いちばん大切なひと
少しだけ、後悔していた。
彼のラインをブロックしたことを、少しだけ、後悔した。でも、そうでもしないと自分から連絡してしまいそうで、仕方なかったことだ。
健ちゃんと音信不通になってから、徐々に、なんとか自分の中で整理が付き始めて来た。
耳が聴こえない私を好きになってくれる人なんて、いないのが普通なのに。少し優しくされたくらいで揺れてしまった自分が、無性に笑えた。
10月も中旬に差し掛かり、頬を撫でる風も若干冷たく感じるようになった。秋の風はこうばしい香りがする。国道に連なる街路樹には、小さくて金色の扇が付き始めた。銀杏だ。銀杏の葉が空を切りながら散るさまは、金色の蝶々が戯れているようで美しい。
私は、遅刻大魔王の幸と、マイペースな菜摘と行動を共にするようになった。
付き合ってみると、天真爛漫な幸とは真逆で、菜摘は物静かで独特の雰囲気を持っている子だった。菜摘は天然なのだと思う。いつもにこにこしていて、ふわふわとやわらかな空気を身にまとっていて、いろんなことにマイペースで、ちょっとおっちょこちょいだった。
私と話すときは、ラインを使ったり、私が菜摘の唇の動きを読んだりだ。でも、菜摘は面倒くさがらず、私と一緒に居てくれる。
説明してみろと理由を聞かれてもうまく答えることができないけれど、菜摘はどこか順也と同じ優しさの塊のような雰囲気を持っていた。ただ隣にいるだけでとても安らいだ。
幸は、毎日、遅刻する。でも、その理由を知っているから、私も菜摘も何も言わない。
9時30分。今日も幸は遅刻だ。通常運転。
私と菜摘は、いちばん後ろの席に並んで座っていた。もうじき先生が入って来る頃、菜摘が私の肩を叩いた。隣を見ると、人さし指で自分の唇を指さしている。菜摘の「話すね」の意味だ。私が頷くと、菜摘はゆっくりと話した。
「あのさ……長澤さん、だっけ」
な、が、さ、わ。静奈の苗字だ。なんだろう……静奈のこと?
私が見つめると、菜摘は周囲を確認してから、訊いて来た。
「最近、来てないけど、短大、やめたの?」
私はふるふると頭を振った。そして、スマホに文字を打ち込んで菜摘に差し出す。
――やめてないよ
そのうち来ると思う
たぶん
「たぶん?」
と菜摘は目をぱちくりさせて、首を傾げた。一拍置いてから、私はしっかりめに頷いた。
だって今はそうとしか言えない。
ただ、最近、少しだけ状況が変化したことがひとつだけある。私が毎日凝りもせず送り続けているラインメッセージに、相変わらず一切の返信はない。でも、最近は既読が付くようになった。ということは、静奈は生きていて、私からのメッセージを見ているということだ。
「そっか。人それぞれ、いろいろあるからね。ただ、心配しただけ」
――ありがとう
その日、幸が来たのは、もう4限目が終わりそうな時だった。また忍者のようにこそこそと入って来て、私の右隣に座るや否や、嬉しそうに両手を動かした。
「楽しくて、ついつい、長話になってもうた」
ここ1週間ほど、幸の彼氏の容体がすこぶる絶好調ならしい。それは、私と菜摘にとっても嬉しいことだった。
その講義中、私はとても不快な視線を斜め前から感じていた。
今日が初めてではない。最近はよくこういうことがある。
栄養士という食に携わる講義なだけあって、このクラスはほとんどが女子だ。60人中、たったの6人だけだけれど、男子もいる。だから、男子はいつも6人ひとまとまりになって、窓辺の席を占領している。
その中のふたりがこそこそと耳打ちをしながら、私の方を見ている。
まただ。なんだろう。
じっと見つめ返すと、男子たちは「あ」と口をつぐんで、そそくさそそくさと前に向き直った。
その様子を見た幸がむうっと不機嫌な顔つきになった。
「なんや、あれ。感じ悪いと思わん?」
確かにそうなのだ。いい気分では、決してない。
こくこくと頷いていると、左隣でも菜摘が「また見て来た」とどこか面白くなさそうにむっとしている。
まあ、どうせ、私のことを話しているのだろう。ついに静奈に愛想を尽かされたんじゃないか、とか。それくらいにしか思わなかったし、そのうち飽きるだろうと思っていた。
でも、違っていたのだ。
このクラスで、静奈のうわさが流れ、充満しつつあることに、私は気付きもしなかったのだ。
そして、その日の帰り道で、私は優しい両手に再会することになったのだった。
キャンパスは、小高いところに、大学と短期大学が連なるように建っている。長い急勾配の坂があって、その坂道は銀杏並木になっている。
初夏は青青と若葉が芽吹き、冬になると雪の花が咲く。秋は銀杏の葉が、道を金色に染める。
坂を下る先には、古ぼけたバス停がこっそりとそこに存在している。バス停の横には数台車を停めることができる駐車スペースと、自転車置き場もある。
坂を下っていると、幸が私の肩を叩いた。
「見てみい。なんや、あの……男」
と幸は手話をしながら、目を細めてバス停の方をじっと見つめる。
「真央の名前、叫んどるで」
そして、幸は「あれ」と正面に見えるバス停の方を指さした。
え……。
私はその時、瞬きの仕方を忘れてしまったように、目を見開いた。
青空をすいーっと泳ぐトンビも、早足で流れる鰯雲も。すべての時間が止まってしまったんじゃないかと思った。同時に、私の心臓にあの子うさぎたちが戻ってきた。
ま、お。彼の口がそう動いている。
私の名前を発する大きな口から、八重歯がこぼれている。無邪気なオーバーリアクションは、途絶えた夏のまま色褪せていなかった。長い腕を大きく大きく振って、彼はあっけらかんと笑っている。
私には、分からなかった。
なぜ彼がここに来ているのかはもちろん、夏と変わらない笑顔で私に手を振っているのか。全く理解できなかった。
幸の唇が動いた。でも、読み取れず、私は幸のブラウスの袖を引っ張った。すると、幸は「なんやの、水くさいやんか、真央」と私の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき乱した。
「真央にも、ええひと、おるやんか」
違う。違う、違う。彼はそういう関係のひとじゃない。
私は左右に首を振った。すると、幸は手櫛で私の髪の毛をささっと整えて、背中を押した。
「早う、行き」
幸に押された勢いで一歩踏み出した足を引っ込める。すると、幸は私の横に来て言った。
「どないしたん。行かへんの?」
幸は、本当に手話が上達した。
〈行かない〉と返した私を、幸は困ったように笑った。
「真央のこと、めっちゃ叫んどるで。見とるこっちが、恥ずかしいわ」
確かに、道行く人たちが、何事かと彼を見ては振り返り、立ち止まって笑っている人もいる。
「責任取って、どうにかしてや」
幸は、バス停の横の駐車スペースで手を振っている彼を指さした。黒い車の前に立ち、人目もはばからずに、全身で腕を振っている。
私は思わず、胸元をきつく握りしめた。
どうしよう。いま、彼に会ったらすべて台無しだ。水の泡だ。すごく我慢して、必死に閉じ込めたはずの気持ちが、爆発してしまう。だめだ。そう思うのに、私の気持ちは左右に激しく揺れた。
だって、本当は会いたかった。顔が見たかった。会いたくて苦しかった、ずっと。
でも、もう、会ってはいけない人なのだ。
冬が来る前に、もうすぐ、果江さんが帰国するんじゃないの?
健ちゃん。
どうして、ここに居るの?
もう一か月以上も連絡さえ取っていなかったのに、どうしていまさら、来たの。
幸に顔を扇がれて、夢から覚めるようにはっと我に返った。
「行かへんの?」
〈行かない。裏門から、帰ろう〉
正門に背を向けて急勾配の坂を引き返そうとした私の腕を、幸が引っ張った。
「あの男と、喧嘩でもしとるんか」
違う。違う、喧嘩じゃない。けど、会わない方がいいひと。
私が首を振ると「じゃあ、嫌いなんか」と幸が満月のようにまんまるの目をきらきらさせて、顔を寄せてきた。
それは、もっと違う。
何も答えようとしない私の頬を、幸の指が軽く摘まんだ。
「何があったんかは、知らんけど。話くらい、聞いたりや」
私は、しぶしぶと重い鉛のような両手を、ブリキのおもちゃのように動かした。
〈喧嘩じゃない。嫌いでもない。でも、もう会わないって決めたひと〉
「真央は、冷たい女やんなあ」
氷山みたいに冷たい女やんなあ、と幸は無邪気に笑った。冷徹でつんつんしているとでも言いたいのだろうか。
「すれ違ってばかりおったら、交わえるもんも、できなくなるんやで」
そんなこと、言われなくても、分かっている。私がむっとしていると、幸は歩道の片隅で秋の風に揺れるたんぽぽの綿毛のように、ふわっと微笑んだ。
「人間の本心なんか、訊いて、初めて分かるもんや。勝手に決めつけて、自滅したら、あかん。後悔してまう」
今の自分にドンピシャを言われてしまった。
「後悔してからじゃ、遅いんやで。今日を逃したら、もう、一生会えへんのかもしれんのやで」
それも、分かっている。でも、私は唇を噛んで、何も答えることができずに立ち尽くすしかなかった。
悔しかった。
本当はあの日、病院であんなふうに突っぱねるつもりはなかった。でも、あれはあれで、あの日の私にできる精一杯だったのだ。
「御縁やで、真央」
幸の手話はかなり上達したけれど、まだ発展途上で、少しぎこちない瞬間もある。でも、私はその両手から目を離せなかった。
「もう会わんて決めとっても、避けとっても、こうして会うてしまうんは、縁があんねや。真央たちに、何かの縁があるんやで」
秋の夕暮れは早い。もう空が茜色に染まり始めている。
〈縁?〉
「せや。縁が無い人とは、そう何度も会うたりできん。縁があるから、会うてしまうんや」
私は一度肩の力を抜いて、幸の両手を見つめた。
「縁もなんもない相手には、どんなに会いたくても、会えへん」
駐車スペースの方を見ると、健ちゃんはまだ両腕を大きく振り続けている。良く見ると、右手に何がを握っている。スマホだと理解した瞬間、私は息を呑んだ。
……なんで?
健ちゃんのスマホには、赤ちゃんライオンのストラップと、私が突っ返した子うさぎのストラップが仲良く揺れているのだ。
幸が、私の背中を押した。一歩、前に足が出る。振り向くと、幸は天真爛漫に笑っていた。
「行ったらええやん。前進あるのみやで」
〈でも〉
ストップ、そう言って、幸が私の手話を遮った。
「もう、会えへんかもしれんのやで。それでもええの? 伝えたいこと、ないんか? 我慢すると、いつか、ハゲてまうで」
ストレスでつるっぱげや、ハゲ散らかしの人生やで、と幸は大きな口で笑った。私も笑ってしまった。
〈それは嫌〉
「せやろ! 行くしかないやんか」
私は〈ありがとう〉と手話をして、笑顔の幸に背を向け、残り僅かな急勾配を走った。
何をどう伝えたらいいのかなんて分からない。どうせ私は気持ちを声になんかできないのだ。ただ、ひとつだけ、伝えたいことがある。ごめんね、って。
健ちゃんに、あの日のことを、謝ろう。
「よう、真央」
やっぱり、この人が好きだ。
そう自覚するまで時間はかからず、そして自覚するともうキリがなかった。でも、何からどこまで、どうやって伝えたらいいのか、頭も心も破裂しそうだった。
それでも、健ちゃんの瞳は黒真珠のように輝いて、真っ直ぐに私を捕らえた。
「ちょっと会わないうちに、また小さくなったな」
わはははと笑うその屈託のなさに、ほっとする。何も変わってないなあ、と。
「真央に、ラインしても、無視されるから。順也に、短大の場所、教えてもらった」
ばかだなあ、健ちゃんは。無視なんてかわいいものじゃない。ブロックしたんだよ。拒否、したの、私、健ちゃんを。
「なんだよ、無視すんなって」
と健ちゃんが笑いながら、私の額を人差し指でつんと押した。そして、可笑しそうにからからと笑う健ちゃんを、鞄で叩いた。
「うわ。相変わらず、凶暴だなあ」
余計なお世話だ。私はあっかんべえをして、健ちゃんを睨み付けた。
「生意気だな」
と言いつつも、健ちゃんはけろりとして「さ、行くぞ」と私の腕を掴んで、助手席のドアを開けた。振りほどこうと思って力を入れた瞬間、健ちゃんが顔を近付けて言った。
「時間、ないから。夕日が沈む前に、行かないと」
どこに行こうとしてるんだろう。そんなに急いで。
私がスマホを取り出して文字を打ち込もうとすると、
「そんなことしてる時間、ないんだって。頼むから、とにかく、乗って」
と健ちゃんは私からスマホを取り、鞄に突っ込んで、軽々と私を助手席に押し込んだ。そして、手際よくシートベルトをして、ドアを閉めた。
私は訳が分からないまま、でも、懐かしい匂いと共に、シートに体を沈めた。健ちゃんの車の中は相変わらず清潔感いっぱいで、さわやかな匂いが染みついていた。
ただ、ひとつだけ、気付いたことがある。健ちゃんの左耳に常にいつも輝いていた、ホワイトシルバーのピアスがない。健ちゃんの耳をじっと見ていると、けんちゃんが大きな口で言った。
「ちょっと飛ばすから。時間、ないんだ」
私の返事を待たずに、健ちゃんはアクセルを踏み込んだ。
ひんやり冷たい海風が、私のロイヤルブルー色のマキシスカートを膨らませた。
ここへ来ることを朝から分かっていたら、こんな長いスカート履いてこなかったのに。
夏の終わりのバーゲンセールで買ったおろしたての、真っ白なスニーカーで、波打ち際の湿った砂の上をゆっくり歩く。前を歩く健ちゃんの大きな足跡を、打ち寄せる波が泡沫のように消していった。
私はぼんやりと海を眺めながら、健ちゃんの後ろをゆっくり歩いた。
薄雲に空の水色と夕日の橙色が溶け合って、パステルな夕空が広がった。美岬海岸は、いつ来ても綺麗。まるで、色鉛筆で丁寧に描かれた絵画の世界を歩いているような気分になる。
春よりも少し固いやわらかさ。夏よりは若干大人びて。冬よりもはるかに穏やか。
たぶん、秋の海は4つ巡る季節の中でいちばん優しくて、いちばん静かなんじゃないかと思う。
健ちゃんが大急ぎで連れて来てくれたのは、どこでもない、私たちが初めて出逢った美岬海岸だった。
「真央」
突然、健ちゃんが立ち止まって振り向いた。
「夕日が沈む前に、連れて来たかったんだ」
そう。それで、急いでいたんだ。わたしがこくりと頷くと、健ちゃんはほっとしたような、安心したような顔で笑った。
「真央と、もう一度、一緒に、見たかったんだ」
もうじき、あの水平線と空の境界線に太陽が沈んで、夜が訪れる。
もう、無理だと思っていた。
また、こうして、健ちゃんと波打ち際を並んで歩けるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
花火大会の夜のように、健ちゃんは後ろ歩きをしながら、大きな口で言った。
「元気、だったか」
私は、ゆっくり頷いた。うん。元気だったよ。
「そっか。おれも、元気だった」
良かった。健ちゃんが元気に過ごせていたと分かって、嬉しかった。
私はマキシスカートのポケットからスマホを出して、打ち込み、健ちゃんに見せた。
――波の音はきれい?
健ちゃんは、空と夕日が移り込んだ黄昏色の水面を見つめて、眩しそうに目を細め、頷いた。そして、自分のスマホに文字を打ち込んで見せて来た。
――ザー…
音のあとに、点が3つ付いている。私は、その…を指さして首を傾げて見せた。
「ザーって音のあとに、音が消えるから」
消える、音。それはどんな音なんだろう。
「ザー、ザザー。それで、一瞬、音が無くなる」
――聴いてみたいな
スマホ画面を見せて私が微笑むと、
「真央、あのな」
と、健ちゃんは急に真剣な目付きになって、私の腕を優しい力でそっと掴んだ。そして、彼の唇が大きく、ゆっくり動く。
「真央に、話があって。大切な話」
私はこくりと頷き、話を受け入れることにした。いつも笑っているけんちゃんが、すごく真っ直ぐな瞳で、言ったから。
「果江と、電話で、話したんだ」
果江さん?
健ちゃんの口が彼女の名前を放った瞬間、頭がかあっと熱くなった。胸がむかむかする。
私は健ちゃんの手を払い除けて、背を向けてきた方向に戻ることにした。
来なければ良かった。やっぱり帰ろう。果江さんの話をする為に、わざわざこんなところに私を連れて来たのかと、腹が立った。
さっき、幸が言っていた。後悔してからじゃ遅いんやで、と。本当だ。後悔して、遅かった。来なければ良かった。
夕日に背を向けてずんずん歩く私の後姿に、健ちゃんが「もう、後悔はしたくないんだよ」と叫んでいたなんて知らなかった。私は結局、そんなことにさえ気付くこともできないのだ。
その時、私の背中に、小さくて固い物が一瞬ぶつかった。少し痛かった。振り向き、砂の上に落ちていたそれを拾った。
純銀色のジッポライターだった。
煙草を吸う時、いつも、健ちゃんが愛用しているライター。その側面が夕日を跳ね返して、その眩しさがやけに目にしみた。
顔を上げると、健ちゃんが逆光でシルエットになって見えた。シルエットがゆっくり近づいてくる。ジッポライターを返そうと差し出すと、健ちゃんは受け取らず、私に「やってみろ」と微笑みかけた。
ジッポライターを指さし、上蓋を親指で弾くようなジェスチャーをしている。
「真央、やってみてよ」
いつも健ちゃんが隣でやっていた動きを思い出して、親指で蓋を弾くように開いた。
びっくり箱じゃあるまいし。中は至って普通だった。オイルの匂いがした。私がしかめっ面をして首を傾げると、健ちゃんはスマホの画面をずいっと見せてきた。
――キィーン
意味が、分からない。もう一度、首を傾げた。
「ジッポ、開くと、キイーンて、音がするんだ」
私は目を見開いて、ジッポライターを見つめた。そうなのか。こんな小さなライターにも、音があるんだ。またひとつ、音を知った。
キイーン、か。
顔を上げると、健ちゃんが微笑んでいる。私がジッポライターを返すと、健ちゃんが言った。
「真央のこと、分かりたいんだ」
分かりたいって、なに。
頭に血が上ったんだと分かった。こめかみがかあっと熱くなって、くらくらする。私は強く両手を握り締めた。
分かりたいって何を。耳が聴こえる健ちゃんに、私の何が分かるの。別にそんなこと、健ちゃんに望んでなんかいない。私って、そんなに可哀そうなのかな。健ちゃんは手話が分からない。だからそれを逆手にとって、あえて手話をしてやった。
〈分かって欲しくない。私の気持ちなんて、健ちゃんには、分からない。絶対に、一生〉
案の定、健ちゃんは目を丸くして、私の両手をじっと見つめた。
ほら。手話も分からないくせに。
私はイライラしながら、スマホに打ち込んでそれを見せた。
――きれいごとばかりだね
その画面にふたをするように上から手を被せて、健ちゃんがむっとした表情で向ってきた。
「じゃあ、真央は? おれの気持ち、分かるのかよ」
分かるわけないじゃん。
「最初から、相手のこと分かるやつななんか、ひとりもいねえよ」
当たり前だ。でも、もしも、話すことができるのなら。この人の声を聴くことができるのならば。少しは、分かることができるのに。
私は下唇をきつく噛み締めて、スマホに打ち込んだ。
――私は健ちゃんを分かってあげられない
私のことも分かってくれなくていい
それを読んだ健ちゃんは少し目じりを釣り上げて、ゆっくり、言った。
「頑張ってみようとは、思わないのか」
頑張ってるよ、私。頑張ってるのに、もっと頑張らなきゃだめ?
健ちゃんを睨み付けた。
「そうやって、いつも諦めてきたんだろ。いつも、我慢して。平気な振りして、強がって」
うるさい。うるさい、うるさい。余計なお世話だ。
だって、そうでもしなければやってられない。
いつも諦めて、我慢しないと。
我慢して、大丈夫、平気だよって笑って。強がっていないと、みんなが困った顔をするから。
健ちゃんだって、そうでしょ。
「真央、きいて」
と、健ちゃんが私の両肩を掴んで体を前後にゆすった。
「おれは諦めたりしない」
どうして、この人が泣きそうな顔をしているのだろう。
「真央と、会えない週末は、たいくつだったんだ」
どうして、そんなに悲しい目を、この人はしているんだろう。
「分かりたいんだ」
私は、健ちゃんの手を振り払った。そして、スマホに打ち込んだ。
――分かりたいなら
私に耳を譲ってください
できないくせに
くだらないばかみたいなことを打ち込んでしまったことは、自分でもわかっていたけれど、止められなかった。その画面を見た健ちゃんは、広い肩幅を上下させてため息を吐いたようだった。
さすがに呆れてしまったと思う。さすがに、愛想を尽かされたに違いない。怒ってしまったかも、と思ったのに、健ちゃんは怒っているわけでも、呆れているようでもなく、ただ、悲しい顔をしていた。
「耳くれって、お前さ」
肩を落とした健ちゃんを畳みかけるように、私は両手を動かした。手話で何を言っても、どうせ健ちゃんは手話が分からないんだから。だから、どんなことを言っても大丈夫だ。
〈できないよね? 結局、綺麗ごとななんだよ。私を分かりたいだなんて、綺麗ごとだよ〉
健ちゃんは表情を変えずに、少しだけ目を細めた。
こうしている今だって、手話が分からなくて困っているくせに。それなのに、分かりたいだなんて。ばかばかしくて笑ってしまいそう。
〈耳が聴こえる健ちゃんに、私のことは分からないよ!〉
もう残り僅かな夕日が妙に目に沁みて、痛かった。痛くて、苦しくて、悲しくて、切なくて……悔しかった。
言葉にできない想いを伝えたくて、歯がゆかった。
〈私は、我慢ばかりしてきた〉
どうして、私は、気持ちを声に出せないんだろう。
〈でも、そうしないと、みんなが困った顔をするから。結局、健ちゃんも、そういう目で私を見てる〉
健ちゃんは違うと思っていたのに。
〈そんな生ぬるい同情なら要らない〉
息切れしてしまうほど、私は必死に両手を動かしていた。どんなに必死に手話をしたところで、健ちゃんに伝わることはないのに。
その時、健ちゃんの唇が動いて、私は自分の目を、疑った。健ちゃんの口の動きを読んで、理解した瞬間、息が止まってしまったんじゃないかと、不安になった。
「同情じゃねえよ」
私は、健ちゃんの口から目を逸らし、自分の両手をじっと見つめた。
待って……なんで? 手話、分からないはずじゃ……。
うつむいた視界に健ちゃんの手が入って来て、私はとっさにその手を払ってしまった。
叩かれた手の甲を見つめる健ちゃんの様子は、私の胸を締め付けた。私は気に食わないことがあると、こうして相手の手を払って、壁を作って距離を置いてきた。
だから、人がこういう悲しい顔をしたり、呆れたり、怒ったりするところを何度も見て来た。でも、健ちゃんはその人たちとは少し違っていた。健ちゃんは、悔しそうな顔をしていた。
さすがにひどいことをしてしまった。謝ろうと思った。そして、健ちゃんの右手に触れようと手を伸ばす。その瞬間、私の手の甲に痛みが走った。
健ちゃんに手をはたかれてしまったのだ。
痛い。手の甲よりなにより、心が痛くて張り裂けた。
私、最低なことを、健ちゃんにもしてしまった。まさか、こんなにも胸が痛いものだとは思わなかった。
健ちゃんが、うつむいた私の顔を下から覗き込んできた。
「痛いか」
痛い。私は頷いて、服の上から心臓を押さえた。やっぱり、痛い。
「おれも」
健ちゃんも、服の上から心臓を押さえるジェスチャーをした。
「そんなに違うかな。耳が聴こえないことと、聴こえることは。そんなに違うか」
違うよ。全然、違う。
私は深く頷いた。
「どこが?」
健ちゃんが難しい顔をして、首を傾げた。
「おれと、真央って、そんなに違う?」
違うよ。こんなに違うじゃない。見ればわかるでしょ、明らかに違うじゃない。
私は何度も何度も頷いて、健ちゃんを睨み付けた。
「違わないよ」
そう言った健ちゃんの瞳は真っ直ぐ誠実で、必死に私に何かを訴えかけている目だった。
そして、大きな声を出したのだろう。大きな大きな口から、八重歯が鋭く尖って見えた。
「真央が、望むなら、音になる。真央が、望むなら、声になってやる」
私は、健ちゃんの唇の動きから目を離すことができなかった。
「でも、勘違いするなよ。これは、同情じゃないから」
そう言って、健ちゃんは私に背を向けて、たったいま夕日が沈んだばかりの海を見つめた。両手で日没直後の赤紫色の空を仰いだあと、振り向き様に健ちゃんが言った。
「本気なんだ。おれ、真央専属の、ライオンになる」
ライオンに?
私の専属の?
「ガオー」
何度も何度もガオーガオーと叫びながら、健ちゃんは私の周りをぐるぐると駆け回った。20歳にもなって、なんて無邪気な大人なんだろうか。子供みたいに無邪気に駆け回るライオンがなんだか無性に可笑しくて、笑ってしまった。
4周、そして、5周した時だった。突然、健ちゃんは私の正面に立ちはだかった。
健ちゃんが、大きな両手のひらを、私に突き出してきた。
健ちゃんが何をしようとしているのか、何がしたいのか、私には分からなかった。首を傾げる私に、緊張した面持ちで健ちゃんは言った。
「間違ってたら、ごめんな。でも、どうしても、真央に、伝えたくて」
そう言って、健ちゃんは、まず右手の人さし指で私の顔を指した。
「真央の」
手の動きと同時に、健ちゃんの口も動く。
私は、健ちゃんの両手と唇の動きを交互に、じっと見つめた。
右の頬を2回、軽く擦るように撫で回す。そして、人さし指で「人」という字を空書きした。
「真央の、いちばん、大切な人に」
泣くつもりは、これっぽっちもなかった。
健ちゃんは、右手の親指と人さし指を開いてのど元を挟むようにして当て、前に出しながら閉じると、追い掛けるように大きな口で言った。
「なりたい」
私は、眠りに就く瞬間のように、ゆっくりと時間を掛けて目を閉じた。まぶたの裏に、たったいま見たばかりの残像がこびりついて、はがれそうにない。
「真央の、いちばん、大切な人に、なりたい」
健ちゃんが、初めて私にしてくれた手話だった。
私は、静かに目を開けた。
揺れる、波。夕日が沈んだばかりの青みががった西の空に、一番星が輝いている。時折、私たちの隙間を吹き抜ける、秋の風。焦げ付くような、木の葉の香りと濃い潮の匂い。夜が押し寄せる、波打ち際。
何もかも、すべてがきれいに輝いて見える。
特に、目の前の彼の、両手が眩しくて、頬をつつと伝って、自分が泣いていることに気付いた。
「真央の、いちばんになりたい。真央のことが、好きなんだ、おれ」
私はスマホに文章を打とうとしたけれど、手が震えてもたもたしてしまった。そると、健ちゃんがその手を捕まえて、微笑んだ。
「あのな、もう、そういうの要らないんだ。ゆっくりの手話なら、少し、分かるようになったから」
私は、唾を飲み込んだ。飲み込んだ唾は涙と混ざったのか、しょっぱくて、涙の味がした。私は、おそるおそるゆっくりの手話をした。
〈手話……どうして?〉
健ちゃんがぱっと笑顔になった。
「手話、勉強したんだ。真央と、話がしたかったから」
次から次へと、湧き出る温泉のように、涙があふれた。
「おれ、覚えるの苦手で。だから、時間かかったんだ。本当は、すぐ会いたかったけど。手話、できるようになってからって、決めてた」
まだ初心者だけど、と健ちゃんは照れくさそうにはにかんだ。
それはそれはもう、安心して見ていられない、ちぐはぐな両手の動きだった。へたくそで驚いた。
「手話、覚えれば、もっと、真央が……笑ってくれると、思って。頑張った」
覚えたての手話と、腹話術のように少し遅れて動く、健ちゃんの唇。
「手話、読むのはできるんだけど、まだ、全部は覚えてなくて」
へたくそな両手の動きと、上手な口の動き。
「へたくそで、ごめんな」
と健ちゃんが言った。
本当にへたくそだね。だけど、すごく気持ちが伝わってくる。私は、健ちゃんが手話を覚えようと必死に勉強している姿を想像してしまって、涙が止まらなかった。
〈ありがとう〉
お礼の手話を返すのが精一杯だった。
嬉しくて、嬉しくて、少し、切なかった。泣いている私に、健ちゃんがまたへたくそな手話をした。
「これからは、もっと、たくさん話をしよう。真央の、いちばん大切な人に、して欲しい」
もっと、たくさん、いろんな話をしてみたい。私も、健ちゃんのいちばん大切な女の子になりたい。でも、私は首を横に振った。
〈できない。もうすぐ、果江さんが〉
「確かに、帰って来る」
と、私の手話を遮って、健ちゃんが続けた。
「果江とは、電話で話した。もう、元には戻れないって、言った。好きな子がいるからって、言った」
健ちゃんの人さし指が、私を指さした。やっぱり、涙で目の前も、景色も全部滲んでしまう。
「真央のことだからな」
健ちゃんの真っ直ぐで誠実な瞳が、私の心を貫いた。
「耳が聴こえても、聴こえなくても、関係ない。おれの気持ちは、変わらない。だから、付き合って、欲しい」
でも、そんなの分からないじゃない。もしかしたら、変わるかもしれないじゃない。涙で前が見えなくなった次の瞬間、健ちゃんが私の腕を掴んで手繰り寄せた。
健ちゃんの匂いがする。あったかくて、とても安心する。気付いた時には、私の身体は健ちゃんの腕の中にあった。
このまま、溶けてしまえたらいいのに。
健ちゃんの大きな手が、私の背中を優しく擦る。
私、いつの間に、こんなに大好きになっていたんだろう。離れたくない。ずっと、こうしていたい。
私は、健ちゃんの背中に両手を回してしがみつくように抱きしめ返した。離れたくない。すると、健ちゃんの手が私の肩を叩いて、顔を上げると、健ちゃんが笑いながら涙を拭いてくれた。
「そんなにしがみつかれたら、苦しいって」
そう言って、健ちゃんはちょっと恥ずかしそうに笑った。
〈ごめん〉
はっとして謝る私に、健ちゃんがデコピンをして、続けた。
「わ、た、る。言ったんだってな」
〈なにを?〉
「おれが、真央に、果江を重ねて見てるって」
小雨が降る、夏の終わりの夕方だった。駅前のカフェでの出来事を思い出して、胸が締め付けられるように苦しくなった。わたしが小さく頷くと、けんちゃんがライオンの鬣のような髪の毛を豪快に掻いた。
「でもな、きけ。それは、亘の、思い込みだから。確かに、果江のことは、好きだったし、付き合ってたのも、本当だけど」
手話はあきらかにへたくそで笑ってしまいそうなのに、私の心と胸は正直で苦しくなった。
やっぱり、健ちゃんは忘れられないくらい、果江さんを好きだったのだろうし、忘れられなかったのだと思う。でも、それは仕方のないことだ。
「でもな、もう、過去だから。今は、真央が、好きだから。それは、信じて欲しい」
頷きもせず、首を振るわけでもなく、ただ健ちゃんの両手を追い掛ける私の頭を、けんちゃんが弾くようにひとつ叩いた。
「そう簡単に、付き合ってもらえないって、覚悟してるから。返事も、今すぐじゃなくていい」
と、そこで、健ちゃんの手話が詰まってしまった。健ちゃんは、慣れない手話にやっぱり、悪戦苦闘しているようだった。
「ちょっと、待ってな。えっと……」
私は、じっと待つことにした。唇の動きを読む私を我慢強く待ってくれる健ちゃんのように、じっと待った。
「えっと、だから、おれのこと、信じられると思ったら、返事ください」
そして、健ちゃんは自分のスマホに付けていた赤ちゃんライオンのストラップをするすると外して、私の手のひらに置いた。
「タイムリミットは、100年だ。100年以内に、返事がなかったら、おれは他の女と付き合うからな」
私は笑ってしまった。100年は、たぶん、私、生きていないと思う。
〈返事、おばあちゃんに、なってからでもいいの?〉
私が首を傾げると、健ちゃんは難しい顔をして肩をすくめた。
「できれば、まだ、ぴちぴちのギャルのうちに、返事ください」
その返しが健ちゃんらしくて、可笑しくて、思わず笑ってしまう。
潮風がふわりと私の頬を撫でた。と思ったけれど、それは健ちゃんの手のひらで、顔を上げると、真剣な顔の健ちゃんの肩越しに、いちばん星が輝いている。
「好きで、苦しいんだ。真央が、他の男を好きになるのは、すごく、嫌だ」
身体中の皮膚がちくちく、ぴりぴりした。
頭がくらくらする。
たぶん、今、私の顔は熟れたりんごのように真っ赤になっていると思う。頬が茹だっているように熱い。
好きで、苦しい。なんて、そんなことを言われたのは勿論初めてで、戸惑った。立っているだけで精一杯の私を見て、健ちゃんは苦笑いをした。
「ごめん。さすがに、しつこかった。ごめん。暗くなってきたな、帰ろう」
健ちゃんが砂浜をすたすたと歩いて行く。その大きな背中を見つめて、私は案山子のように固まったまま。それでも健ちゃんは振り返ることもなく、早足で行ってしまおうとするのだ。
私は、手に握っていた赤ちゃんライオンのストラップを握り締め直した。
「後悔してからじゃ、遅いんやで。今日を逃したら、もう、一生会えへんのかもしれんのやで」
幸の両手を思い出す。そうだ。そうなんだ。今を逃したら、もう後がないかもしれない。私は弱虫だから、すぐ諦めようとする癖があるから。時が経てば経つほど、私は何も言えなくなる。
絶対、伝えられなくなる。
気づいた時には、私の足が勝手に、その背中を追い掛けていた。追い着いて、健ちゃんの腕を捕まえて、強く引っ張った。
がんばれ、私。
顔を上げると、健ちゃんがびっくりした顔で私を見ていた。
がんばれ。がんばれ、私。心の中で呪文のように唱えながら、深呼吸をする。
うさぎが、飛び跳ねる。
100匹。
違う。
1000匹。
違う、違う違う。
10000匹。
もっと。
私の心臓にはとんでもない数のうさぎが住んでいたらしい。あんまりにも心臓が飛び跳ねるから、息が止まるんじゃないかと思った。でも、息が止まってしまう前に、この気持ちを伝えよう。
そう思った。
こんな欠陥品をふたつも身に着けている私に、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた、この人に。
〈私、なれるかな?〉
「……え? なに」
ゆっくり、健ちゃんに伝わるように、ゆっくり、丁寧に手話をした。
〈私でも、健ちゃんの、いちばん大切な人に、なれるかな?〉
「へ……」
健ちゃんのくっきりとした奥二重の奥に潜む、黒曜石のような瞳が、大きくなった。
「ごめん、もう一回」
こくりと頷いてみたのはいいけれど、自分の両手があまりにも震えるから、本当に笑えて来る。
〈耳が聴こえない、私でも、健ちゃんの、いちばん、大切な人に……なれるかな?〉
健ちゃんは目を見開いたまま、まるで魂が抜けたたようにのっぺりと立ったまま、動かない。
あれ? 私、ものすごく勇気を出して伝えたのに。あまりにも反応が無さ過ぎて、心配になる。手話、伝わってるんだろうか。
もう一度、同じ手話をしようと構えた私の右手を、健ちゃんが素早く捕まえた。
「な……なれる! なれるに決まってるだろ」
健ちゃんはこぼれんばかりの笑顔で、私の右手を上下にぶんぶん振った。そして、へたくそな手話で言った。
「真央、大好きだ」
照れることもなく、あっけらかんとして、そんなことをさらりと言ってしまう。そんな健ちゃんが。屈託のないこの笑顔が、私も大好きだ。
〈私も、健ちゃんが、大好きだ〉
私の両手を見て、健ちゃんがわはははと大きな口でわらった。そんな健ちゃんの肩越しには、いつしか星がたくさん輝いている。
「真央、今日から、また、よろしくな」
〈よろしくお願いします〉
私たちは小指をしっかりと結んだ。約束、の手話だ。
「喧嘩すると思う。おれ、こんなんだから、泣かせる日も、あるかもしれない。でも、ずっと、一緒にいよう」
私はしっかり頷いた。
そうだね。ずっと、一緒にいよう。健ちゃん。
「帰るか」
健ちゃんが、大きな左手のひらを差し出して来た。私は、その大きな手のひらに自分の右手を重ねる。健ちゃんの手は大きくて、安心できた。
私、この人を、信じる。何があっても。
もうすっかり夜に包まれた砂浜を歩きながら、そう誓った。
健ちゃんの車に乗り込み、私たちは町のトレーニングセンターに向かった。トレーニングセンターの正面玄関の風除室で、待ちくたびれ顔をしていたのは、順也だ。
コンクリートの床にバスケットボールをついていた順也が「遅いよ、真央」と頬を膨らませた。
〈ごめんね〉
謝りながら駆け寄って行くと、
「で、仲直り、できた?」
と順也が笑った。
私が頷くと、背後から健ちゃんが手を繋いできた。そして、八重歯を見せて無邪気に笑いながら、順也に報告した。
「付き合うことになりました。お兄さん」
「お……兄さん、て」
順也の笑顔がみるみるうちに引き攣っていく。
「お兄さんはやめてよ。さすがにキツイよ、健太さん」
私は思わず笑ってしまった。
「だって、真央にとって、順也はお兄ちゃんなんだろ。なら、いずれおれのお兄さんになるわけだろ」
「早すぎますって」
勘弁してくださいよ、と順也は肩をがっくり落として、それから、大きな口で楽しそうに笑った。
「まだ、嫁に出す気はないですよ」
「まじか。頑張りますね、お兄さん」
健ちゃんはライオンの鬣のような頭をぺこりと下げて、
「全員、まとめて、送ってってやるよ」
と手話をして、車を回しに走って行った。そんな健ちゃんの後姿を見て、順也が目を丸くした。
手話ができるようになっていた健ちゃんに、ただただ驚いたらしい。太ももの上にバスケットボールを置いて、順也はやさしい手話をした。
「覚悟を決めた。真央に会いたい。短大教えてくれって。今日、仕事、休んだみたいだよ、健太さん。でも、そうか。そういうことだったのか」
〈そういうこと?〉
私が首を傾げるジェスチャーをすると、順也はにっこり微笑んで、頷いた。
「健太さんは、本気で、真央のこと、好きなんだよ。だって、手話を覚えたくらいなんだ」
どうしてだろう。順也にそう言われると、本当にそんな気がしてくる。順也の優しさに満ちた手話は、私の心にすとんと落ちる。急降下する鳶のように。
健ちゃんの車が、私たちの待っている風除室の前に停車した。
「ちょっと、待って。トランク、片さないと、車椅子入らないから」
車から降りて来るや否や、健ちゃんはトランクを開けて、中を片付け始めた。手伝おうと思い、車の方へ行こうとした私の腕を、順也が引っ張った。
〈どうしたの?〉
訊きながら、少しだけ、緊張した。いつになく、順也が真剣な目をしていたからかもしれない。
健ちゃんがこっちを見ていないことを確認して、順也がゆっくりと両手を動かす。
「真央も、それくらいの覚悟、しないといけないよ。いい?」
私は頷いた。順也もしっかりと頷き返した。
「別に、真央を、差別してるわけじゃないよ。ただ、誰かと、付き合うってことは、それなりの覚悟を、しなきゃいけないんだ」
〈覚悟?〉
「例え、どんなによ、辛い壁に、ぶつかってしまったとしても、簡単に、諦めないこと。何があっても、いちばんに、健太さんを、信じること」
私は、しっかりと頷いた。信じるよ。健ちゃんのこと。
でも、順也は寂しい顔つきになった。
「誰かを好きになって、付き合うってことは、そういうことなんだよ」
信じることが何よりも大切だよ、と順也は優しい手話を添えた。
ぼくとしーは、それができなくなってしまったから、離れてしまったんだよ。そんなふうに小さく両手を動かして、順也は目をふせた。
「果江さんが、帰国しても、真央は、健太さんを、いちばんに信じること」
分かってる。私はもう一度、しっかりと頷いた。でも、この時、私は本当に順也の言っている事の意味を理解できていたのだろうか。たぶん、できていなかったと思う。
健ちゃんの心と通じ合えたことに浮かれて、何も分かっていなかったのだ。安易に考えすぎていたのだ。
何があっても、健ちゃんを信じろと言った、順也の言葉の本当の意味を理解した気でいただけだった。
〈大丈夫。私、健ちゃんを、信じる〉
私の手話を見て、順也は「約束だよ」と小指を差し出して微笑んだ。私も小指を差し出して順也の小指に絡めた。
夜空に丸く太った月が昇って、夜を明るく照らしていた。それはまんまるで、目玉焼きの黄身のように、鮮やかな黄色だった。
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