15.宿主の罅(ヴィルト・リズ)

「嫌な予感がする……お尻から『バキッ!』って音がした時くらい確かで嫌な予感が」


 放課後。廊下。

 鞄を肩にかけて早足で歩いていたのは久野紫苑。目指す先はもちろん文芸部部室。


「おい! 今日の部活出席者は……!」


 ガラリ。勢いよく開いた引き戸の向こう。本来部員一名だけがいるはずのそこには。


「いいんすか? 俺、こんなファンサ貰っちゃって」

「氷月先輩ずるいですよ! 僕も先輩とハグしたいです!」


「お、来た来た。

「……!」


 前髪に青のメッシュが入った、涼やかな顔の男子生徒。言わずもがな文芸部でもお馴染みの姿になってきた氷月律。


 強いて言えば、普段は上げている前髪がおりて片目が隠れているが。


「しーおん♡」


 そんな男から腕を広げ迎えられたのを、久野は「抱きつくな」と突っぱねた。


「ちぇ。じゃあ天熾くんにハグしちまお」

「わぷ」

「天熾ずりぃぞ!」

「さっきまで散々ハグしてもらってたじゃないですか」

「…………」

「部長?」

「部長さん?」


 普段通りのポーカーフェイス、ではない。

 忌々しさに顔を歪めた久野紫苑が、天熾に抱きつく氷月をにらんでいる。



 後輩二人が久野と氷月の顔を見比べる。明らかにピリついた空気の中で。


「部長さん、何か悪いものでも食べちゃいました?」

「僕より明らかにおかしくなってるやつがいるだろ!」

「俺すか⁉︎ 新しいファンデ、そんなに色味おかしかったすかね?」

「くそ、敵しかいない」

「紫苑ってば、残念だったな?」

「どう考えてもこいつが一番おかしいだろ!」


 指差された氷月を見る一年生二人。やや危機を察した天熾が腕の中から逃げ出した。


 前髪で片目を隠し、普段と違うデザインのピアスをした男子生徒が不敵に笑う。


「俺様にそんな違和感があるかよ?」

「……確かに、いつもの香水の香りが薄いすね」

「確かに、最近出会い頭に『天熾くん!』と猫撫で声で言われるのですがそれがありませんでした」

「それ以外に気づくところあるだろ……」


 久野紫苑が頭を抱えている。


「三上、天熾君、本当は言うつもりなかったんだが、実は……」


「……つまり、この人は普段の氷月先輩ではないということですか?」

「二重人格みたいなことすか、俺らが知らない側面がたまたま出てきちまったと」


「そんな急に察し良いことある?」

 言いたかったことを全て解説されてしまった久野が狼狽えた。


「え、えーと……」

「ハハッ、紫苑が面食らってる」

「うるさいな。相変わらず悪役面が似合うね」

「皮肉にもなってねぇよ」


 鼻で笑い、紅い瞳に危険な色を宿す氷月が大仰に胸元へ手を当てた。


「俺様は正真正銘の『氷月律』。王子様なんて白粉で隠された宿主の罅ヴィルト・リズ


 普段は格好良さだけを強調する180㎝の高みが、今は他を圧倒している。


「お前らが理解したように、俺様は別人格ドッペルだ。それも普段表にいるアイツが気づいていない、な」


 振り撒かれた緊張感。後輩二人の息を呑む姿。


「……とまあ、分かるように、律は厨二病なんだ」

「厨二病じゃない。俺様は宿主の罅ヴィルト・リズ

「……リヅ先輩」

「リヅ先輩か……」

「ヅじゃない。ズ。それだと鼻声であいつの名前言ったみたいになるだろ。ヴィルトまで言え」


 別人格との差別化を図りたいらしい厨二側面がムッとした顔で腕を組む。


「高校生になっても厨二病を続けるその精神、感服するよ」

「なんだ紫苑、お前だって中学生の頃はむぐぐ」


 久野が物凄い勢いで氷月の口を抑えた。


「帰れ!」


 普段のポーカーフェイスからは考えられない形相で凄まれた氷月改め裏氷月が、「はぁい……」とモゴモゴ返事をした。



・・・



「……ごめん。ちょっと聞いてくれ」


 夕暮れ。部室。

 帰ろうと、鞄に腕を通した三上と天熾が振り返る。


「……聞いてくれ」


 項垂れた久野紫苑。濃いオレンジ色に染まった机と床。

 騒動をもたらした別人格は帰されて、ここにいるのは三人だけ。


「はい。聞きます」

「なんすか?」


 後輩二人は久野の様子を揶揄いも指摘したりもせず、穏やかにぴんと背筋を伸ばした。


「…………りっくんは」


 眼鏡に当てられた左手。グラスチェーンが擦れて小さな金属音を立てる。

 八重歯がのぞく口が少しだけ言い淀んで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……自分が二重人格って知らないんだ」


 三上も天熾も黙って続きを待っていた。


「ただ、眠って、起きて、ある朝突然入れ替わっている。アイツはりっくんである時も記憶があるみたいだけど、りっくんはそうじゃない。明日の朝、りっくんは、今日の記憶を失って目を覚ます」


 長いまつ毛が震えながら、マゼンダの瞳に影を落とす。


「頼むから、りっくんに真実を伝えないでくれ」


 それは、ただの幼馴染からの懇願だった。

 ままならない世界で日常ギャグを貫いてでも守りたいものを抱えた、か弱い人間がそこにいた。


「もし、真実を知ってしまったら、ただでさえ不安定な今の状態すらどうなるかわからない。りっくんはこれを記憶障害の持病だと思ってるんだ。頼む。氷月律を、氷月律のままでいさせてくれ」


 握られた両手。何の効力もない口約束。


「本当は、アイツを知る人を増やすつもりは無かったんだ———……」


 頭を下げた久野。下げられた後輩たち。


「勿論。そういうことならしっかり秘密にしますよ」

「事情はわかりました。部長さん、教えてくださってありがとうございます」


 久野が目線を上げた先には、頼もしく胸を叩いた二人がいた。


「……」

 抱え続けた幼馴染の秘密を打ち明けた一人の人間を、安心させるように、優しく穏やかな表情をした二人が。


「俺が部長とした約束を破るわけないじゃないすか」

「部長さん、今日は普段使わない表情筋をたっぷり動かして疲れたんじゃないですか? ほら、一緒に帰りましょう?」


 伸ばされた手におずおずと重なる掌。


「…………ありがとう」


 夕日の温もりだけを閉じ込めて、誰もいなくなった文芸部室に鍵がかけられた。

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