第16話
小椋恒亮は、昔からぼんやりしている子どもだった。
彼は生まれつき左耳が聴こえなかった。時たま反応がなくなるのはそのせいだと思われたが、どうも違うと周囲が気付くのにそれほど時間は掛からなかった。
「きょうね、あのね、歩いてたの、砂のところ」
はるか昔のことだ。
夕暮れの中、父親の背中におぶさりながら話を始めた恒亮を、彼の兄は怪訝な顔で見つめた。
「今日は公園行ってないだろ? どこを歩いたって?」
恒亮は怯むことなく答える。
「砂のところ」
「砂場か?」
「ちがうよ」
「はあ? じゃあどこだよ」
「砂なの、もっとさらさらで、暑いの」
「今日はそんなとこ行ってないってば」
「にいちゃん居なかった」
「ずっと一緒に居ただろ」
「ううん、ぼくと……あのひと」
「怖い話か?」
「怖くないよ」
「お前の話は怖いんだよ」
恒亮にとっての幸運は、彼の不思議な感覚を家族の誰もが否定しなかったことだ。兄は不気味がりつつもやめろとは一度も追わなかったし、父親のほうも遮ることなく耳を傾けた。
「恒亮はいつもこんな感じじゃないか。寝たら忘れるさ」
「大人になったら無くなるよな? さすがに」
「そうなんじゃない? 恒大、おまえも変なこと言ってた時期があったよ。部屋の隅に妖精さんがいるとか」
「はあ⁉ そんなこと言ってないし!」
「言ってた、言ってた。あのときの恒大、かわいかったなあ」
「にいちゃん妖精さん見た?」
「見てないってば!」
父と兄は恒亮のことを心配こそすれ、押さえつけることはなかった。時たま何かに心が奪われるのも、夢想するのも、幼少期特有のものと捉えていたためだ。
それが結果的に彼の苦しみを引き延ばすことになるとは、誰も思っていなかった。
「にいちゃん、ぼく変な夢見る。毎日同じの。それ見ると悲しくなるの。もう見たくないよお」
「泣くなよ、ほら、こっち来い。今日は一緒に寝よう。これで怖くないな?」
「うん……」
小学校に上がっても恒亮は変わらなかった。父は彼を小児精神科に連れて行ったが、なんらかの定型に収まる病ではないとされた。
それが幾年か続き、あるときに突然、彼は変わった。
「─あのひとは、ここにも居ないの?」
妙にはっきりとした声音だったため、兄の恒大は今でもその時のことを鮮明に覚えている。
父と兄、恒亮、そして妹の四人で山登りに行ったときだ。海ほども広い湖を見て、恒亮は呟いた。
「……これ以上は、たえられない。あんな思いはもうしたくない」
そうつぶやいたあと、恒亮はその場で昏倒した。現場は大騒ぎだった。何が原因で倒れたのか分からず、家族揃って病院へ駆け込んだが、当の本人はけろっと目を覚まして─その頃には全てを手放していた。
「ここどこ? おうち帰りたい」
「もうなんともないんだね? 痛いとこはない?」
「どこも痛くないよ。早く帰ろうよ」
それを見て、父と兄はほっと胸を撫で下ろした。
「はあ、よかった……本当に焦ったよ。恒亮は目を覚さないし、宇唯は泣いちゃうし……恒大も宇唯を抱っこして大変だったよね。ごめんね」
「うん……」
兄は改めて恒亮の顔を見たが、そこにはあのときの表情はひとつも残っていなかった。
その日から、恒亮はあの夢を見なくなった。
ぼんやりすることはなくなったし、夜中に泣くこともなくなった。それは家族にとって良い変化だった。
「恒亮ー、今日も図書館行くだろ?」
「うん、行くよ」
「じゃあこれ代わりに返しといてくれない? 俺これからクラブなんだ」
「いいよー」
恒亮はおとなしい子どもになった。騒がず、怒らず、こだわりも少ない。そんな風なので、兄弟喧嘩は一度もしなかった。
ただ兄だけは、彼のたった一つの習慣に、何らかの目的があると気付いていた。
「それ、借りてきた本? そんなにたくさん読めるわけ」
「読めるよ。好きだから、いくらでもね」
彼は探している。何かを、ずっと。それは幼少期に見ていた夢の何かか、あるいは“誰か”─それが何なのか、実のところ恒亮自身も知らなかった。
「よくやるな。じゃ、俺はもう出るから。何かあったら父さん呼べよ」
「はーい」
恒亮はそうして何かを探し続けた。それが何か、自分でも分からないまま。
「それがここにあるような気がする……なんて。夢見すぎかも」
恒亮は手のひらのなかで笑いを漏らした。窓を少しだけ開けて、暖かい茶を飲みながら、彼のかわいい文通相手の文章を読む。それは彼の人生の中でも格別の時間だった。金曜の夜というもっとも疲弊した体に沁み入り、暗い夜空に星が浮かぶような。
「でも……ずっと探してたものだけど、正解じゃない」
“この人”は正解を知っているだろうか? そっと青字のユーザーネームを撫でるが、表示されたのは愛らしいメッセージのやり取りだけだった。そこに答えはない。
「ふふ。“今日のやつ読んでくれましたか?”だって。かわいいな」
この素直さは若者にしか出せない。恒亮は少しぬるくなった茶を飲みながら返信を打った。
彼らの会話は長くは続かないが、ほむらがポンポンと玉を投げてくるので、恒亮はそれを丁寧にすべて返すほかない。子犬のようなじゃれあいを冷たくあしらうのは難しい仕事だ。
──────────
ほむら
今日のやつ読んでくれましたか? 友達に先に読んでもらったら、カシュハは酷すぎるって言われました。おれもそう思います。幻滅させちゃったらごめんなさい
──────────
「メッセージだと世間知らずな印象だけど、書いてる話はそんな感じじゃないんだよな」
不思議なひとだ、と恒亮は微笑みを深めて、返信を書いた。
──────────
コウ
読みました。幻滅はしませんでしたよ。こんなにまっすぐ物が言い合える関係っていいなと思いました。ほむらさんにもそういったお友達がいるようで喜ばしい限りです
──────────
コップを洗っていると、ぴこんと通知音が鳴った。返信が来たのだ。時計を見ると深夜に近かったが、内容に驚いて咄嗟に返信してしまった。
──────────
ほむら
おれの友達はいい人です。ギャルだけど
──────────
──────────
コウ
お友達、ギャルなの? ギャルがあの小説を読んでくれてるの?
──────────
──────────
ほむら
真面目なギャルだから読んでくれます。ありがたいです
──────────
──────────
コウ
ほんとにいい友人なんですね……
──────────
──────────
ほむら
コウさんも居ますか? そういう友達
──────────
恒亮の指ははたと止まった。
しかしここで急に返信を止めるのは大人として憚られて、咄嗟に嘘をついた。
──────────
コウ
居ますよ。長い付き合いの友人が
──────────
心臓がどきどきしていた。嫌な高鳴りだった。血管が広がって頭が痛むのを感じる。
──────────
ほむら
よかった。喜ばしいかぎり、ですね
──────────
そっと笑顔の反応ボタンを押して、会話を終わらせたあと、恒亮はどっと疲れを感じた。
嘘を吐いたことは問題ではなかった。ただ、ほむらの輝かしさや、彼の作品に到底及ばない己の人生に、少しだけがっかりしたのだ。
「はあ……」
何かを探すのに必死で、彼はその他の何も手に入れられなかった。友人はなく、当然パートナーもいない。唯一大切なのは仕事と、正体もわからない“何か”だけ。
情けない話だが、この年若い友人と接するなかで、青春に憧れる気持ちもないではない─けれど遠すぎるものに心を寄せると、そこには大きな痛みが伴う。今のこの状況をただ受け入れるのが正しいと思いながら……これでいいと開き直るには、まだ少し時間が必要だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます