第13話 二人目の覚醒者と、記憶の番人

『鈴木誠は、“この世界が物語である”という事実に、気づき始める』


綾瀬凪が遺した、新たな予言。

それは、僕にとって希望であると同時に、彼を僕と同じ地獄へ引きずり込むかもしれないという、重い罪悪感を伴うものだった。


翌日から、僕は後輩・鈴木誠の観察を始めた。

彼は、文芸部の中でも特に無口で、感情を表に出さないタイプの男だった。分厚い眼鏡の奥の瞳は、いつも何かを冷静に分析しているように見え、読書量も、知識の深さも、おそらく僕より上だろう。彼が書く書評は、いつも的確で、対象の本質を鋭く抉り出していた。


もし、この世界の「誤植」に気づく人間がいるとすれば、彼のような、優れた観察眼を持つ人間なのかもしれない。


僕は、学校での孤立もあって、彼にどう接触すればいいか決めかねていた。今の僕は「部長を殺そうとした狂人」だ。そんな僕から話しかけられて、彼が心を開くはずがない。


数日間、僕はただ遠くから彼を見守ることしかできなかった。

そして、予言通り、彼の行動に小さな、しかし確かな変化が現れ始めた。


ある日の昼休み。図書館の隅で、鈴木が古い雑誌のバックナンバーを必死にめくっていた。その雑誌は、僕も昔、愛読していた音楽雑誌だ。彼は、何かを探している。その探しているものが、僕が好きだった(そして今は存在しない)あのバンドの記事の掲載号だと、僕には直感でわかった。


またある日の放課後。彼は、僕が「海馬堂」があった場所――今はコンビニになっている――の前で、じっと立ち尽くしていた。何かを思い出すかのように、あるいは、あるはずのないものを探すかのように、その空間を虚ろな目で見つめていた。


間違いない。彼も気づき始めている。

自分の中の記憶と、現実との間に生まれた、致命的なズレに。

このままでは、彼もやがて、自分の正気を疑い始めるだろう。凪が、そして僕が味わった、あの絶対的な孤独に苛まれることになる。


僕は、覚悟を決めた。


その日の帰り道。僕は、一人でとぼとぼと歩く鈴木の少し前を歩き、駅前の書店で彼を待ち伏せた。偶然を装い、彼が店に入ってきたタイミングで、声をかける。


「よお、鈴木」

「……相川先輩」


鈴木は、僕の顔と、腕に巻かれたギプスを見て、あからさまに警戒心を露わにした。眼鏡の奥の瞳が、僕を分析するように細められる。


「何か、用ですか」

「いや……ちょっとな。最近、何か変わったことはないかと思って」

「……別に、何もありません」


壁を作られているのが、ひしひしと伝わってくる。僕は、単刀直入に切り出すことにした。


「そうか? 俺はあるけどな。例えば、昔あったはずのものが、なくなってるような気がするとか」


その言葉に、鈴木の肩が微かに震えた。だが、彼はすぐにポーカーフェイスに戻り、僕から距離を取ろうとする。

「何の、話です。俺、急いでるんで」


このままでは、終わってしまう。

僕は、一つの賭けに出ることにした。それは、凪と僕だけが共有していた、秘密の符丁。


「なあ、鈴木。こういう状況を、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説みたいだ、って言ったら、わかるか?」


ボルヘス。

アルゼンチンの、あの幻想文学の巨匠。凪が、僕に最初に教えてくれた作家の一人。

その名前を聞いた瞬間、鈴木の動きが、ぴたりと止まった。彼の全身から、警戒心とは違う、別の種類の緊張感が立ち上る。


彼は、ゆっくりと僕の方へ向き直った。そして、震える声で、僕に問い返してきた。


「……先輩。ボルヘスの、『バベルの図書館』ですか? それとも、『円環の廃墟』です――いや、まさか」


彼の瞳が、大きく見開かれる。


「……『記憶の番人』の話ですか」


『記憶の番人』。

それは、ボルヘスの作品の中でも、特に難解で知られていない短編の名だ。改竄され続ける歴史の中で、ただ一人、真実の記憶を持ち続ける男の悲劇を描いた物語。僕が、凪と二人きりの部室で、一度だけ語り合ったことがあるだけの。


「……ああ」


僕は、頷いた。


「俺達は、番人になっちまったらしい」


その瞬間、僕と鈴木の間にあった壁が、音を立てて崩れ落ちた。彼の瞳から警戒心が消え、代わりに、同じ悪夢を見る者だけが共有できる、深い絶望と、そして微かな安堵の色が浮かんでいた。


「先輩……あなたも、だったんですか」

「ああ」

「じゃあ、俺の記憶は、狂ってなかった……?」


僕は、無言で、いつも持ち歩いている『抵抗の記録』のノートを開き、彼に見せた。そこには、僕が書き留めた「海馬堂」の記述や、存在しないバンドの記録が並んでいる。

鈴木は、そのページを食い入るように見つめ、息を呑んだ。自分の孤独な違和感が、客観的な文字として、ここにある。


「これは、一体……?」

「説明は、後でする」


僕は、ノートを閉じた。そして、彼の目を真っ直ぐに見て、言った。


「今はただ、一つだけ覚えておいてほしい。鈴木。お前は、もう一人じゃない」


僕らは、共犯者になった。

あるいは、同じ船に乗った、遭難者か。


僕の部屋では、その時。

机の上に置かれた凪の原稿が、まるで僕らの小さな希望を嘲笑うかのように、そのインクの色を、じわり、と不吉なほど深い黒色に変えていた。


世界の作者は、二人目のバグの発生を、決して見逃してはいなかった。

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