第9話 君が予言する、世界の悪意

僕の戦いが始まった。

武器は、一本の万年筆と大学ノート。敵は、この世界そのもの。

僕は、毎晩、その日に起きた出来事と、僕の記憶との差異を、克明に記録し続けた。


『今日、現国の教科書に出てきた詩の一節が変わっていた。元の詩は、もっと絶望的な響きを持っていたはずだ』

『通学路の途中にある信号機の色が、青ではなく、緑になっていた。誰もがそれを「青信号」と呼ぶが、僕の目には、明らかに緑色にしか見えない』


些細な、誰にも理解されない違和感。

だが、それを僕自身の文字でノートに刻みつけるたびに、僕はかろうじて「僕」でいることができた。このノートだけが、僕の記憶が妄想ではないと証明してくれる唯一の錨だった。僕はこの行為を、『抵抗』と名付けた。


そんな日々が数日続いた、ある日の夜。

いつものように凪の原稿と自分のノートを見比べていると、凪の原稿の、最後に僕が確認した文章の下に、新たな一節が静かに浮かび上がっていた。


『抵抗は、世界の作者を苛立たせる』


心臓が、冷たく締め付けられる。彼女は、僕の『抵抗』に気づいている。


『君が真実を記録すればするほど、世界の嘘は、より巧妙に、より悪意に満ちていくだろう。置き換えるだけでは君が気づいてしまうから、次は、君の“過去”そのものを消しに来る』


過去を、消す?

その言葉の意味を理解する前に、僕の脳裏に昨日の出来事が蘇った。

昨日の放課後。僕は部室で、佐藤部長と些細なことで口論になった。部誌の予算配分についてだ。僕が少し感情的になってしまい、気まずい空気のまま、僕らは別れた。今朝、学校へ向かう途中、僕は「今日こそ謝ろう」と決意していたはずだ。


僕は、恐る恐る自分のノートを開く。昨日の日付のページに、確かに僕は書き記していた。

『佐藤部長と口論。俺が悪い。明日、謝る』


ゴクリと喉が鳴る。

僕は今日、まだ部長と顔を合わせていない。昼休みに、部室へ行こう。そして、謝ろう。僕のノートに書かれた、この「真実」を確かめるために。


昼休み。部室の扉を開けると、佐藤部長は窓際で楽しそうに誰かとLINEをしていた。僕に気づくと、彼女はぱっと顔を上げた。


「あ、湊! 昨日はありがとね!」

「え……?」

「ほら、部誌のレイアウトの相談に乗ってくれたじゃない。湊のアドバイス、すっごく参考になったわ。おかげで良いのができそう!」


太陽のような笑顔。

僕の記憶にある、昨日の気まずい空気は、そこには一片たりとも存在しなかった。

口論? なかったことにされている。それどころか、僕は彼女に的確なアドバイスをし、感謝されるという、完璧にポジティブな記憶に『上書き』されていたのだ。


「あ……ああ、どういたしまして……」


僕は、引きつった笑みを返すことしかできなかった。

これが、凪の言っていた『過去を消す』ということか。

物を入れ替えられるよりも、はるかにタチが悪い。僕の行動、僕の人間関係、僕が積み重ねてきたはずの歴史そのものが、いともたやすく改竄されてしまう。これでは、僕がいくら『抵抗』しようとも、その戦いの記録自体が、僕だけの妄想になってしまうではないか。


言いようのない無力感に襲われながら、僕は自分の席に崩れるように座った。

世界は、僕というバグを修正するためなら、どんな手段も厭わない。僕の記憶が真実であればあるほど、世界の嘘は巧妙になり、僕を社会的に孤立させていく。


その日の夜、僕は絶望的な気持ちで、再び凪の原稿と向き合った。

僕の行動は、全て筒抜けだ。そして、僕が抵抗すればするほど、事態は悪化していく。もう、やめてしまった方がいいのだろうか。この世界の嘘を、すべて受け入れてしまえば、楽になれるのかもしれない。


そんな弱気が僕の心を支配しかけた、その時だった。

凪の原稿が、再び、目の前で静かに言葉を紡ぎ始めた。それは、これまでのような警告や解説ではなかった。それは、あまりにも具体的で、残酷な、『予言』だった。


『次の“誤植”は、もっと残酷だ』


心臓を、鷲掴みにされる。


『佐藤美咲の腕が、折れる』


「――なっ……!」


僕は、椅子を蹴立てて立ち上がった。

なんだ、これは。どういうことだ。これまでの、世界の法則性を書き換えるような「誤植」とは、わけが違う。これは、明確な、物理的な危害の予告だ。


インクは、止まらない。まるで、僕の絶望を養分にするかのように、冷徹な文字を紡ぎ続ける。


『日時:明日、放課後』

『場所:図書館へ続く、中央階段の踊り場』

『原因:積み上げられた本が崩れ、彼女の上に落下する』


日時、場所、原因。

それは、疑いようのない、確定した未来の光景。


僕の役割は、変わった。

これまでは、失われた過去を記録する、孤独な記録者だった。

だが、今は違う。これから起こる悲劇を、未来の絶望を、知ってしまった。


僕はこの『脚本』に、介入すべきなのか?

もし僕が部長に警告すれば、彼女を救えるかもしれない。

だが、下手に動けば、凪の言う『世界の作者』をさらに苛立たせ、もっと酷い悲劇が起こるのではないか? 僕が介入したせいで、もっと最悪な未来に書き換えられてしまうのではないか?


動いても地獄。

動かなくても地獄。


僕は、わなわなと震える手で、その残酷な予言が書かれた原稿用紙を見つめることしかできなかった。

綾瀬凪が遺した物語は、今や、僕に究極の選択を突きつける、悪魔の脚本と化していた。

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