陽だまり

 この世の中で、いちばん暢気で、いちばん幸せな生き物は、人間だと思う。


 5月28日、昨日。5月29日、今日。5月30日、明日。カレンダーの日にちを指でなぞり、ため息を吐き出す。5月31日、明後日。6月1日で指先を止める。早いな。あと2日か。


 人はなぜ、失ってからじゃないと、その大切さに気付けないのだろう。失ってからでは遅いと分かっているはずなのに。


 人はなぜ、後悔する生き物なのだろう。大切なものの大きさ重さに気付いて、後悔する。後悔したって、その時はもう元には戻れなくなっているのに。それを本能で分かっているくせに。


 そんなのはちっとも幸せじゃないのに。それも分かっているくせに。


 私は、左手に握った一枚の切符を見つめて、奥歯を噛んだ。この一枚の切符で、私はこの恋に終止符を打とうと思う。


 発車時刻、8時4分。行き先、東京、上野駅。新幹線の片道切符は、短大の帰りに買って来た。明々後日の朝、この新幹線でこの町を出る。


 健ちゃんは退院して、元気に日常に復帰している。ここ一週間はあっという間だったように思う。とにかく必死に過ごしていたから、あっという間だった。


 同棲を始めてまだ半年も経っていなかったのが幸いだったのかもしれない。服も靴も、荷物は思ったより少なくて、段ボール3箱で足りた。突然、クローゼットの中を片し始め、段ボールへ移したり、小物を整理している私を変に思ったのだろう。思わない方がおかしい。


 もしかしたら、健ちゃんは心の片隅で何かを感じ取っていたのかもしれない。


「毎晩、荷造りみたいなことしてるけど、一体なにしてんの」


 と、健ちゃんが疑心にあふれた目で訊いてきたのは、つい、一昨日のことだ。内心は転げ回って冷や汗をかいていたものの、笑ってはぐらかして嘘をついた。


〈夏だから、冬物をしまっているだけ〉


 自分を大女優だなと思いながら、自分に落胆した。大切な人に嘘をつくことがこんなに簡単だったなんて。


〈健ちゃんも、そろそろ冬物しまったら?〉


 もうセーターとか着ないでしょ、なんて笑う私を疑いもせず、けんちゃんは「えー、めんどくさいからあとで」と安心したようにテレビを見ていたけど。辛かった。


 健ちゃんが退院してくる前日、私はお母さんにラインメッセージを送った。


 できることなら、短大を辞めさせてもらいたい。そして、出来るだけ早く東京へ行きたい。お父さんとお母さんと東京で暮らしたい。そう決意したことを文字にして送った。


 なぜ突然そんなことを言い出したのかと訊かれると思って覚悟していたけれど、お母さんは何も訊いてこなかった。ひとつも。真央が本気でそう考えているなら、一度、東京へ来なさい。話はそれからゆっくりしよう。それが、お母さんからの返事だった。


 お母さんはエスパーみたいなところがあるから、私に何かが起きたことを感じ取っていたのかもしれない。


 大好きな順也と静奈と離れること。大好きな健ちゃんと離れること。必死に勉強してようやく合格した短大を辞めたいと言い出したこと。それも全部ひっくるめて、お母さんは何かを感じたのかもれない。だから、あえて何も訊いてこないのだ。


 静奈とはあれからずっと、ぎくしゃくしたままだ。ただでさえ気まずくなっていたのに、それに輪をかけるように、講義室の窓際の席で切り出した。


〈私、東京へ行くことにした。お父さんとお母さんと、暮らすことにしたの〉


 静奈は目を丸くして、じっと私の両手を追いかけていた。


〈今まで本当に、ありがとう。順也と仲良くね。幸せになってね。私は、それだけを願ってる〉


 私と静奈以外は誰もいない講義室は、寒くもなく熱くもなくて、なんとなく寂しかった。


「え……いつ、こっちに戻って来るの?」


 私は肩をすくめて、首をふるふる振った。


〈もう、戻らないと思う〉


「何で?」


 私の両手を見つめていた静奈が、突然、感情的になった。


「え、待ってよ、何で? 何で急にそういうことになるの? 何で……なんで何も相談してくれないの!」


 いつも優しい静奈が、顔を真っ赤にして目をつり上げて、乱暴に両手を振り乱した。


〈ごめん〉


「何でなにも言ってくれないの? もう、真央なんか知らない!」


 言い訳さえしようとしない私の肩を突き飛ばして、


「東京でもどこでも行けば!」


 大きな口で言って、静奈は講義室を出て行ってしまった。あの日から、静奈とは会っていないし、ラインもしていない。寂しかったけれど、でも、かえってこれで良かったのかもしれない。この方が別れがつらくなくていいのかもしれない。


 順也も静奈も、中島くんも。誰もが私の東京行きを反対する中、幸だけは違った。


「せやったんか」


 幸は責めるわけでもなく、反対するわけでもなく、でも。賛成して応援してくれるわけでもなかったけど。


「もう決めたんやもんな。そんなん、しゃあないわ」


 でも、幸だけは笑って、背中を押してくれた。


「真央の人生やで。うちが口出しするわけにいかんもんなあ」


〈ありがとう〉


 幸はにっこり笑って、小さなため息を吐いた。


「せやけど、これからはつまらん毎日になってまうわ。真央がおらんと、つまらんなあ」


 しゃあないけどな、そう言って、屈託のない顔で笑ってくれる人がひとりでもいてくれて、ほっとした。たったひとりでも、こうして笑って受け入れてくれる人がいて、有難かった。


 幸は言ってくれた。


 生きとったらな、人生はなんぼでもやり直しがきくもんやで。生きとるんやから、何回でもやり直せるんや。真央は辛いんやろ。辛くてどうにもならんのやろ。せやったら、いっぺん、全力で逃げてみたらええやんか。逃げることは悪いことやないで。それで気付くことがわんさか出てくるもんや。そっからまたやり直せばええやんか。うち、めっちゃええこと言うなあ!


「一度、どん底まで落ちた人間が言うてるんや。間違いないで」


 そう言って、幸は私の両手を優しく握った。


「あと一年しないうちに、うちも東京いくからな。そん時は、笑うて会えたらええなあ、真央」


 幸はずっと、笑ってくれていた。そして、かわいい野菜柄のメモ用紙に、あるお店と名前を書いて、私にくれた。


「ここで、うちが信頼しとる先輩が働いとるんや。困ったことがあったら、そん時はここに行って、小日向こひなたゆう女の人に頼るとええよ」


 真央のこと、言うておいたるから、そう言って。


 このまま静奈とぎくしゃくしたまま別れるのはやっぱり心残りだ。けれど、時間は残酷で刻々と過ぎて行った。


 もう5月29日だ。


 天井のランプがくるくる回って、点滅した。私は慌てて切符をポケットに押し込むと、急いで玄関に向かった。ランプのスイッチを切ってドアを開けると、


「ただいま」


 と仕事を終えた健ちゃんが元気に帰って来た。いつもと変わらないその笑顔に、胸が締め付けられる。私の大好きな笑顔。やっぱり、この笑顔を前にすると、どうしても切り出すことができなくなってしまう。


 タイムリミットはもう、もうすぐそこまで迫っているのに。早く伝えなきゃいけないのに。分かっているのに、それができない。やっぱり、大好きだから。


 でも、これ以上は隠しておけない。ちゃんと、伝えないと。


 「腹へった」


 リビングへ向かう健ちゃんの背中を見つめながら、ポケットの上から切符をそっと押さえた。


 夕食を終えて、健ちゃんがお風呂に入ったのを確認して、クローゼットの片付けの仕上げに取り掛かった。最後のそれを手に取り、ため息をついた。小物が入っている、ちょっとおしゃれな小箱。これをしまって、あとは段ボールを東京へ送るだけだ。段ボールに小箱を入れる直前に、その手を止める。最後に、もう一度、開く。


 小学一年生の時だ。近所のお祭りで、お父さんが買ってくれたおもちゃのネックレス。おもちゃの指輪。高校の卒業式のあと、静奈とふたりで隣のさらに隣町のショッピングモールに繰り出した時に、お揃いで購入したピアス。大人になった気分で、嬉しかったな。小さな箱にはおさまりきらない想い出が、次から次からあふれてくる。


 その中でも、それがどうしてもいちばん輝いて見える。去年の夏。みんなで美岬海岸の花火を観に行った時、健ちゃんがくれたもの。向日葵の髪飾り。お前、ひまわりみたいに元気に笑うから、って。


 あの頃は、気持ちを両手で伝え合うなんてできなかった。必死に、健ちゃんの唇の動きを読み取っていた。健ちゃんの彼女になれるなんて、思ってもいなかった。私は向日葵の髪飾りを強く握り締めてわ、息を飲み込んだ。涙が出そうだったから。


 私、今も、向日葵みたいに、元気に笑うことができているのかな。きっと、もう、あの夏みたいに無邪気に笑えていない。もう、限界だ。もう、向日葵みたいに笑うことは、できない。


 髪飾りを手に握ったまま、部屋を飛び出した。リビングへ行くと、お風呂上がりの健ちゃんが、バスタオルを首から下げて、ソファでくつろいでいた。背にもたれて、テレビを眺めている。私は、リモコンを掴んで、電源を切った。健ちゃんが上半身を起こす。


「あっ! なにすんだ、今」


 と言いかけた手を止めて、健ちゃんが首を傾げた。


「何だ? 泣きそうな顔して……なんかあったのか」


 そうか。そうなんだ。私、今、泣きそうな顔しているのか。そうか。首を傾げる健ちゃんに、手のひらを差し出した。


「お、それ。まだ持っててくれたのか」


 私の手のひらから向日葵の髪飾りをつまんで、健ちゃんがくすぐったそうに笑った。


「なつかしいな」


〈健ちゃん〉


 言わなきゃ。言わなきゃ。いつまでもこんなうじうじしてられない。ちゃんと、伝えなきゃ。


〈あの時、健ちゃん、言ってくれたよね〉


「え、なに。おれ、なんか言ったっけ」


 私は小さく笑いながら頷いて、両手をゆっくり動かした。両手を握って肘を張り、こぶしを二回、下へ押した。


〈元気に、笑うって〉


 笑顔を作って、右手の指先で左の頬を繰り返し叩く。


〈真央は、って〉


 すぼめた両手のひらを前後に合わせる。つぼみという意味だ。そして、そのつぼみが花開くように、手首を中心にぐるりと回しながら指を開く手話をして、笑顔を作った。


〈向日葵みたいに、元気に笑うって、健ちゃん、言ってくれた〉


 ああ、とくすぐったそうに笑って、健ちゃんが頷いた。


「言ったなあ。恥ずかしいな」


 恥ずかしいことじゃないよ。だって、あの時、私、気が狂いそうなほど嬉しくてたまらなかった。


 ね、健ちゃん。


〈私、今も、あの時みたいに、笑えているのかな〉


「どういうこと?」


 あ。


 ひとつ、健ちゃんの顔から笑顔が消えた。健ちゃんは呆れたとでも言いたげに、ため息を落とした。


「笑ってるよ。ちゃんと、笑ってんじゃんか」


 健ちゃんが立ち上がる。大きな手が伸びてくる。健ちゃんは、私の前髪をかき分けて、あの夏の夜と同じように、髪飾りをつけてくれた。


「急にどうした。なんでそんなこと訊くんだよ」


 真央はちゃんと笑ってるよ、そう言って、健ちゃんは静かに顔を近付けてきた。唇が重なる直前に、私は健ちゃんの胸を両手でそっと押し返した。


 良かった。私、ちゃんと笑えていたんだ。


「真央?」


 目を点にして、健ちゃんが顔を覗き込んで来る。


 でもね、健ちゃん。去年の夏と、今は、違うんだよ。もう、あの夏には戻れない。だから。私は、髪飾りを外した。それを、健ちゃんの手のひらに置く。


〈それ〉


 両手のひらを上にして差し出すジェスチャーをした私を見て、健ちゃんは愕然とした表情を浮かべた。


〈返す〉


「は? 返すって……なんで?」


 出逢ったあの夏を、健ちゃんに返します。だから、私と出逢う前の健ちゃんに、戻って欲しい。


「ちょっと待て。いや、全然、話が見えないんだけど」


 そう言って、ソファに座り込んだ健ちゃんに、お母さんから送られて来た手紙を差し出した。


〈読んで欲しい〉


「これ、真央の母ちゃんからの?」


 私が頷くと、便箋に目を落とし、読み進めていく健ちゃんの表情が、みるみるうちに歪んでいった。そして、はっと顔を上げて私を見つめた。


「あの荷物……真央、お前」


 私は頷いた。


〈東京へ行く。この部屋を、この町を、出る〉


 健ちゃんの手から便箋が離れて、右に左に空を切り、フローリングに舞い落ちた。


「ちょっと待て。だって、まだ短大……は、東京って」


 何考えてんの、と健ちゃんが私の肩を捕まえた。私はゆっくり首を横に振った。


〈もう、決めたことだから〉


「決めたって言われたって……おれ、なんも聞いてないんだけど」


 そう言うと、健ちゃんは床に落ちた便箋を拾った。


「ここにも書いてあるだろ。ふたりで話し合って決めろって、書いてんじゃん」


〈健ちゃん〉


 私が顔を扇いでも、肩を叩いても、健ちゃんは無視して両手をぶっきらぼうに動かした。


「そんなに東京に行きたいのか」


 私は頷いた。本当は、行きたくないよ。健ちゃん。一緒に、いたいよ。


〈行きたい。早く、この町を出たい〉


「けど、短大卒業してからでも、遅くないよな。なにも今すぐ行かなくても」


 私は、強く、健ちゃんの顔を指さした。


〈健ちゃん!〉


 健ちゃんがはっと我に返った様子で、動きを止める。


 健ちゃん、ごめんね。ごめんなさい。勝手にひとりで決めて、こんなふうに突っ走るような真似して、ごめんね。でも、仕方なかった。こうするしか、方法がなかったの。


〈もう、これ以上、健ちゃんの重荷になりたくない。迷惑をかけたくない〉


「迷惑? おれがいつそんなこと言った? 一度も、重荷だなんて、思ったことないって」


〈でも、必ず、この先、私は健ちゃんの重荷になる。迷惑を掛ける日が、必ず来る!〉


「真央!」


 健ちゃんが、大きな口で私の名前を言った。でも、無視してたたみかけるように両手を動かした。


〈もう、無理だよ。もう、嫌。健ちゃんと一緒にいると、苦しい!〉


 好きで、好きで。たまらなく、大好きで。幸せすぎて。


〈苦しいよ!〉


「真央!」


〈健ちゃんと一緒にいると、自分が惨めになる〉


 健ちゃんの顔を指さす。


 あなたと一緒にいると、幸せで、それはそれはたまらなく、幸せで。だから、苦しい。


〈健ちゃんと、私は、違い過ぎる〉


 健ちゃんが、落胆したように両手を下ろした。


 健ちゃんは、いつも、私を助けてくれた。でも、いざ逆になった時、私にはそれができなかった。


〈健ちゃんが倒れた時、私は、気付くことさえできなかった〉


 だから、悔しくて、情けなくて、たまらなかった。


〈現実を思い知らされた。これじゃ、私、健ちゃんを幸せにできない〉


 健ちゃんは、ただじっと何かに耐えるように私の両手を見つめていた。


〈明々後日、この町を出る〉 


「……いつ」


 私が首を傾げると、健ちゃんはまるですがるように、必死に訴えかけるような目で、訊いてきた。


「いつ、戻ってくる?」


 一拍間を置いて、首を振った。


〈答えられない〉


「は、答えられないって、なんで」


〈きっと、戻らないから〉


 健ちゃんの驚いた顔。胸が痛くて、息をするのもやっとだった。でも、どんなにもがいて、足掻いても、もう……もとには戻れない。固まり続ける健ちゃんに、告げた。


 健ちゃん。私たちは、もう、無理だよ。


 私は両手の4本の指を甲側に合わせて、左右にゆっくり、離した。ゆっくり、たっぷりの時間をかけて、引き離した。


〈私たち、別れよう〉


 健ちゃんの瞳が、大きく見開く。


〈別れよう〉


 健ちゃんから便箋を取って、寝室へ戻ろうとした私の手を、健ちゃんが掴む。その目は真っ赤に充血していて、涙をいっぱいにためていた。


「おれは、別れる気はない。バカなこと言うな」


 健ちゃんが踵を返す。待って、と伸ばす私の手をぶっきらぼうに払って、健ちゃんはいちばん奥の部屋のドアを開いて、振り向いた。


「ふざけるんじゃねえよ」


 ドアが閉まる。最悪だ。なんでこんな終わり方になってしまったんだろう。もっと時間を掛けて、じっくり話し合うべきだったんだ。そうすれば、お互いに納得できていたのかもしれない。


 でも、これはこれでいいのかもしれないとも思う。変に情を残したまま終わるより、この方が。健ちゃん幸せの為なんだから。そう言い聞かせながら、あふれる涙を止めることが出来なかった。


 健ちゃん。ごめんね。大好きだよ。




 5月30日。


 翌朝、起きるともう健ちゃんはどこにもいなかった。いちばん奥の部屋にも、キッチンにも、リビングにも、バスルームにも、トイレにも。どこにも、健ちゃんの姿はなかった。まだ、朝の5時半なのに。

 

 玄関を確かめると、仕事へ行くときのスニーカーがなかった。車の鍵もない。仕事へ行ってしまったのかもしれない。


 もしくは、私と顔を合わせないように、早くアパートを出て、どこかで時間をつぶしているか。おそらく後者だろうと思う。でも、朝になっても、私の決意は固かった。


 それから、部屋の掃除や洗濯を済ませ、インターネットで宅配便の荷物の回収の手続きをした。宅配便の業者の人が荷物を回収しに来たのは、お昼を過ぎてからで、午後からは急に部屋ががらんとしてしまった。


 夕方になって、夕食の準備をした。こうして、誰かの為に狭いキッチンで料理をすることも、きっともうないだろう。今日で最後かな。だから、献立は健ちゃんの大好物ばかりにした。


 ハヤシライス。ポテトサラダ。コンソメスープ。デザートは、ミルクプリン。一生懸命作って、健ちゃんの帰りをひたすら待ち続けた。ひたすら。でも、20時になっても、21時になっても、健ちゃんは帰って来なかった。送ったラインに既読もつかない。それでも、私はじっと待ち続けた。


 天井のランプがくるくる回って点滅したのは、時計の針が23時を指す直前のことだった。健ちゃん? 急いでドアを開けて、固まった。


「あ、こんばんは、真央ちゃん」


 ごめんね、と苦笑いしたのは、ぐったりした健ちゃんを肩で支えるスーツ姿の亘さんだった。とっさに鼻をつまんだ。お酒臭い。


「酒くさいでしょ」


 亘さんが申し訳なさそうに「ごめん」と頭を下げる。


「飲み過ぎたんだ、健太。ほら、見ての通りだよ」


 亘さんは、担いでいる健ちゃんの頭をひとつ叩いた。乱れた仕事の作業着。真っ赤な顔でどぎついアルコールの匂いを放つ、ぐでんぐでんの健ちゃんを見たのは初めてのことだった。


「真央ちゃん」


 亘さんが私の顔を扇いだ。はっとして顔を上げると、亘さんがゆっくり大きく口を動かした。


「重くて、こいつ。ベッドに運びたいんだ。手伝ってくれない? どこ?」


 私は頷いて、亘さんに手を貸した。健ちゃんの身体は大きくて、とても重かった。ふたりでベッドまで運んで、リビングへ戻る。グラスに氷水を入れて差し出すと、亘さんはにっこり笑った。


「ありがとう。ちょうど水飲みたかったんだ。助かった」


 ネクタイを緩めながら水を一気に飲み干して、亘さんはテーブルの上を見て、優しく笑った。


「ずっと、待ってたんだね。健太のこと」


 私が頷くと、亘さんは空になったグラスをテーブルに置いて、眼鏡を人さし指で押し上げた。


「明日、発つんだってね」


 ゆっくり動く唇をじっと見つめる。


「真央ちゃん、東京に行くんだろ? 明日」


 私は頷いた。そうか、健ちゃんから聞いたんだ。


「そっか。うん、そっか」


 亘さんがうつむいてしまった。でも、直ぐに顔を上げて、私を見つめて来る。


「困ったもんだよな。なんでなんだろうな。ほんとに」


 眉間にしわを寄せ集める亘さんに、私は首を傾げるジェスチャーをした。


「果江に、真央ちゃんに。なんなんだよ、まじで。頭悪すぎるだろ」


 果江さんも、私も?


「なんだって、自分から健太を突き放すんだよ。果江も真央ちゃんも」


 亘さんも、相当、お酒を飲んだのだと分かる。いつもキリリとしているのに、今にもとろりんととろけそうな目をしている。胡坐をかきながら、前に後ろにぐらりと揺れて、亘さんは続けた。


「アメリカに行くのは結構。東京へ行くのも結構。でも、なんだって、別れなきゃいけないんだよ。おれには、全く理解できないんだよな」


 とろんとした目で、亘さんが私を睨む。


「別れる必要あるの? 健太がどれくらい、きみのこと想ってるのか、分かってんの」


 ぐっとこみ上げた感情をかみ砕いて飲み込んで、私はスマホに気持ちを打ち込んだ。


――私が健ちゃんをどれくらい想っているか

  分かりますか? 

  だからこうするしかなかった


 私は、すべてを亘さんに白状した。このひと月の間に何があったのか。東京にいる両親からの手紙のこと。健ちゃんのお母さんとの出来事も。全てを打ち込んだ時には、指先が疲れ果てていた。


 すべてを知った亘さんは、納得がいかない表情を浮かべながらも、至って冷静だった。


「水、もう一杯、もらえる?」


 グラスに並々に氷水を入れて渡すと、それを一気に飲み干して、亘さんは背中を丸めた。


「そのこと、健太は知ってるの?」


 そのこと、とは健ちゃんのお母さんとの出来事のことだ。私はぶんぶん首を振った。亘さんの表情が歪む。


「なんでだよ。そんな大事なこと、なんで健太に言わないんだよ。相談もなしに別れるっての?」


 スマホに打ち込もうとした私の手をそっと押さえて、


「いいよ。分かってるから」


 と亘さんは小さく笑った。


「言えば、健太を悩ませてしまうから。また迷惑かけるから、健太の重荷になりたくないから。だろ?」


 私が頷くと、亘さんはとても穏やかな表情をして「ばかだなあ」と言った。


「それだけ、好きなんだろうけど。健太がうらやましいよ」


 そう言って、亘さんはスーツのジャケットの内ポケットからを、ズボンのポケットからはスマホを取り出し、音声変換アプリを起動させて、テーブルに置いた。


「見てもいいよ。もう、時効みたいなものだから」


 と四つ折りのくたびれた紙ををすっと私の前へ滑らせた。雑誌を裂いたような紙だった。四つ折りの紙をゆっくり開く。


 最愛の人へ贈る、約束


 そう書かれたゴシック体の下に、幾つか並んでいたのは、綺麗なマリッジリングだった。その中のひとつだけに、赤いマジックで丸付けしてある。


 綺麗。思わずため息がでそうなほど美しい色だった。顔を上げると、亘さんが微笑んでいた。その紙を私からそっと奪って、亘さんが目を落とした。


「先月だったかな。雨の日だった」


 アプリ画面に綴られて行く亘さんの声を目で追う。


「健太が、この紙持ってうちに来たんだよ」


 おれ、結婚する。


「何言ってんだよ、まだ21だろって。そんな金あんのかよって。おれ、めちゃくちゃバカにしたんだ。見て、この金額」


 そう言って、亘さんが紙を指さした。その金額を確認して、驚愕してしまった。


 322,000。


 私にはとんでもない金額だった。


「でも、どうしても、このリングじゃないとダメなんだって。あいつさ、言ったんだ」


 こんなデザインも色も、そうそう見つからないって。これはもう運命だ。おれ、結婚する。真央にプロポーズする。


「って。これ、どうしても、このリングじゃないとダメなんだってさ」


 亘さんがそのローマ字を人さし指でなぞった。


 Eternal Rain

 ―優しい時雨のように 永遠に約束された愛


 雨、とアプリ画面に一文字表示されて、顔を上げると、亘さんが大きくゆっくり、口を動かした。


「真央ちゃんと健太に、何かある時は、いつも、雨が降るんだろ?」


 雨が……。


「健太、なんかそんなこと言ってたけど」


 その赤丸印のリングは、サムシングブルー色で。まるで、雨の一滴のような形のダイヤモンドがさり気なく輝きを放つ、シンプルなデザインだった。


「今日、飲んでる時、健太が言ったんだ。うろ覚えだけど」


 と、亘さんがアプリ画面を見るようにと、手を伸べてジェスチャーした。亘さんのスマホ画面に視線を落とす。


――真央はいつも雨を連れてくる

  真央はおれに優しい雨を降らせるんだけど

  その雨には音がないんだ


  静かでさみしくて

  でもやたらと恋しい


  真央は音のない世界は退屈だって言う

  だけどおれは違うと思ってて

  音のない世界は綺麗なんじゃないかと思う


  真央ちゃん?


 

 私は、亘さんの手首を強く握っていた。


 もういい。もうやめて。これ以上はもう……これ以上、健ちゃん気持ちを知ってしまうのが、怖い。きっと、決心が鈍る。


 亘さんに肩を叩かれて顔を上げると、


「そんな泣くくらいなら、やめなよ。東京行くの。健太と一緒にいてよ」


 と亘さんがハンカチを差し出していた。私は手を伸ばして、でも、突き返した。亘さんが目を丸くして、そして苦笑いした。


「ほんとに頑固だね。この話すれば、真央ちゃんが、思いとどまってくれるんじゃないかって、期待したんだけどな」


 無理か、やっぱ、と亘さんは肩をすくめた。そして、スーツのジャケットの裾を引っ張って、ぴしっと着直した。


「そこまで決意が固いなら、仕方ないよ。第三者のおれに、どうにかできる問題じゃなさそうだ」


 と、スマホを掴んで、亘さんが立ち上がる。


「ひとつだけ、皮肉を、言わせてもらうなら」


 その口の動きを読んで、私は頷いた。


「きみは、後悔すると思う。それで、後悔してることに、後悔すると思うよ。それでも、健太と別れるの?」


 亘さんの真っ直ぐな瞳を見つめ返して、私は頷いた。もう何が意地で、どれがつまらないプライドなのか分からない。でも、頷いた。


「そっか、分かった」


 帰るよ、そう言った亘さんを玄関まで見送った。


「証明して欲しかったよ。想いは障がいを乗り越えるものなんだって」


 そして、ドアを閉める直前に、亘さんが言った。


「奇跡は起きないから、奇跡っていうのかな。でも、どうしてもそうは思えないんだ」


 亘さんの肩越しに、きれいな三日月と無数の星が輝きひしめき合っている。


「真央ちゃんと、健太の場合は、なぜか」


 ドアが閉まった。ひんやりと冷たいドアを両手が這う。私はその場に泣き崩れた。あの、真冬の日を思い出す。静奈がこの町を出て行こうとしたのを、引き止めに行った朝、健ちゃんは言った。奇跡は起きるから、奇跡っていうんだ、と。


 巨大なダムが決壊したように、涙が止まらない。胸が張り裂けそうに痛い。健ちゃん、奇跡は起きないから、奇跡っていうのかもしれないよ。だってほら。今夜はとても綺麗な月夜で、今にも夜空から降って来そうなほど、億千の星が瞬いている。きっと、明日もいいお天気だよ。


 私たちにはもう、優しい時雨は、降らない。






 目を覚ますと、私はリビングのソファに突っ伏していた。覚えのない薄手のタオルケットが身体を包み込んでいた。身体が重だるい。目が腫れぼったい。どうやら、ソファにうつぶせになって泣きながら眠ったようだ。頬に触れるとぱんぱんにむくみ顔だと分かる。


 リビングには朝日が差し込んでいる。朝が来てしまった。


 やわらかなスパイスが効いた、いい匂いが漂ってくる。キッチンを覗いて、その後ろ姿に胸がときめいた。すらりとした長身、ライオンの鬣のように無造作な髪の毛、大好きな人の背中。ばかみたいだ。今さらときめいたって、どうしようもないのに。


 時計を見ると、まだ5時45分を過ぎたばかりだった。


 キッチンに立つ健ちゃんはもう着替えていて、昨日の酔っ払いの乱れた姿はまるで夢だったかのようだ。選択済みの仕事の作業着。どうやら、昨日のハヤシライスを温め直しているようだ。


 やわらかそうな、キャラメル色の髪の毛が、胸を締め付ける。その後ろ姿を見つめていると、ふいに健ちゃんが振り向いた。


「お、真央」


 びっくりした。


「起きたのか」


 びっくりした。


「おはよう、真央」


 びっくりした。いつもと何ひとつ変わりなく、あっけらかんと笑う健ちゃんに、びっくりした。まさか、振り向いた時、こんなふうに笑ってくれると思ってなかったから。固まる私に健ちゃんはにっと白い歯をこぼした。


「昨日はごめんな。飲み過ぎた。でも、すっきりした」


 健ちゃんがあまりにも普通に笑うから、困惑した。


「ちょっ早いけど、朝飯にする。朝からハヤシライスも、たまにはいいよな」


 せっかく、真央が作ってくれたんだからな、と大きな口で笑って、健ちゃんはコンロの火を止めた。


 どうして。健ちゃん。


「ほら、あっち行って座ってろ。真央の分も持ってってやるから」


 健ちゃん。


「なんだ? ぼんやりして。真央?」


 どうして、そんなに、真っ直ぐに笑うの?




 「いただきます」


 大食い選手権のようにバクバク食べる健ちゃんを、私はただぼんやりと眺めていた。食欲なんて全くない。ハヤシライスがどんどん冷めていく。


 不思議でたまらなかった。あまりにも普通過ぎる。私は今日、もうすぐ、この部屋も町も出て行くのに。いつもの穏やかな朝と、何も変わらない雰囲気が、私たちを包み込んでいた。


 健ちゃんに顔を扇がれてはっと我に返る。


「ハヤシライス、食わないのか?」


 小さく頷くと、


「なら、おれ食う」


 と健ちゃんが私の分のお皿を自分の方へ手繰り寄せる。すごい食欲だ。さっき、2回もおかわりしたのに。なんだか無性に可笑しくて、小さく吹き出した。


「お、笑った」


 と、健ちゃんがスプーンを置いて、両手を動かした。


「やっと笑った、真央」


〈だって、すごい食欲。お腹壊すよ〉


 私が笑うと、健ちゃんは壁時計をちらりと確認して、小さく微笑んだ。でも、少し寂しそうに。


「実は無理した。でも、こうでもして、いつも通りにしないと、なんか……勇気出せないと思って」


 勇気? 私が首を傾げると、健ちゃんは立ち上がり、キッチンへ向かった。すぐに戻って来た健ちゃんは、私のランチバックを持っていた。


 これ、とテーブルに置いて、くすぐったそうに笑った。


「そんなもんで悪いけど」


 なんだろう。持ってみたけれど、重さ的にお弁当ではなさそうだ。でも、ずしっと重みがあって、じんわりとぬくもりがあった。


〈なに?〉


 私が首を傾げると、健ちゃんは照れくさそうに両手を動かした。


「生まれて初めて作ったから、おいしくないかも。おむすび」


 ランチバックの中を覗き込んでみる。アルミホイルで包まれている、いびつな形のおむすびが、ふたつ入っている。顔を上げると、健ちゃんと目が合った。


「東京まで、道中長いからな。腹も減るだろ」


 胸が締め付けられる。苦しい。切なくて、温かくて、苦しい。


「新幹線の中で食え」


 健ちゃんが無邪気に微笑むから、胸が痛くて、息ができない。私はどれくらいばかなんだろう。一体、何を期待していたんだろうか。何もかもを捨てて、この町を出て、東京へ行くと決めたのは、私だ。


 行くな、と引き止めてくれたみんなを振り切って、頑として突っぱねたのも、この私だ。それなのに、一体、何を期待していたのか。ばかにもほどがある。


 今だって、健ちゃんは引き止めてくれると思っていたのだ。だから、まさかこんな形で背中を押されるなんて、思ってもみなかった。


「ほら、腹が減っては、戦はできないらしいからな」


 ランチバッグを手に固まる私に、健ちゃんはいつもの笑顔を向けてくる。


「東京は人がたくさんいるから、迷子になるなよ」


 私は、矛盾している。本当は、引き止めて欲しくて、たまらない。


〈健ちゃん〉


 引き止めてくれるものだと、私はこの期に及んで信じていたのだ。真央、行くな、と。自惚れも甚だしい。


〈止めないの?〉


 心から、引き止めて欲しいと思った。今、引き止めてくれたら、思いとどまるから。健ちゃん、引き止めて。


「なに言ってんの、今さら」


 健ちゃんが困った顔で笑った。


「止めても無駄なんだろ? 言い出したらきかない、その性格、おれ知ってるからな」


 それなら、その性格を、私は恨んだ。泣きそうになり、涙がこぼれてしまわないように、天井を見上げた。でも、時すでに遅しで、我慢しようにもダムが決壊したように、一気にあふれ出てしまった。鼻の奥がつんと沁みる。


 もっと、簡単で単純な性格だったら良かった。どうして、今、後悔してるんだろう。ばかみたい。


「何で泣くんだよ」


 健ちゃんが私の顔を扇ぐ。


「しっかりしろ、真央。負けんなよ」


 それだけ言った健ちゃんは、時間が来るまでずっと、ひたすらに動き回っていた。まるで、現実から目を逸らすように。朝食を終えるとすぐに片付け、出勤の準備、洗濯を回して、リビングの掃除。いつもは全部私の仕事なのに。健ちゃんがやるなんて、今ままできっと片手で足りるくらいだったのに。


 私はその間、ずっとソファで膝を抱えて、健ちゃんの背中を目で追い掛けて続けた。


 悲しかった。一度も健ちゃんと目が合わなかったことが、何よりも悲しかった。洗濯かごに山盛りに服を詰め込んで、健ちゃんがベランダに出て行った。清潔で優しい洗剤の香りがした。


 その時間はすぐにやってきた。もう、行く時間だ。立ち上がり、ベランダを覗くと、健ちゃんは慣れない手つきで洗濯物を干していた。


 果てなく広がる、青い空。今日は本当にいい天気だ。空は澄んで、流れる雲は白い。初夏の風が心地いい。


 皮肉なものだと思う。私たちに何か起きる時は、必ずと言っていいほど、雨が降った。けれど、今日に限って降らないなんて。別れの日だっていうのに、雨の気配さえ感じられない。


 そうか。そうだった。もう、私たちに優しい時雨が降り注ぐことはないんだった。


 小さく、静かに時間を掛けて、息を吐き出す。私はキッチンへ向かった。このキッチンで初めて作った料理は、ハヤシライスだった。ピカピカに磨かれたシンクをそっと撫でる。そして、最後に作った料理もハヤシライスだった。健ちゃんの大好物。


 この数カ月、毎日このシンクの前に立って、健ちゃんのことばかり考えていた。今日は何食べたいかな、明日は何を食べたいかな、って。でも、何を作っても「うまいうまい、おかわり」と食べてくれた。上手にできた唐揚げも、真っ黒焦げの失敗作の焼き魚も、なんでも。健ちゃんそういう人だった。


 無邪気で、あっけらかんとしていて、暖かくて。それはまるで。


 私、好きだったなあ。オレンジ色の西日が差し込むキッチン。そして、このキッチンからの眺めが何より大好きだった。


 不意に暖かな気配を感じて振り向くと、いつもそのリビングのソファに寝ころんで、健ちゃんは大きな口を開けて大笑いしてテレビを観ていて。とにかくその光景が大好きだった。


 健ちゃんがいるその空間は、まるで。


 私はリビングに戻り、ぐるりと一周見渡した。もう、ここに戻ることはないんだなあ。この暖かな、空間には、戻れないんだ。


 7時10分。私は鞄ひとつと、ランチバッグを持って深呼吸をした。時間だ。ベランダに視線を投げる。健ちゃんがこちらに背を向けて洗濯物をハンガーにかけているところだった。朝日が健ちゃんをシルエットにしている。


 私は窓ガラスを指先で2回、突いた。その背中が何かに怯えたように動いて、固まった。張りつめたような緊張感が空気を伝って、私まで伝染した。たまらず息を飲み込んだ。ハンガーごと、Tシャツが健ちゃんの足元に落ちる。


 微動だにせず固まっている健ちゃんの背中に手を伸ばした時、流れる雲がおひさまを隠した。健ちゃんがゆっくり振り向いた。


「どうした?」


 健ちゃんは笑っていた。いつもと何も変わらない、あっけらかんとした顔で。


「真央、どうした?」


〈時間だから〉


 私が壁時計を指さすと、健ちゃんがにっこり微笑んだ。


「時間か。そっか」


 うん。私は頷いた。そして、白いワンピースのポケットに手を突っ込んで、それを差し出す。


〈返す〉


「あ……ああ、うん」


 合鍵。そっと差し出された大きな手のひらに、出来るだけ時間をかけて、置いた。健ちゃんが苦笑いしながら、合鍵を握り締める。


「本当に……行くんだな。真央は」


 とても優しい瞳を、健ちゃんはしていた。

「ごめんな、真央」


 私は首を傾げた。


「おれ、心狭いし、小さい男だからさ。見送りとか、そういうのできないから」


 ごめん、と肩をすくめる。私は首を振った。そんなことない。健ちゃんは、とても心の広い男の人だ。だから、そんな、自分を責めるような顔をしないで欲しい。


 健ちゃん。


 その時、ベランダから、やわらかな風がふわりと膨らんで入って来た。


〈元気でね〉


 風がぴたりと止んだ。


「真央も。元気に頑張れ」


 うん。ありがとう。


「気を付けてな」


 健ちゃんが手を伸べてきた。私はその手を握った。相変わらず大きくて、優しい手だった。どちらからというわけでもなく、それがごく自然なことであるように、私たちは手を離した。


 絡み合って解けなかった糸が、不思議なほど簡単に、するするとほどけていく。それはそれはとても簡単に。


 あっけないな。


 大切な人の手を離すことがこんなにも簡単なことだなんて思っていなかったから、拍子抜けしてしまった。


「じゃあ、おれ、洗濯干すの、途中だから」


 何事もなかったかのように、健ちゃんがあっさりと背を向ける。私はその背中にこくりと頷いて、リビングを出た。


 あっけない。今日までの私たちの関係がとても薄っぺらいものだったような気がしてしまうくらい、あっけない。別れる時は、もっと難しくて、苦しくて、涙が出るくらい切ないものだと思っていたけど。


 また明日、うん、じゃあね。なんて、まるで放課後に別れる友達みたいに、あっさりしたものだった。だから、涙は出なかった。ただ、唖然とした。


 淡い空色の、ローヒールのパンプスを履いて、ドアノブに手を伸ばす。不思議と悲しくはないし、切ないわけでなければ、寂しいわけでもなかった。ただ、心にぽっかりと穴が空いている感覚だった。


 呆けたまま部屋を出て、放心のまま螺旋階段を下り、アパートに背を向けて立ち止まる。見上げた空が残酷なほど爽やかで、そうしたら、今度は急に寂しくなった。独りぼっちになってしまった気がした。


 振り返ろうか。アパートの真下に佇んでいると、大家さんが相棒の竹ぼうきを引きずってやって来た。


「今日は早いんだなあ」


 しわしわも顔をもっとしわくちゃにして、大家さんが微笑む。私はこくりと頷いた。


「いつもは、相方さんの方が早く出んのになあ。めずらしいこと」


 毎朝、健ちゃんは8時にアパートを出て会社に向かう。彼を見送ったあと、私はいつも8時半すぎに出る。だけど、今日からはそんな日常もなくなった。


「気を付けて、行っといで」


 うん、と頷いて、私は大家さんの肩を叩いた。


「なした?」


 顔を上げた大家さんに、小さく笑って、小さく会釈をした。


〈お世話になりました〉


 私の両手を見て、大家さんは不思議そうに首を傾げた。


「なんだそれは。じじには難しいでな。分からないな」


 いいの、分からなくても。手話なんて、知らなくていい。胸元で小さく手を振って微笑むと、


「はいはい、行っといで」


 大家さんはにこにこ笑顔で、アパートの前の駐車場をいつものように掃除し始めた。


 お世話になりました、大家さん。短い間だったけれど、こんな私に親切にしてくれて、ありがとうございました。さようなら。曲がった腰をよいしょと起こして、掃除に精を出す後姿に深々と一礼して、顔を上げた。


 無意識に健ちゃんと過ごした部屋を見上げてしまった。泣きそうになる。その部屋にドアが開いて、健ちゃんが飛び出してきて、私を引き止めに来てくれるかもしれない。でも、そんな気配は一切なくて、ドアは閉まったままだ。そんな、ドラマみたいなことあるわけないか。


 振り返ったり、見たりするから、いけないんだ。もう、振り返ってはいけないんだ。あの温かい手を離したのは、私なのだから。目の奥がじわっと熱くなり、涙が出そうだ。泣かないように、息を飲み込んで、奥歯を噛んで、アパートに背を向けて歩き出した。


 車3台分先に、大きな楓の木が立っている。葉は青々として、瑞々しい輝きを放っている。そうだ。あの楓の期まで行ったら、走り出そう。振り返らずに、走ろう。そして、そのまま一気に大通りへ出てしまおう。私は足早に楓の木を目指した。


 そして、大きな楓の木の下に差し掛かり、走り出そうとアスファルトを蹴り走り出そうとした、その一瞬だった。


 わあっ。まるで、竜巻のように、突風が前方から吹き抜けた。私はとっさに目をつむり、風がおさまるのを待った。息ができないほどの突風だった。雨の季節を感じさせる少し湿った、でも、さわやかに澄んだ風。


 そっと目を開けて顔を上げると、頭上で楓の葉が体を擦り付け合うように揺れていた。枝葉の隙間からお日様が雨のように降り注ぐ。この木漏れ日が、本当の雨ならいいのに。


 どうして、あんなにあっけない終わり方をして出て来てしまったんだろう。ありがとうくらいちゃんと残して来ればよかった。じゃあ、みたいに、また夕方になれば会えるような、簡素な別れ方だった。こんなだから、いつまでもこうして諦めがつかないのかもしれない。


 まだまだ、たくさん、伝えたいことは山ほどあったのに。この両手に抱えきれないほど、あるのに。揺れる葉から降り注ぐ光のシャワーを浴びながら、必死に涙を飲み込んだ。眩しさに目がくらむ。


 あ。一枚、二枚、木の葉が空を切りながら降りて来る。そして、木の葉が肩に触れた時、まるで肩を叩かれたような気がして、はっとした。


 真央。


 風がぴたりと止んだ瞬間、私は弾かれたように振り返った。息を飲んだ。アパートの前に、健ちゃんが立っていた。目を見開く私に、健ちゃんは険しい表情で、ぶっきらぼうに両手を動かした。


「違うからな! 勘違いすんなよ。追い掛けて来たわけじゃないからな! 引き止める気もねえし!」


 私は、ランチバッグを強く握りしめた。


「ただ……息が詰まるから。だから、外に出て来ただけだ」


 お前、なにやってんだよ、と健ちゃんはまるで怒っているかのように、続けた。


「いつまでもそんなとこいるなよ。早く行けよ。時間、間に合わなくなるぞ」


 そんなこと、言われなくても、分かってる。分かってるよ。私は健ちゃんを睨んだ。


〈そっちこそ! こんなことしてる時間あるなら、早く仕事に行けば? 遅れても知らないから〉


 なにー! 、と健ちゃんが数歩、詰め寄って来た。


「真央に、おれの気持ちなんか、分かんねえくせに」


 知らない。分かるわけないじゃん。


〈私は健ちゃんじゃないから、分からない〉


 知りたいけど、できないんだもん。


〈健ちゃんだって、私の気持ちなんて、分からないくせに〉


 だよな、分かんねえもん、と健ちゃんは少し背中を丸めて、少し困ったように笑った。


「あの部屋は、息が詰まるんだ」


 と、健ちゃんがアパートを指さした。


「振り向くといつもあるはずの、頑固な彼女の姿がなくて。探したけど、どこにも居なくて……息が詰まるんだよ」


 次の瞬間、私の胸はびっくりするほどいっぱいになった。


 真央は、と健ちゃんが私を指さして肩をすくめた。


「真央は、おれの、酸素だったから。大切な大切な、酸素だったから」


 音なんて無くて、静かで。でも、そこにいるのが当たり前で。真央が居る空間はすごく静かで、息をするのが楽で。真央がそこに居ることが、当たり前になっていて。だから、と健ちゃんは続けた。


「さっき、振り向いたら、真央が居なくて。そうか、もう居ないんだなって思ったら、急に息苦しくなって」


 健ちゃんが、私を指さす。


「真央が居ない空間は、息が詰まるんだ」


 風が、アスファルトに降りたばかりの木の葉を、押し転がした。


「気付いたら、部屋飛び出してた。真央が、戻って来ないことは、分かってるんだけどな」


 おれはばかだな、そう言って健ちゃんは、晴れでもなければ、雨が降るわけでもない、曇り空のような曖昧な微笑み方をした。


「ただ、ひとつだけ、訊いておきたいことがあるんだ。無理やり引き止めたりしないから、教えてくれないか」


 私はこくりと頷いた。


「初めて会った日、おれが訊いたこと、覚えてる?」


〈何だっけ?〉


「音のない世界は、どんな感じ?」


 懐かしい夏の日の想い出が、一気に蘇った。


「あの時、お前、砂に書いただろ?」


 うん。書いた。つまらない、って書いたね。


「今も、同じ? 真央のいる世界は、つまんねえの?」


 確かに、あの頃、わたしはこの世界が好きなわけではなかった。この広い宇宙には、ありとあらゆる音があふれているそうだ。でも、その音ひとつ、私の耳は拾ったことがない。私が存在する世界には、音がないから。いつものっぺりとしていて、殺風景で、つまらなくて、好きではなかった。


 だけど、ある日、突然。私はこの世界が大好きになった。ライオンの鬣のような頭をした、よく笑う人と出逢った、あの夏の日から。この世界が楽しいことを教えてくれたのは、ライオン丸。


 ライオン丸の隣にいると、いろんな音が見えて、それはそれはもう楽しかった。聴こえることはないけれど、音が見えるから、嬉しくて。健ちゃんと出逢ったあの日から、今日まですっと。綺麗な世界に、私は生きている。


 「音のない世界は、どんな感じ?」


 うん。そうだなあ。私はにっこり微笑んだ。


〈音のない世界は、綺麗だよ〉


 それはそれは、たまらず息を飲んでしまうほど、綺麗なの。


「そっか……そうかあ!」


 安堵したのか、健ちゃんは大きな口で八重歯を覗かせて笑った。


「例えば? 例えば、どんな世界?」


 例えば、か。うーん。そうだなあ。


〈例えば〉


 健ちゃんがくれたこの幸せな時間を、どんな言葉にして、両手で伝えれば、届くだろう。すごくすごく、考えた。限られた時間をたっぷり使って考えた末、これしか思い浮かばなかった。


 私は、青空を両手で仰いだ。例えば、ここに良く晴れた夜空が広がっているとしよう。そうなると、あの太陽はまんまるのお月さまだ。


〈まるで〉 


 キラキラ、そして、バラバラ。すぼめた右手を頭上で自分に向ける。キラキラ輝く。その手を閉じたり開いたりを繰り返した。バラバラと降って来る。まるで、輝く星が、時雨のように優しく降るように。


〈星屑を、散りばめたように、綺麗だよ〉


 本当に、本当に、綺麗だったの。毎日が眩しかった。健ちゃんと過ごした毎日は、ほんとうに輝いていた。


「そっか。そんな綺麗な世界に、真央は生きてんのか」


 そっか、良かった、と健ちゃんは嬉しそうに笑っていた。


「それなら、安心した。それだけは訊いておきたかったんだ。だから、慌てて、ほら」


 見ろよこれ、まぬけだろ、と健ちゃんが自分の足元を指さしてはにかんだ。思わず吹き出してしまった。右足はいつものアディダスのスニーカーで、左足はグレーのクロックスのサンダルで。


 どんなに急いで来てくれたんだろう。そんなことを訊くために、私を追いかけて来てくれたんだろうか。


〈まぬけだね〉


 健ちゃんと別れること。順也や静奈という大切な人たちの元を離れて、この町を出ること。今の幸せを、自らの手で切り離すこと。決めたのは自分なのに、泣くなんてそれこそ間抜けだ。そう思っても、どうしても、涙があふれそうになる。


〈ごめんなさい〉


 健ちゃん、ごめんね。こんな終わらせ方をしてしまって、ごめんね。


「なんで、真央が謝るんだよ」


 だって、私が、全部、諦めてしまったから。


〈健ちゃんがくれた、綺麗な世界を、私が諦めてしまったから〉


「なんだそれ。そんなふうに、言うなよ」


 健ちゃんが、肩をすくめる。


〈健ちゃん、私のこと、忘れてね〉


 涙を堪えて、両手を動かした。


〈全部、忘れて、幸せになって欲しい〉


「真央! いい加減にしろって!」


 健ちゃんが、大きな声を出したのだと分かった。アパートの駐車場を掃除していた大家さんが、掃除を中断してこっちを見ている。


「いいか、真央」


 健ちゃんが目をつり上げて、私を指さす。


「おれは、真央のこと、絶対に忘れたりしない」


〈どうして?〉 


「そんな簡単に忘れることができる恋だったら、おれは始めから、真央を好きになってない」


 健ちゃんのぶっきらぼうな手話が、鋭い矢となって、胸に突き刺さる。痛い。なんて強烈な痛みなのだろう。


「おれと出逢ったこと、ふたりで恋をしたこと、一緒に暮らしたこと。真央は後悔してんの?」


 私は首を横に何度も振った。後悔はひとつもしてない。この恋は神様からプレゼントしてもらった、奇跡のようなものだった。健ちゃんに出逢えたことがもう、奇跡のようなものだった。だから、これからも、後悔はしないよ。


〈出逢えて良かった。幸せだった〉


「それなら、良かった。安心した」


 少しの間があったあと、健ちゃんが大きな口とジェスチャーで言った。


「ほら、もう行け。まじで乗り遅れるぞ」


 私は頷いた。でも、どうしても足が動いてくれない。佇む私に、健ちゃんは困ったように笑った。


「だから、行けって」


 そして、次の瞬間、険しい顔つきになった。まるで、怒っているような表情だった。


「行けって言ってるだろ!」


 敵を威嚇して追い払おうとする野生のライオンみたいだ。そんな健ちゃんを見たのは初めてで、思わず一歩後ずさりした。


「行け! 行けって! 行け!」


 まるで、うさぎを追い払おうとするライオンだ。


「行け!」


 私はとっさに踵を返して駆け出した。けれど、抱えていたランチバッグを落としてしまい、立ち止まった。ランチバッグを拾い、振り返る。そこには早足でアパートへ引き返す健ちゃんの後姿があった。


 健ちゃん、ごめんなさい。ここまで自分がばかだったなんて。自ら望んだことなのに、失おうとして、こんなに後悔しているなんて。ばかみたい。


 健ちゃん。私、今、気付いたの。今さらになって、気付いたの。健ちゃんのことが好き。本当にどうすればいいのか分からないくらいに、大好きみたい。


 遠ざかる健ちゃんの背中。あふれる涙が頬を伝い落ちる。涙で滲む先に、大好きな人の背中が霞んでいった。待って、健ちゃん。まだ、伝えてないことがあるの。もう一度だけ、振り向いて。お願い。


 その時だった。突然、健ちゃんが立ち止まった。健ちゃんが振り向く。そして、私を見た途端に呆れたように背中を丸めた。


「まだいる。早く行けって。遅れるぞ」


 そして、困ったように、笑った。私は、健ちゃんに向かって、両手を突き出した。


〈ありがとうございました〉


 目を丸くして固まる健ちゃんと、私の距離を、水分をたっぷり含んだ風が吹き抜けて行った。あ、雨の季節が近いかもしれない。と思った。


〈健ちゃんは、とても、暖かくて、おおらかで、ほんとうに暖かくて〉


 健ちゃんの顔が、静かに歪み始めた。頬を伝う涙が、アスファルトに落ちる。私は、震える指で大好きな彼を指さした。

 

〈あなたは〉


 健ちゃん、あなたは。


〈私の〉


 こんな私を愛してくれた。その暖かい両手で。それはそれは、たまらなく暖かくて。まるで。


〈陽だまり、でした〉


 あなたは、私を包んでくれる、陽だまりだった。健ちゃんの隣はいつも暖かくて、そこは、ひだまりだった。


 私たちは、ほんの少し、見つめ合った。いろんなことが、あったね。本当にいろんなことがあったね。健ちゃん。


 風が、止んだ。まるで、時間が止まったかのように、ぴたりと。


 さようなら、健ちゃん。


〈お世話になりました〉


 深く、一礼する。そして、私は陽だまりに背を向けた。そして、走り出した。もう、絶対に振り返らないと、心を決めて。一気に駆け出して大通りに出たところで減速し、呼吸を整えながら歩いた。


 さようなら。ありがとう、健ちゃん。





 駅に着くと、中央改札口で待ち伏せしてくれていたのは、順也と幸だった。新幹線の発車時刻を教えたのは、幸にだけだ。おそらく、幸が静奈に伝えて、順也にも伝わった、といったところだろう。だけど、静奈の姿はなかった。


 額に滲む汗を拭きながら近づいて行くと、幸はにっこり微笑んで訊いて来た。


「ほんで、彼氏とはちゃんとさよならしてきたんか? 逃げて来たんとちゃうやろな? 話し合うて来たんよな?」


 私が頷くと、幸も小さく頷き返して来た。


「せやったら、ええんやけど。お互いに納得しとらん別れだけは、あかんで」


 幸の目は逸らしてしまいたくなるくらい、真っ直ぐだった。


〈ちゃんと話し合った〉


「ほんま? 中途半端な別れ方がいちばん、後引くねん」


〈嘘じゃない、大丈夫〉


 少しの間があって、心配そうに幸がしぶしぶ頷いた。


「せやったらまあ、ええんやけど」


 私は順也を見つめた。順也が少し申し訳なさそうに苦笑いする。


「ごめんね。しーのこと、誘ったんだけど」


 私は首を振った。いいの。これで良かったんだよ、きっと。うつむいた私の顔を、順也の手が扇ぐ。


「でもね、しーのやつ、本当は来たくてたまらなかったんだと思う」


 そして、順也が車椅子の背のポケットから出したのは、


「これ、真央に渡して欲しいって。しーが」


 真っ白な天使の羽根がプリントされた、淡い水色の封筒だった。


「手紙、預かって来たんだ」


 新幹線の中ででも読んでやってよ、と順也はその手紙を私の鞄に押し込んだ。


「しーは強がってるだけなんだよ。分かってやって欲しい」


 私はしっかり頷いた。大丈夫。ちゃんと、分かってるから。


「しーはさ、真央を困らせたくないんだと思う。真央のことが大好きだからね、しーは」


 泣いて、わめいて、困らせたくなかったんだと思うよ。大好きな真央が決めたことを、応援する為には、こうするしかなかったんだよ。来たくなかったんじゃない。来たくても、来れなかったんだと思う。来たら、真央を力ずくで引き止めて、困らせてしまいそうで、しーは来れなかったんだよ。と、順也が教えてくれた。


「しーのこと、嫌いにならないで、真央」


 何を言うのだろう。私が静奈を嫌いになるわけがないのに。例え、静奈が犯罪者になったとしても、私は嫌いにならないと思う。


〈私は、静奈が大好きだよ。どんなことがあっても、嫌いになれないよ〉


「良かった」


 それと、もうひとつ、お願いがあるんだ、と順也が言い出した。首を傾げて見せると、順也が照れくさそうに笑った。


「一度だけ、真央を、抱きしめてもいいかな」


〈私を?〉


「あ、健太さんに怒られちゃうかな」


 私は苦笑いして、首を横に振った。


〈もう、別れたから〉


 儚いものだ。別れると、もう赤の他人だ。もう、私と健ちゃんを繋ぐものは何もない。あれほど一緒に過ごしてきたというのに。今日からはまた、赤の他人だ。


「でも、健太さんは」


 何かを言いかけた順也の両手をわざと無視して、逆に訊いた。


〈順也こそ大丈夫なの? 静奈がやきもちやくんじゃない?〉


 すると、順也は可笑しそうに笑って、吹き出した。


「大丈夫だよ。だって、しーは真央のことが大好きなんだ。すごく。ぼくなんて、真央の次なんだから」


 朝の通勤通学ラッシュ前の改札口はとてもゆったりとした時間が流れている。


「よし、真央」


 順也が両手をいっぱいに広げる。私はその腕の中にそっと飛び込んだ。順也が私を力いっぱい抱き締める。私の友達であり、兄であり、時には父親のような、大好きな幼馴染み。順也もまた、優しいひだまりだった。


 そんな私たちの横で、なぜかやきもきしていたのは、幸。


「何しとんねん。あほか。早うせんと、時間がきてまうで」


 来たらしばいたる、そう言って、幸はキョロキョロと忙しない。どうしたのか訊くと、中島くんが来るらしいのだが、来なくてイライラしているらしい。その時、「あ」と階段のほうを指さしたのは順也で、中島くんが走ってくるのが見えた。


「ごめん! 間に合った!」


 ふう、と息を吐いて背中を丸めた中島くんに、幸が詰め寄る。


「遅い! なにをちんたらしとったんや!」


 しゃきっとせえ! 、と思いっきり背中を叩かれた中島くんが、飛び跳ねるように直立した。そんなふたりを見て笑っていると、順也が私の顔を扇いだ。


「面白いふたりだね」


〈そうなの。いつも、こうして、じゃれ合ってる〉


 そんな私に、中島くんは小さめの紙袋を突き出して「お餞別」と微笑んだ。


「これ、持って行ってよ」


 何だろう。首を傾げると、中島くんは大きな口で言った。


「おれんちの、自家製かまぼこ。最高にうまいから」


 おすすめの食べ方は、わさび醤油に付けて食べる、だそうだ。ありがとうと手話をしてお辞儀をすると、中島くんは額に汗を輝かせながらはにかんだ。


「おれさ、真央と調理実習してる時間が、いちばん楽しかったよ。いつも、味付けで揉めてたけどね。真央とやり合うの、すごい楽しかった」


 私も。最初はとっつきにくそうで苦手だったけど、実際はそんなことなくて、人より少しシャイで照れ屋で、とても友達思いの、初めての男友達だった。


 7時50分。いよいよ発車時刻が近づいて、私は鞄を手に背筋を正した。


〈みんな、元気でね〉


 3人に背を向け、改札を抜け、もう一度振り返ると、


「元気に笑っとらんと、許さんよ」


 と幸が笑ってくれていた。もう一度、会釈をして、私はホームへ続く階段を下った。今度は、振り返らなかった。もう新幹線はホームに停車していて、指定の車両に乗り込んだ。指定席に座り、荷物を足元に置き、うつむいた。


 今日まで、どれくらい泣いたのだろう。疲れてしまったなあ。すると、隣の席に誰かが座る気配がした。ふと顔を上げると、彼女と目が合った。


「え、あっ、ごめんなさい。ぶつかっちゃいましたか?」


 おそらく、同い年か、少し年上に見てとれる、清楚な感じの女性だった。真黒でたっぷりとした髪の毛は背中まで長く、切れ長で可憐な目が、まるで日本人形のようだ。


「あの……」


 無反応の私に、彼女は何かを話しかけてくる。けれど、もちろん聴こえないし、唇の動きが早くて、読み取ることもできない。スマホに、すみません、耳が、と打ち込んでいると肩を叩かれて顔を上げた。


 逆にスマホを差し出されてしまった。


――愛美

  まなみです

  あなたは?


――真央

  まおです

  愛美さんはどこまで行くの?


――上野

  真央さんは?


――上野です


「え、ほんと? 偶然ですねえ」


 彼女はとても気さくな女性だった。わたしよりふたつ年上で、夢を叶えるために、今日、上京するのだそうだ。


 8時4分。体ががくりと前に傾き、新幹線が動き出す。ゆっくりと加速する新幹線は、6月の風を切り開きながら、ホームをあとにした。


 正直、自分でもびっくりするほど、私は冷静だった。泣く準備はしていたし、できていた。でも、涙はでなかった。確実に愛美さんの存在が影響して、隣に誰かがいることで心強かったのは確実だった。


 新緑の山々。6月の青空に浮かぶ、白濃い雲。車窓の外を流れる景色を眺めていると、ふと、思い出した。私は、膝の上で鞄を開いた。


 私と静奈は、高校一年生からずっと、一緒に過ごしてきた。春夏秋冬。晴れた日はもちろん、雨の日も、雪の日だって。隣に静奈がいる。それが当たり前になっていたし、静奈は手話を覚えてくれたし、スマホもある。だから、静奈から手紙をもらうのはこれが初めてだ。


 どうして何も相談してくれなかったのか、なぜ真央はいつもそうなのか、我慢してばかりで、勝手に決めつけるのか、一人で抱え込むのか。きっとそんな叱咤が綴られているのだろうと思った。


 でも、いざ開いてみると、私を責めたり叱るようなことは、何も綴られていなかった。ただのひとつも。





真央 へ


見送りには行きません。

泣いてしまうから。

真央が大好きだから。

真央が大切だから。


真央の気持ちを分かってあげれず、ごめんね。

大好きなのにぎくしゃくしたまま、見送りにも行けない親友で、ごめん。

いちばん悩んでいた時に話をきいてあげれなくて、ごめん。


ひとりで決断するのは大変だったよね。

決断した真央に拍手を贈ります。

だから、乗り越えてください。


この町に真央がいないんだと思うと辛いです。

寂しいです。

心細いです。

だって、真央が大好きだから。


真央、元気でね。

また、会えるよね。

また、連絡してもいい?

気持ちの整理がついたら、連絡もらえると嬉しいです。


真央は私の生涯唯一の親友です。


                 静奈





 困ったなあ。涙が止まらないよ。


 ただ、分かったことは、自分が思っていた以上に、私は静奈が大好きだったということだった。水色の便箋は、私の涙でふにゃふにゃになっていた。


 肩に、 やわらかな感触があった。顔を上げると、愛美さんがハンカチを差し出してくれていた。


「ど、う、ぞ」


 空色のハンカチは、良く晴れた昼下がりのような、カモミールのような、甘い林檎の蜜のような、陽だまりのような匂いだった。ますます泣けて仕方なかった。


 午前10時、新幹線は仙台駅に停車した。がらんとしていた車両内が、乗客で一気に窮屈になった。荷物を膝の上に乗せて、静奈からの手紙を鞄にしまっていると、新幹線が出発した衝撃で、荷物を落としてしまった。


 いけない。慌てて拾い集めようとしたした時、ランチバッグからおむすびがころころと転がって、愛美さんのスニーカーのつま先にぶつかって止まった。白くて細い腕がすっと伸びる。愛美さんがおむすびを拾い、私に差し出した。

 

 歪な形のおむすびを見て、想像してしまった。キッチンに立って、慣れない手つきで一生懸命おむすびを握る、彼の後姿を。固まり続ける私の手に、愛美さんがおむすびを握らせた。


 健ちゃん。健ちゃん。


 愛美さんに肩を叩かれて、はっとした。


「大丈夫?」


 頷いたはいいけれど、本当は大丈夫じゃなかった。愛美さんがおむすびを指さして、自分のサンドウィッチと交換しないかと言ってきた。私は賛成した。でも、さすがに落とした方を交換するわけにもいかず、ランチバッグに残っていた方をと思い、手を突っ込んだ、その時だった。


 なんだ、これ。おむすびとは違う感触があった。ランチバッグの底に何かが入っている。取り出してみると、それは二つ折りにされた一枚の紙だった。開いて、思わず息を止めた。



新幹線が発車する時の音

ガゴン グイーン


線路と車輪がこすれる音

ギュィーン


車両が左右に揺れる音

ゴトン ゴトン ゴトン


新幹線が速度を落とす音

シュイーン ガタンガタンガタン


新幹線のドアが開く音

プシュー


真央へ

全部、母さんから聞きました

おれが真央を悩ませてたんだな

ごめんな

許してな

悩ませて悪かった


最後にこれだけは信じて欲しい

本当に真央のこと大好きだからな


元気でな

さよなら、真央

幸せになれ

頑張れ、真央



 健ちゃんは、真っ直ぐな人だ。


嘘でもなんでもいいから、過去形にしてくれたら、有難かったのに。大好きだ、じゃなくて、好きだった、と。現在進行形だから、嫌になっちゃう。本当に、素直で嘘がへたくそな人だ。


 健ちゃん、大好きだけど、さよなら。


 涙があふれた時、本当はこうして、息ができなくなるくらいに、気が済むまで泣きたかったのだと、気付いた。呼吸困難になってしまいそうなくらい、泣きたかったのだと。ランチバッグと手紙を抱きすくめて泣く私に、何をするわけではなかったけれど、愛美さんはただ見守ってくれた。


新幹線が大宮駅に停車した時、愛美さんが私の肩を叩いて、スマホを差し出して微笑んだ。


――素敵な人に出逢えたんだね


 返事をしようと思ったけれど、スマホに文字を打ち込む余裕がなくて、だから、申し訳ないなと思いながらもひつとだけ手話をして、頷くジェスチャーをした。


〈彼は、私の、陽だまりでした〉


 愛美さんは一瞬目を丸くしたけれど、すぐに笑って、こう言った。


「よく分からないけど、そうなんだ。幸せだね」


 だから、私は、もう一度、泣いた。


 幸せだった。健ちゃんの隣は、いつもぽかぽかと暖かくて、幸せだった。


 健ちゃんは、私の、陽だまりだったの。





上野駅に着いたのは、11時50分頃だった。


 新幹線を降りる時、愛美さんが改札まで一緒に行こうと言ってくれたので、甘えることにした。初めて見る巨大なエスカレーターを上がった先に改札はあって、その向こうで私に手を振っていたのは、久し振りに見るお母さんだった。


「お母さん?」


 愛美さんに訊かれて頷くと、彼女はお母さんに向かって会釈をして、


「それじゃあ、ここで。また会うことがあったら、その時はお茶でも」


 と足早に改札を抜けて行ってしまった。それから、彼女に会うことはなかったけれど。


 改札を抜けると、少し痩せて、でも、とても顔色の良いお母さんが笑ってくれていて、安心した。


「綺麗になったね、真央。少し見ないうちに、大人になった」


 私は苦笑いした。大人になんてなってない。大人になんてなりたくない。浮かない様子の私の態度に、お母さんの笑顔も苦い笑顔に変わった。


「疲れたでしょ?」


 私はふるふると首を振った。疲れたわけじゃない。そもそも、疲れたのか疲れていないのか区別がつかないほど、訳が分からない。


〈疲れてない〉


 まるで、連続で押し寄せる波のように、人が駅構内を流れて行く。


「あ、嘘だ。疲れてるじゃない」


 でも、お母さんにはすぐ、見破られてしまう。お母さんは、私のことなんてお見通しだ。


「真央の、心が、疲れてるんでしょ」


 ああ、一生、この人には敵わないんだろうなと思いながら、私は胸元に手を当てた。本当だ。鼓動が弱弱しく、私の身体を叩いてくる。私の心臓に住み着いているうさぎは、疲れて疲れて、くたくたみたい。


 なんか、疲れた。自覚した途端、つまらない意地も無駄な強がりも、プライドも、土砂崩れのように一気に崩れ落ちていった。新幹線の中であんなにも泣いたのに、土石流のように頬を伝っていった。悔しくて、苦しくて、悲しくて。惨めで。もう止まらなかった。


 それでも、構内を行き交う人たちは、両手で会話をする私たちに目もくれず、さっさと歩いて行く。私はこの世界に存在していないのかもしれない。そう思ってしまうほど、駅構内の空気は雑念としたものに感じた。だから、余計に泣けてたまらなかった。


 そうか。ここは東京という賑やかで華やかで、忙しい街。私の知らない街。生まれ育った、大切な人たちと出逢い、別れた、ゆったりとした時間が流れるあの海辺の町とは違うんだ。痛いほど思い知らされる。私は、本当に、陽だまりを失ってしまったのだと。


〈お母さん〉


 私はこれから、どうすればいいのかな。もう過去に戻ることなんてできないし。東京は右も左も分からない。いつも手を差し伸べてくれる順也も静奈もいない、私の全てを包み込んでくれる健ちゃんもいない。


〈私、頑張ったの。頑張ったんだよ〉


 お母さんが頷いた。


「知ってるよ。真央が、頑張り屋さんだってこと」


 お母さんの優しい指が、私の涙をすくいとる。その手は柔軟剤のような優しい匂いがする。


〈お母さん、言ったよね〉


 前に、言ってたよね。健ちゃんとぶつかって落ち込んでいた私に。頑張れば何でも乗り越えられるように私を産んでおいた、って。


〈耳が聴こえなくても、両手があるって〉


 お母さんは悲しそうな顔で、私の両手を見つめた。


〈だから、私、頑張ったの〉


 耳が聴こえなくても、この両手で気持ちは伝えられるって、信じていたから。ずっと、健ちゃんと一緒にいられるって。私たちには限界はないんだって。信じて、頑張ったの。


〈だけど〉


 この恋の障害を乗り越えることが、私には出来なかった。ライバルでも、環境でも、なんでもない。


 この恋の障害は他の何でもない、私の耳だったから。


〈頑張ったけど、どうにもならなかった〉


 諦めたくなくても、諦めるしか、方法がなかった。


〈本当に、すごく、頑張ったんだよ〉


 震える私の両手を包み込むように握って、お母さんが言った。


「ごめんね、真央。お母さんの、せいだね。頑張れ、なんて、言わなきゃ、良かったね。頑張っている人に、もっと頑張れなんて、酷いよね」


 お母さんの頬を伝う涙は、透明で綺麗。


「だから、こんなになるまで、頑張り過ぎてしまったんだよね。疲れちゃうよね」


 健ちゃんも、と言ったお母さんの唇が小刻みに震えていた。


「頑張り過ぎて、疲れちゃっただけなのにね。ふたりとも」


 そう言ったあと、お母さんは私の手を引いて、壁際のベンチへ移動した。


「全部、聞いたよ。健ちゃんから」


 私は目を見開いた。片方の目から、涙がこぼれ落ちる。


 お母さんは全てを知っていた。突然、私が短大を辞めたいと言い出したこと、東京へ行きたいと言い出したこと。それから、健ちゃんと別れた理由も。


「健ちゃんのお母さんから、反対されてしまったんだってね」


〈何で? お母さんから、健ちゃんに訊いたの?〉


 噛みつくように訊く私に、お母さんは涙ぐみながら首を振った。


「今朝、8時頃だったかな。健ちゃんが、電話をくれたの」


 おそらく、私が新幹線に乗ってあの町を出た頃だ。


「健ちゃんね、何度も何度も、謝ってね。すみません、ごめんなさい、って」


 真央を、とお母さんが私を指さした。


「幸せにしてあげられなくて、ごめんなさい、って。たくさん泣かせてしまいました、すみません、って」


 お母さんが、その時の会話をひとつひとつ思い出すように、ひとつひとつ、丁寧に手話に訳してくれた。


 他の誰でもないおれに、大切な真央を託してくれて、ありがとうございました。おれを頼ってくれて、おれを信じてくれて、ありがとうございました。


「健ちゃん、泣いてたよ」


 おれたちの交際を認めてくれて、ありがとうございました。実は真央との結婚を考えていました。もう、叶わない夢になったけど。


「ありがとうを言わなければいけないのは、お母さんの方なのにね」


 真央を産んでくれて、ありがとう、真央の母ちゃん。真央の母ちゃんが、真央を産んでくれてなかったら、

 

「真央と出逢うことができなかったからって」


 真央が隣にいる毎日は、信じられないくらい幸せで。真央が居る空間はいつも綺麗な空気が漂っていて。真央とおれには、いつも雨が降っていたから、空気が綺麗だったんだよ。


「それで、最後に、こう言ったの」


 涙のせいで目の前が霞んだ。私はぐいっと目を擦って、お母さんの両手を見つめた。お母さんの両手のひらが下に向いて、胸元から軽く下がる。


「真央を失った今も」


 お母さんの目から落ちたひと粒のクリスタルの欠片が、上野駅の地に落ちて、たぶんこの世でいちばん小さな水たまりになった。


「たまらなく」


 真央、と私を指したあと、左の小指を立てる。その小指の上で右手を水平に回すジェスチャーをして、お母さんが泣いた。


「愛しています、って」


 今までどうやって呼吸していたのか、それさえ分からなくなりそうになる。ただ、とにかく涙があふれてとまらなくて、このまま泣きながら気を失ってしまうんじゃないかと不安になった。喉は締め付けられるし、胸も背中もどこもかしこも苦しくて。息を吸う、吐く、そんな簡単なことさえ難しくて。


 うさぎになりたいな。おれはライオンになりたい。そんな会話をしたことがあったなあ。あの時はまだ、スマホを使わないと気持ちを伝え合うことができなかった。


 まさか、恋に落ちるなんて思ってもいなくて。まさか、こんな結末が待っていることも分からなくて。


 もう、人間でいることに疲れちゃったなあ。うさぎになりたいなあ。うさぎの長い耳があれば、健ちゃんの声も聴けるのかなあ。


 肩を強く叩かれて顔を上げると、お母さんが睨むように私を見つめていた。


「誰も見てないから、泣きなさい。もう、我慢しなくていいから」


 真央、とお母さんの口が大きく動いた瞬間に、私の中で何かを保っていた線がプツリと切れた。


〈どうして、私は耳が聴こえないの?〉


 お母さんにこんな事を言ったって、どうにもならないのに。お母さんを傷付けるだけなのに。


〈聴こえる耳が欲しい〉


 もしも。この世界にもしもなんて絶対にない。それも分かっているけれど。


〈もし、私に聴こえる耳があったら、何か違っていたのかな〉


 聴こえる耳があって、みんなと同じように会話ができて、いろんな音が聴こえて、電話もできて、健ちゃんの声を聴くことができていたら。何かが違っていたのかなあ。


 私は、涙でいっぱいのお母さんの顔を扇いだ。


〈生まれ変わって、耳が聴こえるようになったら、その時は、私……今度こそ、健ちゃんのお嫁さんに、なれるよね?〉


 かくりと両肩を落として、お母さんは泣き崩れてしまった。ごめんね、お母さん。困らせるようなこと言ってごめんね。


 別に、健ちゃんと結婚できなくてもいい。例え生まれ変わっても、また耳が聴こえなくても構わない。もう一度、健ちゃんの彼女になりたいなんて、贅沢は言わない。本当はどんな形でも良かった。私は、ただ……。


 見上げた上野駅の天井は蛍光灯で明明と眩しい。私はその天井を仰ぎながら、つぶやいた。


〈ただ、一緒にいたかった〉


 夕日が綺麗なあの海辺の町で、陽だまりに包まれていたかった。優しい時雨を、ふたりで感じていたかったの。音が無い世界でもいい。うさぎやライオンに憧れながら、寄り添っていたかった。


 私は、ただ、健ちゃんの隣にいたかったの。


 人はどうして、後悔してから気付くのだろう。自分の本当の気持ちに。人はなぜ、失ってみないと分からないのだろう。いちばん大切な存在を。


 私は後悔していることに、後悔した。


 私は本当に愚かだと思う。どうしてこれほどの想いを伝えることもせずに、東京へ来てしまったんだろう。健ちゃんと過ごしたすべての季節があまりにも暖かくて、これからどう整理して行けばいいのか、見当もつかない。


 健ちゃんとの想い出があふれて止まらなくて。その大きさは計り知れなくて。ランチバッグに顔を埋めて、泣き崩れるしかなかった。


 ごめんね、健ちゃん。ごめん。泣いても、泣いても泣いても、あふれてとまらない。健ちゃんへの想いがあふれて、どうにもならない。私は、陽だまりのようなあの人を、傷付けてしまったことに、ようやく気付いて後悔した。


「帰ろう、真央」


 お母さんに手を引かれるがままに移動し、電車に乗った。次に降りた駅は王子駅という、優しい空気が漂う街だった。


 王子駅を出ると、ティッシュ配りの若いお兄さんが、クリアパープル色のビニール傘差して、突っ立っていた。


 外はやわらかな雨。東京は雨が降っていた。


「えー、やだ。さっきは晴れてたのに。真央、ここで待ってて。そこのコンビニで、傘買って来るから」


 知らない人に声掛けられても、ついてったらダメ、とお母さんが雨の中に飛び出して、数メートル先のコンビニに駆けて行った。


 見上げた雨空は、どんより鉛色。鼻の奥がつんとして涙が出そう。私は涙を堪えて、鼻を強くつまんだ。その時、肩を叩かれて鼻をつまんだまま振り返ると、ティッシュ配りのお兄さんだった。


「どうしたの? 鼻血? おねえさん、大丈夫?」


 もはや白髪に近い金髪頭に、グレーのカラコン。男の人なのに、メイクしている。おまけにタキシード仮面のようなスーツ姿で。私は鼻をつまんだまま、お兄さんをじっと見つめた。


「これ、これこれ、使って。鼻に詰めとけば、そのうち止まるっしょ」


 ニッと笑ったお兄さんが、私にポケットティッシュを幾つか束にして差し出して、ぎょっとした顔を近付けてきた。


「え! 待って。血、泣くほど止まんない感じ? 」


 私はお兄さんの口の動きを読んで、ふるふると首を振った。つまんだままの鼻の奥がますますつんと痛い。


「だ、大丈夫?」


 私はまた首を振った。すると、お兄さんは苦笑いして「へんな子」そう言って、また向こうに行ってしまった。


 だって、しょうがないじゃないか。大丈夫じゃないけど、我慢するしかないんだから。我慢すると鼻が伸びるって、健ちゃんが言っていたけど、我慢するしかないんだから。


 私は鼻をつまんだまま、空を見上げた。鼻、伸びちゃうかな。


 私は目を閉じて、耳を澄ませた。何も聴こえなかった。右目じりから、涙がつつつと伝い落ちる。どうやら、私はあの町から雨を連れてこの街へ来てしまったらしい。ここには、健ちゃんはいないのに。ここに、陽だまりは、ないのに。


 雨。知らない街を濡らす、知らない雨。雨に濡れる、王子駅。駅の前の歩道の片隅に、一輪の白いノースポールがひっそりと雨に揺れている。


 恋が、こんなにもつらくて苦しいものだというのなら、私はもう、恋なんてしない。


 恋なんて……しない。





 
















 










 






 











 


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