第32話 夜鷹の少女
第四期の治療も、とりあえず楼主からの情報からは全て終えることができた。
このあたりが俺の今の限界だろう。
これ以上の重症は、専門医、いや、この時代にそんなものはいないんだ。
だからこそ、俺がいる。そんな風に、柄にもなく気負ったりもする。
梅毒の治療は現在、三、四人ずつ第二期の者から受け付けている。
と言っても、申告から判断したこともあり、第一期の初期の者から第二期の終わり、中には潜伏期に入りかけている者までバラバラだ。
こっちとしては治療は変わらない。
治るまでペニシリンを注射していくだけだ。
それが俺の仕事だ。まるで、古びたレコードが同じメロディを繰り返し奏でるように、ただ淡々と注射を打ち続ける。
治療を始めて三、四日後に俺は書斎に一人でこもり顕微鏡を使い、採血した標本を調べていく。
これは地味だが、探偵が手がかりを探すように重要な作業だ。
ほとんどの場合が陰性になるが、それでも陰性にならなかったものだけ、同じ治療を続ける。
まあ、治らなかったケースはまだ一例だけだが、それはさらに同じ治療をすれば治ったので、今まで救えなかったのは第4期だったあの人一人だけだ。
だからこれは、成功率100%と言ってもいいだろう。
そう心の中で言い聞かせ、少しだけ気分を良くする。
ホッと一息つく間もなく、次の課題が俺の前に立ちはだかった。
それは、患者たちの「食事」だ。
そんな治療を続けながら、俺は空いた時間を使って食事の改善に取り組んでいくことにした。
健康な体は、適切な食事から作られる。
それはこの時代でも、いや、この時代だからこそ、より重要になる道理だ。
娼妓楼の楼主たちとの面会も増え、色々と話をするようになった。
彼らから、肉類の入手や卵に牛乳などの入手についても聞いて回った。
やはり楼主たちはこの街の生き字引だ。
彼らの情報網は、探偵も顔負けの情報量だった。
紹介された付近の農家を、今度は足で回る。
横浜近くの農家と交渉の末、毎日鶏の卵を買えることができるようになった。
これで、朝はパンに紅茶、それに卵焼きといった、ちょっとした贅沢な朝食を食べられるようになった。
患者たちの顔にも、少しずつだが生気が戻ってきている気がする。
そして、鶏肉だけは割と簡単に手に入るようになったので、俺は試しに「唐揚げ」に挑戦してみた。
この時代の鶏肉は、野趣あふれるというか、妙に弾力があるというか。
まあ、とにかく悪くない。
最初はレシピもなしに感覚でやったもんだから、焦げ付かせたり、味が薄かったり、衣がベチャベチャになったり、それはもう酷いもんだった。
何度か失敗を繰り返した挙句、ようやくそれらしいものができた時は、まるで新しい謎を解き明かしたような達成感があった。
患者の女性たちは、初めて食べる唐揚げに目を丸くして、一口食べると「美味しい!」と大喜びだ。
その笑顔を見ていると、俺の心も少し軽くなる。探偵稼業も、こういう「報酬」があれば悪くない。
鈴屋にも時々顔を出しては楼主と話をするが、今のところ先の梅毒のようなことは無いようだ。
これは朗報だ。
定期的な健診と早期治療の徹底が、この街の健全化に繋がるだろう。
流石に俺だけではどうにもできないが、早くそういう体制ができるといいな。
俺はそのまま楼主からお礼とばかりに接待を受け、先に治療した三人から十分なもてなしを受けた。
彼女たちの、本当に心からの感謝の言葉を聞いていると、やはり胸が熱くなる。
ウィスキーのグラスを傾けながら、この街の片隅で、俺は少しずつだが、光を灯しているのかもしれない。そんな感慨に浸る。
翌日に帰宅した俺を見た明日香さんたちからは「自分たちを相手になさらないのに」と少し詰められた。
「一体、どこで羽目を外してきたんだ」と言わんばかりの、ジトッとした視線が痛い。
ううむ、これはまずいな。誤解だ。
いや、完全に誤解とまでは言えないのか?
でも、治療の一環だぞ。
「いや、これはその、社会勉強というか、な」
しどろもどろになる俺を見て、明日香はニヤリと笑った。
「言い訳はよろしいですから。私たちも先生のお相手をしたいんです」
そう言って、彼女らは俺を取り囲む。
やれやれ、困ったもんだ。
結局、相手にすることを約束してその場を収めた。
やっと、ここにきてハーレム生活か……。
あ、俺が目指しているのは第二文芸部の先輩が話していた異世界チートハーレムものじゃなく、かっこいいハードボイルドの世界だったはずだ。
どこで道を間違えたんだろう。
まあ、これも探偵の宿命ってやつか?
楼主たちから紹介された近くの農家を一通り回った後は、俺はまだ入手できていない食材を求めて、ふらふらと横浜周辺を歩き回るようになった。
まるで、事件の手がかりを探すように、路地裏の匂いを嗅ぎ、店先の品物を眺める。
ある時、治安がいいとはとても言えないような場所を通りかかった。
いわゆる夜鷹や辻君と言われるような人たちがたくさん出そうな場所に夕方通りかかると、やはり出ていた。
薄汚れた路地の奥から、甘ったるい香水と、埃っぽい匂いが混じり合った、この街特有の臭いが漂ってくる。
影の中に佇む彼女たちの姿は、まるで夜の帳に溶け込む亡霊のようだ。
そのうちの一人で、やたらと具合の悪そうな子供、いや、年の頃なら中学生くらいだと思われる女の子が、客を取ろうと俺の服を引っ張った。
その手は熱く、肌は鉛色だ。
熱っぽそうで、明らかに病気持ちだとわかる。
少し前、令和ならコレラならぬコロナを疑うが、インフルかもしれないくらいの具合の悪さだ。
俺は少し少女と話すことにした。
「おい、大丈夫か?お前、熱があるだろ」
俺が問いかけると、少女は震える声で「大丈夫」と答えたが、その目は潤んでいて、すぐにでも倒れそうだった。
俺は、そのまま少女を連れて車を呼び、屋敷まで帰ることにした。
小妓楼からの患者も峠を越えて、今では潜伏期にある娼妓もぽつりぽつりと屋敷を訪ねては来て、治療していくくらいだったこともあり、少女を別室で治療することにした。
少女は、俺に買われたと勘違いして着いてきたのだろう。
屋敷に着くなり、いきなり治療を始められて、逃げようとするところを明日香たちに止められた。
「何をなさるんです!放してください!」
少女の悲鳴が、屋敷に響く。
明日香は、そっと少女の額に手を当て、優しく語りかけた。
「大丈夫よ。先生はあなたを助けたいだけなの。熱があるでしょう?私たちが治してあげるから、ね?」
明日香の落ち着いた声と、慈愛に満ちた眼差しに、少女は戸惑いながらも、何かを察したのか、そのまま治療を受けることにしたようだ。
俺は、まずは卵や牛乳などを飲ませて、体温が上がりすぎるのを冷やすだけの対処療法しかできない。
だが、どうもインフルだったようで、三日で熱は下がり、しばらくはそのまま安静させて様子を見ている。
彼女の細い体は、まるで折れそうな小枝のようだ。
この子が、この先、どんな人生を歩むことになるのか。
俺は、静かに少女の寝顔を見つめる。
この横浜という街の片隅で、俺の物語は、まだ始まったばかりだ。
そして、この少女との出会いが、また新たな展開を呼び起こすことは、この時の俺にはまだ知る由もなかった。
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