の景色の写真を思い出す。暗闇の中に点々と浮かぶ白い光は、写真で見ただけでも綺麗だった。
実際に見たら、もっと綺麗なのかな。頭の中でふんわりと想像が膨らんで、楽しみになってくる。
陽咲はホタルの見える場所は家から近いと言っていたけど、実際にはその道のりは遠かった。
ふたりで二十分くらい自転車を走らせても僕らは見慣れた住宅街から抜けられず、三十分が過ぎて「おかしいな……」と陽咲が不安そうにつぶやいた頃、ようやく周囲が開け始めて、田んぼや畑が見えてきた。
「そうそう、こんなところだった。どこかに川があって、その橋の近くで見たんだよ」
記憶にある風景が見えてきてほっとしたのか、陽咲が自転車のペダルを強く踏んでスピードを速める。しばらく田んぼ道を自転車で走っていくと、陽咲が言ったとおり石造りの橋が見えてきた。橋の下には子どもの足でも五歩くらいで渡れそうな細い川が流れていて、僕たちは自転車を停めると、橋の横から土手を下って川辺に降りた。
「今何時?」
「六時過ぎかな」
陽咲に聞かれて、僕が左腕に嵌めていたデジタルの腕時計に視線を落とす。
夏は日が暮れるのが遅い。六時を過ぎていたが、周囲がホタルの光がわかるような真っ暗な闇に包まれるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
「ここで座ってようか」
僕から離れて川辺を一歩、二歩と歩いていった陽咲が、ふたりで並んで座れそうな岩を見つけて指さす。僕たちはそこに座ると、ホタルを——。ホタルに姿を変えたばあちゃんが僕に会いに来てくれるのを待った。
だけど、隣に座る陽咲の顔が目を凝らしてようやく見えるほどにあたりが暗くなってもホタルは現れなかった。
初めは気にならなかった虫の声や蛙の鳴き声が、静かな夜の川辺にだんだんと大きく響き始めて。夜の川辺に僕らふたりだけが閉じ込められているような気がして、少し不安になってくる。
なんとなくだけど、これ以上待ってみてもホタルは現れないんじゃないか。そんな気がした。
図書室の図鑑で見た『亡くなった人の魂がホタルになって会いにくる』っていう話だって、よく考えてみたら全然現実的じゃない。昔の人が勝手に想像していたってだけの話だ。
それに、今日は七月七日。運よく雨は降っていないけれど、昼間は晴れていた空も今はどんよりと雲に覆われている。織姫と彦星だって空の上で再会できているかどうかわからないのに、毎年よくないことが起こる誕生日に、僕がホタルに姿を変えたばあちゃんと出会えるわけがない。
「帰ろっか」
諦めて声をかけると、陽咲が夜の闇に透明に輝く川の流れを見つめながら首を横に振った。
「帰らない。もう少し待ってみようよ」
何度か帰宅を促してみたけれど、陽咲は僕を誘った意地なのか、岩に座ったまま腰をあげようとしない。
陽咲を残してひとりで帰るわけにもいかないので、僕も一度は浮かしかけた腰を岩の上に落ち着けた。それから三十分。何も話そうとしない陽咲の隣でジッと座っていたけれど、やっぱりホタルは現れない。
周囲の闇は一層濃くなり、虫や蛙の鳴き声がうるさいくらいに耳に響いてくる。それに加えて、ほんの少しだけ夏の夜風に晒された腕が冷たく寒くなってきた。
「陽咲、そろそろ帰ろう」
もう一度声をかけると、陽咲が僕を振り向く。唇を噛んだその顔が泣きそうになっているのが、暗がりの中でもはっきりとわかった。
「でも、蒼月のおばあちゃんが……」
震えて響く陽咲の声に、僕も少しだけ泣きそうになる。
「うん。ばあちゃんに会えなかったのは残念だけど、いいよ、もう」
「でも……」
「ばあちゃんには会えなかったけど、陽咲が僕のためにここに連れてきてくれたことが嬉しかったから」
無理やりにこっと笑いかけると、陽咲が「ごめんね」と泣きそうな声でうつむいた。
「帰ろう。僕んちでも陽咲んちでも、僕らがいないことがそろそろバレてると思う」
先に立ち上がって手を差し出すと、陽咲が上目遣いに僕を見た。
「怒られるかな……」
「かもね」
苦笑いでそう返したとき、陽咲の視線がゆっくりと僕からそれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます