6皿目 天使の羽の捌き方
『天使という生き物はいつも満ち足りていて、完璧で、主の支えとなるような存在だ』
──ほんとうに?
記憶の再構築とともに流れてきたノアを創った天使の言葉に疑問を返す。返事はなく、その記憶はどこかへ流れていく。
次に感じたのは美味しそうな肉の匂い。
──ザインのごはん……
ノアの減らないはずの腹が鳴る。美味しくとも不味くとも、肉はノアの大好物だ。不味いものを食べれば不愉快という感情の欠損を、美味いものを食べれば空腹という仮初の肉体の欠損を感じられる。完璧だという天使の器を傷つける行為がノアを満たしていた。
***
「ちょっとずれた……」
天界と魔界のはざまにあるマーブル模様の森。その中に降り立ったノアは独り言つ。ここからザインの家まで、迷うほどではないが距離はある。木々が頭上を覆っているため飛ぶのもそれはそれで面倒だ、とノアは歩き始めた。
かつてザインと出会ったこの森は、ノアにとって安心できる場所の一つだ。天界で天使に馴染めず浮いていたノアは、天界と魔界の大きな戦争が終わってからよく森で過ごしていた。魔界と天界で不可侵条約を結んだことで二つの世界の行き来がなくなり、間にあるこの森に立ち入る者がいなくなったからだ。
散歩や昼寝ばかりしていたノアがこの森で偶然天使の死体を見つけ、偶然口にしてしまった。そしてそれを偶然ザインが見ていた。二人の奇妙な縁はここから始まっている。
──たしかあの、たおれた木のしただったな……
それから紆余曲折あって二人は人間界に居を構えることになる。長い生の中で、ノアがこれだけ鮮明に覚えている出来事というのは貴重だ。自分以外の居場所を気にかけていることも珍しい。ノアとザインをつなぐ食が異界では珍しいことも理由の一つだが、それ以上に互いに居心地が良かったのだ。
「ん……?」
小さな異変にノアが気づいたのはザインの家まであと少しというところ。魔界に近いこのあたりは天使にとって厳しい瘴気が漂っていることも珍しくないが、その質が違う。そしてその異常な瘴気はザインの家から漂っている。
こわばる二枚の羽を落ち着かせて、身構えながらノアはザインの家に近付く。ノアが玄関扉の前で息を整えて中の気配を探れば二人の悪魔の気配がした。一人は馴染んだザインのもの、もう一人はただの悪魔とも獣とも似つかない異様な気配だ。
耳をそばだてて全神経を家の中に集中させる。死の気配はしない。ならば、とゆっくり扉を開いて状況を伺えば、貯蔵庫の前で獣の耳と尻尾を携えた長身の悪魔がザインに手を伸ばしていた。
反射的にノアの頭に血が上る。構えた矢は悪魔の急所である心臓を捉えていて、弓を引いた指先に力が籠もる。
──ゆるさない
ふっと指先の力を抜いて矢を飛ばす。
天使の光の矢は悪魔の心臓に向かってまっすぐ飛んで、その軌道を突然不自然に変えて悪魔の左足の甲に着弾した。
ノアが無自覚に舌打ちをする。振り返った悪魔は痛みに顔をしかめて振り返り、ノアを見た。
「ザイン、それ、だれ」
「天使というのは相変わらず野蛮だねぇ……いてて……」
左足に刺さった矢を抜こうとして手を止めた悪魔は、何を思ったのか刺さった矢を軸にくるりと向きを変えてノアの方を向く。矢の傷を自らえぐった足からは絶えず血が流れているが、あまり気にしていないようだった。
「私はチェルベス。以後よろしく、"上級天使"のノア」
胸に手を当てて軽く会釈したチェルベスは、己を攻撃してきたノアに対しても動じない。一方ノアは今にも噛みつきそうな表情でチェルベスを睨む。ただ、今のチェルベスに二人を害そうという悪意がないことは薄らノアも気がつき始めていた。
それはザインも同じで、わざと声のトーンを落としてノアをたしなめる。
「ノア、その矢、抜いてあげて」
「でも」
「少なくとも、チェルベスさんは僕にも君にも手を出していない。それに僕達のことを言いふらす人でもないよ」
口を開いたザインをにこにこと見ていたチェルベスに、ザインがそっと釘を刺す。言葉の端に仕込まれた牽制をこの場の全員が正しく認識した。
「……わかった」
天使の矢は悪魔が触れると火傷のようになり激しい痛みを伴う。ノアは警戒しながらもチェルベスの足に刺さった矢を抜いた。どろりと溶けた金属のような鉛色の液体が溢れて、そのままかさぶたのように固まる。
「二人の慈悲に感謝を。ありがとう……さて、それじゃあ私はおいとましようかな」
お茶でもという雰囲気でもないしね、とチェルベスはその特徴的な瞳を細める。先程までの怪我が嘘のように歩いて玄関に向かったチェルベスは、玄関にいるノアの横でおもむろに立ち止まった。
「今度はザインの料理を楽しみにしているよ。それから、」
にこりと笑みをたたえたチェルベスは羽を広げる。
「私たち《悪魔》を食べた天使の味も、ね」
白銀の悪魔は空に立った。
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