ライオンとうさぎ

 夏の空は、濃い色をしている。


 海の青を映したような、深い水色だ。


 朝から大きな入道雲が綿菓子のようにもこもこと、わき上がっていた。


 8月も終わりに近いのに、まるで初夏のような新鮮な木漏れ日が、キッチンに差し込んでいる。


 私は、日曜だというのに、朝早くから慌ただしくしていた。朝6時に起きて、お弁当を作っていたのだ。


 短大で専攻しているのは栄養学。小さい頃から料理に興味があって、お母さんのお手伝いをして料理を覚えた。週に3日は調理実習をしているから、料理は得意だ。


 わかめと枝豆の俵型おむすびと、甘辛い醤油を重ねづけして焼いた焼きおにぎりは三角で。卵焼きは白だしに少しお砂糖を入れて甘口にした。唐揚げ、カニさんウインナー、鶏つくね。アスパラの豚バラ肉巻きと、プチトマトも添えた。


 お弁当箱に詰めていると、台風の中を逆らって走って来たような盛大な寝癖頭で、腫れぼったい目を擦りながら、パジャマ姿のお父さんが起きて来た。


〈おはよう〉


 私が手話をすると、お父さんは眼鏡をかけてにっこり微笑んだ。


 そして、まるでパーティーのように賑やかなキッチンをぐるりと一周見渡して、目を丸くした。


「今日、どこか行くの? ピクニック?」


 私はこくりと頷いた。


〈友達と出掛ける〉


 へえ、と言いながらお父さんが卵焼きをひとつ摘まもうとしたので、慌てて私はその手を叩いた。


〈食べるなら、こっちを食べて〉


 と、私は切り落としのいびつな形の卵焼きを、お父さんに渡した。


「はい、分かりました。どうせ、お父さんは余りもの処理係ですよ」


 その様子を見ていたのか、お母さんが可笑しそうに笑いながら、私とお父さんの間に割って入って来た。


「真央、お父さんとゆっくりしてていいの? もう8時だけど」


 お弁当作りを始めたのは6時半頃だったのに、壁時計の針はもう間もなく8時をさそうとしている。


〈急がなきゃ!〉


 私は大急ぎでお弁当箱を包み、準備していたかごバッグに保冷剤と一緒に詰め込んだ。


 今日は健ちゃんと動物園に行く約束をしているのだ。9時に健ちゃんが迎えに来てくれることになっている。


〈お母さん、お願い〉


 私はキッチンの片付けの残りをお母さんに頼んで、慌てて部屋に戻った。


 今日はいいお天気だし、陽射しが強そうだ。


 ドレッサーの前に座り、私はメイクに取り掛かった。


 まずはスキンケアをして、日焼け止めを塗り、下地を重ねる。静奈が選んでくれたクッションファンデーションをパフで叩き込んで、ルースパウダーをはたく。


 お母さん譲りの末広型のまぶたに、淡いピンクベージュのアイシャドーをブラシで入れて、目じりにさりげなくアイラインを入れた。お父さん譲りのお世辞にも長いと言えないまつ毛に、ブラウン色のマスカラを重ねた。


 いちばん苦手な眉毛も、静奈の手ほどき通り眉マスカラで整え、頬は悩んだ末にアプリコットオレンジのチークをのせた。


 クローゼットを開き、手にしたのはお気に入りの水色のサロペットパンツ。腰に大きなリボンが付いていて、サテン生地で涼しくて、裾はひらひら揺れてとってもかわいいデザインで、お気に入りの一着。


 お父さんが買ってくれたもので、なんだかもったいなくて、滅多に着れずにいたけれど、せっかくなので本日解禁。


 メイクと着替えを終えた私は、ヘアピンとハードスプレーと櫛を抱えて、1階に駆け下りた。


 キッチンでは、まだ、お父さんとお母さんが何かを話し込んでいる。そんなふたりに割って入り、私はお母さんに三種の神機を差し出した。


〈おだんご頭にして〉


「なるほどね。よし、おいで」


 昔から、おだんご頭はお母さんにしてもらうことにしている。私がやると、どんなに頑張ってもおだんごが歪な形になってしまうからだ。


 でも、お母さんはとても手先の器用な人で、細かい作業が得意だ。お裁縫も、料理も。あっという間に、私の頭のてっぺんに大きなおだんごを作ってしまう。魔法使いみたい。


 今日はソフトボールくらい大きな、特大のおだんごにしてくれた。


 鏡越しに〈ありがとう〉とお礼をすると、お母さんはにっこり微笑んで、鏡の中の私に言った。


「真央は、おだんごが、いちばん似合うね」


 そうなの。私もこのヘアスタイルがいちばん好き。うん、と頷いたその時、突然、まだパジャマ姿のお父さんが、部屋に突風のように入って来て、横から私を抱きしめた。


 私は、お父さんの胸を押し返して、訊いた。


〈何、突然、 どうしたの?〉


 すると、お父さんは目をうるうるさせて、両手を動かした。


「その、なんだ……デートっていうのは、本当なの? そんな……おめかしして」


 もじもじと面白くなさそうに両手を動かすお父さんの背後で、お母さんが「ごめん」と私にジェスチャーしている。


 私は、がっくりと肩を落としているお父さんに微笑んだ。


〈違うよ。友達。彼氏じゃないよ〉


 私の手話を見て、お父さんはぱあっと笑顔になった。そして、なーんだ、そうかそうか、と元気に復活して部屋を出て行った。


 私はため息を落としながら、お母さんを睨んだ。


〈お父さんに、要らない情報、漏らさないでよ〉


「ごめん、ごめん。だって、お父さんたらしつこくて」


 私とお母さんは、同時に吹き出して笑った。


 お父さんは穏やかで物静かそうに見えて、けっこうやきもちやきなのだ。


 それから、準備を終えた私は健ちゃんが迎えに来るのをリビングで、小説を読みながら待っていた。


 8時55分になった頃、お母さんが私の肩を叩いて「来たよ」と教えてくれた。


 肩からお気に入りの白いショルダーバッグを下げて、お弁当入りのかごバッグを持った私に、お父さんが言った。


「気を付けるんだぞ」


 私が頷くと、お父さんは涼しい顔で新聞を読み始めた。でも、私は可笑しくてたまらなかった。


 新聞が、逆さまだ。


 いつも冷静なお父さんが珍しく動揺しているのは、一緒に出掛ける友達が順也以外の男の人だからだ。


 リビングを出ると、玄関でお母さんと健ちゃんが何か話していた。


 黒いTシャツに、今日はわりと細めのジーンズに、真っ白なスニーカー。


 健ちゃんはちょっぴり緊張した面持ちで、私に「おはよう」とライオン丸みたいに大きな口で言った。私はこっくりと頷いて笑った。


 白いぺったんこのサンダルに足を通した時、健ちゃんがかごバッグに気付いて持ってくれた。


「何だ? 動物園に行くだけなのに、大荷物だな」


 そう言った直後、健ちゃんは弾かれたように顔を上げ、お母さんを見つめた。お母さんが健ちゃんに何を言ったかは分からないけれど、何か言ったらしい。


 健ちゃんは笑って「はい」と返事していた。


〈行って来ます〉


 私が言うと、お母さんはにっこり微笑んで「気を付けるのよ」と言い、健ちゃんにも「よろしくお願いしますね」とぺこりとお辞儀した。


 私が勢い良く玄関のドアを開けた時、健ちゃんが肩を叩いて来た。


「なあ、めちゃくちゃ、怖いんだけど」


 おれ、殺されないよな? 、と健ちゃんが指さす方を見て、私は呆れて笑ってしまった。


 リビングのドアの隙間から顔を半分だけ覗かせて、お父さんがじっとりとした目で健ちゃんを睨んでいた。


 私はお父さんを指さして、警告した。


〈お父さん!〉


 すると、お父さんはハッと我に返った様子で、ひゅっと姿を隠してしまった。でも、数秒後には再びドアの隙間からぬうっと顔を半分覗かせ、こっちをじっとりと見ている。


 私は呆れてため息を落とした。


 すると、今度はまるで捨てられた子犬のように潤んだ目で私を見ている。


 どぎまぎしている健ちゃんに、お母さんが言った。


「気にしないで。子離れできない人だから。順也くん以外の男の子が家に来るの、初めてだから、あんな風になってるだけなの」


 ほんとにもう、とお母さんが恥ずかしそうに顔を赤くした。


 健ちゃんは八重歯を見せて笑っていた。


「真央を、よろしくお願いしますね。何かあったら、電話ください」


 と、お母さんは自宅と携帯の番号を書いた紙を、健ちゃんに渡した。


 車に乗ると、健ちゃんが肩を叩いてきた。


「真央の母ちゃん、美人だな。でも、父ちゃんは、なんかこわい。おれ、怒られるのかと思った」


 私は笑ってしまった。







 動物園は混んでいた。


 駐車場は近いところからうまってしまっていて、仕方なく第4駐車場に停めて、少し歩かなければならなかった。


 車を降りる時、後部座席に手を伸ばしてかごバッグを取ろうとしていると、健ちゃんに肩を叩かれた。


 「それ、なに入ってんの? 持ってくのか?」


 私は頷いて、ショルダーバッグからメモ帳とボールペンを取り出した。


【お弁当 つくってきた】


メモ帳を見せて、もう一度かごバッグに手を伸ばすと、私より先に健ちゃんの長い腕が伸びた。


 顔を上げると、健ちゃんはひょいとかごバッグを持ち上げて、八重歯を輝かせた。


「楽しみだな。もう腹減ったけど。ありがとな」


 健ちゃんの笑顔を見ると、私の心臓に住んでいる子うさぎたちが、突然踊り出す。


 入館受付には、長蛇の列ができていた。それでも流れは思いの外スムーズで、約10分ほどで園内に入ることができた。


 懐かしいな。動物園に来たのは、小学3年生の遠足以来だ。あの時、順也はおたふく風邪で遠足に参加できなかったっけ。最高につまらない遠足だったことを、今でもはっきり覚えている。


 入園すると、すぐ正面にはペンギンの大きな水槽があった。


 私は小走りで駆け寄って、大きな大きな水槽に貼り付いた。


 分厚いガラス越しにペンギンがヨチヨチとやって来て、私の目の前を気持ち良さそうに泳いでいった。空を飛ぶ鳥のように、水中を優雅に泳いでいる。


 健ちゃんに肩を叩かれて見てみると、向こうではペンギンが順番に水面に飛び込んでいる。白いしぶきをあげて、水中に1羽ずつ順番にダイブする姿は、なんとも愛くるしかった。


 「おい、真央」


 と、健ちゃんがスマホの画面を私に見せてきた。


――ドボン


 画面とにらめっこして、首を傾げる私に健ちゃんが教えてくれた。


 ドボン。


 へえ、そうなんだ。


 私は自分のスマホに文字を打ち込んで、その画面を健ちゃんにみせた。


――もっといろんな音、教えて欲しい


「おやすいごようで」


 そう言って、健ちゃんは私にたくさんの音を教えてくれた。


 アヒルは、グワグワ。ゾウは、パオーン。ヒツジは、メエー。別に訊いてないのに、親切に、メエーと鳴くヒツジの真似をするコツまで教えてくれた。鼻の下を伸ばしたら、白目をむいて真似をすると上手にできるらしい。


 健ちゃんといると、私の目にはたくさんの音が見えた。


 他の動物も見て回っている途中、健ちゃんが「ちょっと待ってて」と、売店でソフトクリームを買ってきてくれた。


「バニラ。食える?」


 私はこくりと頷いた。


 ソフトクリームを食べながら、チンパンジーをガラス越しに見ていると、突然、チンパンジーが私の所へやってきた。ガラス越しではあるけれど、迫力満点。私はびっくりして、後ろによろめいてしまった。


 健ちゃんはそんな私を見て爆笑しながら、目の前にいるガラス越しのチンパンジーを指さした。


「見ろ、真央の真似してる」


 確かに。私もつられて笑ってしまった。チンパンジーは私をじっと見つめ、私と同じ動きをしている。私がソフトクリームをぺろりと舐めると、チンパンジーもべろを出して、ぺろりと舐めるジェスチャーをした。


 チンパンジーは、賢いんだ。頭いいんだぞ、と健ちゃんが教えてくれた。


 そして、さる山を見ていた時だった。


「さる、の手話、ある?」


 私は頷いて、左手を軽く握って、右手でその左手の甲を掻くジェスチャーをして見せると、健ちゃんは楽しそうに真似した。


「きー、きー」


 どうやら、さるの鳴き声らしい。


 さるの手話をしながらはしゃぐ健ちゃんの後方で、さる山の頂上近くに君臨していたボスざると思われる一匹が、同じような仕草を始めた。


 私は思わず吹き出してしまい、スマホに文字を打ち込んで健ちゃんに見せた。


――そっくり


「なにー、そっくり?」


 うんうんと頷いてさる山を指さすと、健ちゃんはさる山を半周眺めて、むっとした表情で私を睨んだ。


「似てねえし」


 でも、すぐに笑顔になって、私に左手を差し出した。


「手、繋いでも、いいですか」


 なぜか今更かしこまって言った健ちゃんの左手に、右手を重ねて頷いた。握り返してくれた健ちゃんの手は大きくて、温かくて、心地よかった。


 そして、その動物の檻の前に辿り着いた時、健ちゃんの様子がえらく変わった。


 とっても、興味があるらしい。


 美しい鬣。つりあがった強い瞳。大きな体。鋭く尖った牙。


 まるで健ちゃんみたい。


 美味しそうなキャラメル色で、少しだけ襟足が長い髪の毛。横長で大粒の目に、黒曜石のように真黒な瞳。すらりとした長身に、広い肩幅。鋭いのに、無邪気な笑顔に良く映える八重歯。


「おれ、ライオン好きなんだ」


 やっぱり。


 突然、健ちゃんが両手を上げて、大きな口を開けて私に覆い被さるジェスチャーをした。


「ガオー」


 ライオンの鳴き声らしい。


 周囲には結構な人だかりができていて、それなのに人目もはばからず、楽しそうにライオンの鳴き真似をするなんて。本当に無邪気で自由な人だ。


 笑い転げそうになっている私に、健ちゃんが訊いてきた。


「真央の、好きな動物は、なに」


 私はスマホに「うさぎ」と打ち込んで見せた。


「うさぎか。よし、ついてこい」


 健ちゃんはそう言うと、私の手を引いて駆け出した。


 園内はまるで迷路のようだった。いろんな動物がいるジャングルみたいだ。ツキノワグマとオオカミのブースを抜けると、カンガルーたちがいて、その奥には『ふれあい広場』というスペースがあった。


 どうやら小動物たちに直接触れる体験ができるらしい。


 中に入ると、飼育員さんが、私に白うさぎを抱かせてくれた。


 うわあ……。


 真っ白でふわふわの、やわらかな毛。まるでたんぽぽの綿毛みたい。ふわふわの小さな体に、そっと頬ずりしてみると、おひさまの匂いがした。


 赤い瞳、長い耳。


 私は腕の中でじっと大人しい白うさぎを、うらやましいと思った。これくらい長い大きな耳なら、どんな音も聴こえるかもしれない。


 ふと、視界の片隅に可愛らしい小さなスニーカーが入って来て、顔を上げると、幼い男の子が立っていた。3歳くらいだろうか。ビー玉のように瞳を輝かせて、私の腕に抱かれている白うさぎをじっと見つめている。


 抱きたいのだろうか。


 わたしが、おいで、と手招きすると、男の子は恥ずかしそうにもじもじしながらも、近寄って来た。


 白うさぎが驚かないようにそっと抱かせてあげると、男の子はにっこり微笑んで「わあ、かわいいね」と言った。そして、男の子は私に何かを言った。でも、早口だったから、私にはよく分からなかった。


 何も答えず固まる私を、変に思ったのだろう。男の子は不思議そうに小首を傾げて、白うさぎを抱いたまま向こうへ行ってしまった。


 健ちゃんが、私の肩を叩いた。


「ママに見せたいから、連れてってもいいかって、言ってた」


 私はたまらず肩をすくめた。男の子の質問に頷くことさえできなかったことを、悔やんだ。もしかしたら、男の子は私に無視されてしまったと思って、悲しい気持ちになったかもれない。


 いつも、こうだ。


 背中を丸めてうつむいていると、健ちゃんが私の額を人さし指で押し上げた。


「気にするな。大丈夫だから。それより、腹減った」


 私たちは、園内にある広い憩いの広場で、昼食をとることにした。


 緑が豊かな広場には小さな池が幾つもあって、木で造られたテーブルと椅子もたくさんあった。ちょうどお昼時で、日曜日ということもあってなのか、家族連れが多い。


 私がお弁当を広げると、健ちゃんはいちばん最初に、卵焼きに箸を伸ばした。


「さすが栄養士のたまごだな。うまい」


〈ありがとう〉


 私たちはお弁当を食べながら、たくさん、話をした。


 健ちゃんは大きな口で、私はスマホ画面に文字を打ち込んで。


――どうしてライオンが好きなの?


 スマホを見た健ちゃんは、カニさんウインナーを飲み込んでから答えた。


「強いし、かっこいいから」


 なるほど。単純というか、子供みたいな理由だ。本当に、それくらいにしか思っていなかった。ライオンが好きな本当の理由を、私はまだ理解していなかった。健ちゃんの言葉のひとつひとつには、ものすごく深い意味が隠れていたのに、分かっていなかった。


「じゃあ、真央は? なんで、うさぎが好きなんだよ」


――耳が長いから


「耳」


 健ちゃんは不思議そうな顔で、首を傾げた。私は頷いて、うさぎの手話をした。両手の甲を前に向け、うさぎの長い耳のようにして、その手を耳に添えた。


 そして、間髪入れずにスマホに打ち込んだ。


――うさぎになりたい


「なんで」


――うさぎくらい耳が長ければ、私も音が聴こえるかもしれない


 私はかなり本気で真面目にそう思っているのに、健ちゃんはあっけらかんとして笑い飛ばした。


「単純。バカだな」


――ひどい! 真面目に言ってるのに


 スマホをぶっきらぼうにテーブルの上に投げ出して、健ちゃんを睨んだ。でも、健ちゃんは表情ひとつ変えず、飄々とした様子で言った。


「だってさ、うさぎはそもそも、日本語分からないべ、たぶん。しゃべれないし、手話だってできない。スマホも操作不可能」


 な、なるほど。


 私は妙に納得した。


 なんだ。そっか。それなら、ろうあの私よりだいぶ不便だ。


 私はテーブルの上に投げたスマホを回収して、文字を打ち込んだ。


――やっぱり今のままでいい


 それを読んだ健ちゃんは、喉の奥が丸見えになるくらい大きな口で笑った。


「だろ。それに、真央の耳は、ちゃんと、心の中についてる」


 私はサテン生地の上からそっと心臓を押さえた。そして、首を振った。ううん。ない。私の心の中に、耳はないと思う。


――心の中に耳はないよ 私の心の中にはうさぎがいる


 スマホ画面を見せると、健ちゃんは豆鉄砲をくらったように呆けた顔をして、首を傾げた。


「は? うさぎ?」


――健ちゃんと一緒にいると 私の心の中でうさぎが飛び跳ねる


 健ちゃんを指さしながらスマホを見せると、健ちゃんは一瞬、ちょっぴり驚いたような表情になって、でも、すぐに笑った。


「おれも同じなんだ。真央と、一緒にいると、うさぎが飛び跳ねる」


――なんだ よかった 私だけへんなのかと思った


 私たちは、ほとんど同じタイミングで、笑った。


 15時になると、肌を突き刺すような強烈な日差しが若干やわらかくなり始めた。深緑色の葉に、優しい色の陽光が降り注いでいる。


 園内の出入り口付近にあった売店で、私は足を止めた。


 ぬいぐるみやキーホルダー、ストラップ、マグカップにボールペン、クッキーまである。動物園の仲間たちがモデルのグッズが、狭い棚に所狭しと並んでいる。


 私は健ちゃんの背中を叩き、スマホを見せた。


 ――見たい


 売店を指さすと、健ちゃんが「いいよ」と微笑んだ。


 売店内は意外と広く、私たちは10分後に売店の入り口で待ち合わせる約束をして、それぞれ店内を見て回ることにした。


 まず最初に私の目に留まったのは、空色のリボンとピンク色のリボンをしているレッサーパンダの手のひらサイズのぬいぐるみ。ひとつずつ買うことにした。空色リボンの子は順也に、ピンク色リボンの子は静奈にお土産。


 プレーリードッグのキーホルダーは、おそろいでふたつ買うことにした。お父さんとお母さんに。


 あちこちに目移りしながらレジに向かっている時、不意にそれが私の目に飛び込んできた。


 かわいい。


 周囲をぐるりと一周見渡して、健ちゃんが居ないことを確認してから、それをそっと手に取った。赤ちゃんライオンのマスコットが付いている、スマホストラップ。


 笑った健ちゃんにそっくり。


 今日のお礼に、健ちゃんにプレゼントしよう。


 他にも猿やキリンや象、他にも数種類の動物のストラップがあったのに。私の目には赤ちゃんライオンのストラップしか入っていなかった。


 レジに向かうと、健ちゃんも何かを購入したようで、手のひらサイズの紙袋を持っていた。


 何を買ったんだろう。健ちゃんの肩を叩いて紙袋を指さすと、「いいの、これは」と、そそくさとジーンズのポケットに押し込んでしまった。


「向こうで待ってるから」


 と、健ちゃんはひとりでさっさと売店の外へ出て行った。私も会計を終えて売店を出ると、健ちゃんが空を見上げていた。


 夏の終わりが近づく青空に、ひこうき雲が長く伸びている。その肩を叩くと、健ちゃんが振り向いてにっこり笑った。


「真央、時間、まだ大丈夫か」


 スマホで時間を確かめると、まだ15時40分だった。夕食までには帰ると、お母さんには伝えて来た。


 私が頷くと、


「美岬海岸、行こう」


 健ちゃんは両手を伸ばして、空を仰いだ。


「今から行けば、着いたころには、綺麗な夕日が見れると思う」


 私たちは、どちらからというわけでもなく、それが当たり前のように、自然に手を繋ぎ、動物園を後にした。





 



 






 




 












 




 






 


 

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