作る悪魔と悪食の天使

青喰アオ

1皿目 悪魔の肉は塩か醤油か

 咀嚼。

 口の中に肉を入れて、エナメル質の歯で噛み、舌に載せてそれから飲み込む。焼けた肉の香ばしさと仄かな血の残り香が味蕾を刺激して、旨味と気色悪さが同時にまとわりつく。

 この悪魔の肉はどんなソースが似合うのか。

 選定のために素焼きにした肉の二切れ目にフォークを刺せば、じゅわと油が溢れた。


***


「お先に失礼します」


 神舞伎町の一角、裏通り。表の小綺麗な店構えとは似ても似つかない、年季の入った勝手口の重たい扉を開く。

 扉の音に驚いた鼠が足元を駆け、山積みになったゴミの集積場に隠れた。あと三十分もしないうちに回収業者が来るだろう。

 朝日の入らない路地裏はまだ夜の気配を残しており、大通りと交差する建物の切れ目まではまだ暗い。その先、白く光る大通りの方に向かってザインは歩みを進めた。

 腰まである艷やかな黒い長髪をポニーテールにくくり、カラコンと見間違えるほど鮮やかな赤い瞳で白む街を見る男。ザインは悪魔である。

 この世界にひっそりと存在する人間以外の種族。その一つである悪魔は、人間と関わることで人の感情を食事とする生き物である。その営みのために多くの悪魔が人間に擬態して生活をしている。必然、人の多く集まる繁華街には正負を問わず人々の感情を求めた悪魔が多く集まるのだ。ザインも例に漏れず、生来の大きな蝙蝠に似た羽と黒い白目を隠し、人間として神舞伎町の一角で深夜営業をしている飲食店で働きながら時々感情を拝借している。

 ただし、ザインがこの街での生活を選んだ理由は他の悪魔と少し違う。

 食事のためという皆と同様の建前はあるものの、ザイン好みの食事は人間の感情ではなく「天使と悪魔の肉」である。

 ザインは、同族を調理して食うためにこの地に居を構えているのだ。


 がちゃん、とアパートの鉄製の扉が音を立てて閉まる。

 思ったよりも大きな音になってしまい、同居人を起こしていないかとザインは耳を澄ませた。奥の部屋からかすかに聞こえる寝息を確認して、まだ同居人が穏やかに眠っていることを確信したザインはそのままキッチンへ向かう。

 遮光カーテンで閉じられた1LDKのリビングと対面するカウンターキッチンはまだ暗い。人間の瞳は暗闇を見るのに不向きだな、とザインは赤い瞳だけを異形のそれに戻した。


「おわ、眩し」


 時刻は朝四時。なるべく音を立てないように冷蔵庫を開けばそこだけがぽっかりと明るくなる。ザインが中から取り出したのは赤黒い肉塊だ。よほど新鮮なのか、表面がうっすらと脈打っている。透明なラップに几帳面に包まれていた肉をまな板の上に広げて、よく砥がれた包丁で一筋入れる。一つ、びくんと肉塊が大きく跳ねてそれからまた微かに脈打つだけに戻る。

 モデルのように整ったザインの指先が肉塊の表面を撫でて、引っ掻く。愉悦と慈愛を湛えて踊る指先とナイフが、溶けた脂と血で汚れるがザインは気にしない。むしろそれすらも楽しむように、かつて同胞だった肉塊を料理へ変えていく。狂気的に、冷静に、それは一皿へ導かれる。

 厚めに切った肉をより分けて、残った塊はもう一度ラップに包み冷蔵庫へ。

 分けた肉をさらに二つに切って、片方には塩を振る。もう片方は味付けをせずに、熱して油を引いたフライパンに静かに置いた。

 熱い油と冷たい肉の水分が反発しフライパンの鉄を激しく叩く。思い出したかのようにつけた換気扇のファンの音が静かな部屋をさらに賑やかした。

 片面の色が変わったらひっくり返してもう片面も焼く。レアか、ミディアムレアか。その中間になるように注意して火を通せばテイスティング用素焼きの完成だ。


「よし」


 肉をまな板のまだ汚れていない部分に移して包丁を入れる。表面の焼き色がついた部分を刃先が押しのけ、内側の赤が姿を見せた。ひとまず、とザインは何もつけていない方の肉を箸でつまんで口に入れる。

 焼けた肉の表面を覆う香ばしさ。それを歯で突き破って、赤身に残る僅かな血の生臭さを感じる。悪魔の肉は臭みが強い。例に漏れず、この肉も他の悪魔よりはマシだがステーキとして食べるには人を選びそうだ。

 口の中に残る肉を嚥下して、塩を振った方も口に入れる。塩味が肉のえぐみを消してくれるか、と期待したがむしろ塩が焼く前の血合いを吸ってしまい難しい味になってしまった。火を入れる前にキッチンペーパーで水分を吸うべきだったか、と一抹の後悔がザインを襲う。

 まな板にはまだそれぞれ二切れずつ残っている。何をつけて食べるか、と逡巡したところで寝室につながる引き戸が開いた。


「おはよ……」

「おはよう、ノア。ごめん、起こしちゃった?」


 ふわふわの白いショートボブに金色の瞳。暗い部屋でも発光してると錯覚するくらいつぶらな瞳を囲う長いまつげが、眠たげに伏せられる。腰辺りに生えた小さな白い羽がふわりと揺れた。


「んーん、"呼び出し"でおきた」


 黒ずくめのザインとは対象的に真っ白なノアは天使だ。天使は人間が死んだ際に発生する不浄を清めることが仕事で、随時主たる神からのテレパスを受けて仕事に向かう。そしてその成果として神から命を継続するためのエネルギーを受け取のだ。

 夜の延長線上にある早朝に仕事死体が発生するのは珍しくない。


「お疲れさま。行く前に食べる?」

「うん」


 ぺたぺたとザインより二周りは小さい足がフローリングを叩いて近づく。ノアが、あ、と餌を待つ雛のように口を開くので、ザインがそこに少し冷めた肉を入れる。塩を振った"より不味い肉"だ。


「うわ、ヤバいね、これ」

「そう。今回はいけるかなって思ったんだけどだめだった」

「そっちは?」


 塩の振られていない素焼きをノアが指差す。ザインが箸でつまんで差し出せば、ノアはためらいなくそれを食べた。


「あ、こっちのほうがマシかも。好きなのはさっきのだけど……」

「よくこの状態を好きって言えるね……」

「おれだってまずいとは思ってるよ、ただやっぱよりヤバイほうが"あくまのにく"ってかんじがしてうれしい」


 平然と矛盾するノアにザインが閉口する。悪食の天使に美食家の悪魔は難しい顔をした。ザインとしてはこれをいかに旨く食べるかが課題なのだ。ザインにはわからない理論で不味い肉も美味い肉も食べるノアの理解は難しい。

 それに、ザインはノアのように人間界に留まる天使も、ものを食べる天使も知らない。当然、悪食の天使なんてこれまでの長い生の中で聞いたこともなかった。それが数奇な縁で共に暮らしているのだから不思議である。

 一人感慨深くなっているザインのことは気にも止めずノアはキッチンを出て仕事の支度にかかる。羽を体を運べるくらい大きくして、寝間着から仕事着へ。カーテンを開けてベランダから、もうすっかり朝になった街へ足をかける。


「それじゃ、悪魔には気をつけて、襲われないように」

「なにかあったら呼ぶからだいじょーぶ」

「はいはい、いってらっしゃい」

「いってきます」


 ばさりと大きく羽ばたいて、ザインが外の眩しさに目を眇めたそのときにはもうノアの姿はなかった。

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