玖 ♦ 三歳っ子の予知
この日の午後、バイトを終えて家に帰った智樹は、玄関でふと立ち止まった。
そこには見慣れないハイヒールと、小さな子供用の靴が並んでいる。
――ああ、そうか。
俺はすぐに思い出した。今日は中秋休みの始まりだった。
三連休だから、六つ上の姉が甥っ子を連れて実家に帰ってきているんだ。
受験生には休みなんてないから、塾でバイトしている知佳は今日も遅くまで当番だ。
リビングからは、楽しげな話し声と笑い声が漏れてくる。
靴と声だけで、玄関の空気がふっと柔らかくなるのを感じた。
「……幸子姐?」俺が声を上げると、
すぐにリビングから姉が顔を出した。
「あら、帰ってきたか。おつかれ」――微笑んで軽く手を振ってくる。
「おじちゃん!おかえりー」
小さな足音がぱたぱたと響き、甥の誠が駆け寄ってきた。
あどけない笑顔が眩しい。
「ただいま。誠ちゃん、お久しぶり」
自然と頬が緩み、俺もしゃがみ込んで頭を撫でた。
――玄関いっぱいに広がる、この懐かしい匂い。
姉家族が実家に帰るときだけ味わえる、特別な時間だった。
台湾では旧暦八月十五日の中秋節(中秋の名月)は、旧正月・端午節と並ぶ三大節句のひとつだ。多くの家庭では親戚や友人が集まり、公園や自宅前の道端でバーベキューをしながら月を眺める。この時期は一週間ほど、夜になると街中に香ばしい煙の匂いが漂い、歩くだけで腹が鳴る。
うちの家でも毎年、中秋節には親戚を呼んで、
屋上の空きスペースでバーベキューが定番。
夕飯時に火を起こして、焼きながら月の出を待つ。
食べ終わったら夜空を見上げて中秋を締めくくる。
そんな流れがもうすっかり恒例になっていた。
屋上に出ると、夕焼けはすでに群青に溶け、
赤紫の帯の向こうで一番星が瞬いていた。
広がる空きスペースには、二人乗りのガーデンブランコと
六人掛けの天然石のテーブルとイスがある。
その横にバーベキューコンロを置けば、準備は万端だ。
少し湿り気を帯びた夜風が、炭火の煙と混じって漂ってくる。
石テーブルを囲むように、いつの間にかみんなが集まり、
笑い声を交わしながらそれぞれの日常を語り合う。
テーブルの上には、母と知佳が用意した肉や野菜がずらりと並んでいた。
パックから取り出した肉を焼き網に広げると、
タレの香ばしい匂いが夜風に混じってふわっと広がっていく。
俺や姉の旦那さんが火加減を見ながら、次々に網へと肉を置いていく。
炭に油が落ちるたび「じゅっ」と音がして、香ばしい煙が立ちのぼった。
その匂いが鼻を刺激し、思わず腹が鳴る。
父はというと――台所に立たない人なので、もちろん焼かない。
缶ビールを片手に、ガーデンブランコに腰掛けて、
肉をつまみながら親戚と世間話に興じている。
笑い声と煙が屋上を満たし、コンロの火が夜空に小さな炎を踊らせる。
子どもたちは待ちきれず、皿を手に焼けた肉を狙って集まり、
まだの子たちは端で追いかけっこをして遊んでいた。
誠も走り回り、時折コンロに近づこうとして大人に止められ、
ふてくされた顔でお菓子をかじっている。
その仕草がまた、みんなの笑いを誘っていた。
――そのときだ。
「うおぉぉ!」
「危ない、危ない!」
突然、父の方から騒ぎが上がった。
振り向いたとき、俺や家族の目に飛び込んできたのは――
おじさんのお尻がガーデンブランコの枠にずっぽりはまり込み、
両腕と両脚を宙に突き出している姿だった。
「どうしたん!」
「だ、大丈夫!?」
思わず声が重なった。目の前の父は必死で、皆で助けようと手を伸ばす。
母や姉も慌てて駆け寄り、腕をつかんで必死に引き上げようとする。
空気は一瞬にして騒然となり、あっという間に、場は大混乱に包まれた。
幸い、大きな怪我はなかった。
おじさんは腰をさすりながら、「いやぁ、びっくりした!」と力なく笑ったが、
全員の顔には冷や汗が浮かんでいた。
――そして誰より青ざめていたのは、父だった。
というのも、その席に座ろうとしたのは本来、父自身だったからだ。
「じいちゃん、座っちゃダメ!」
さっきまでいとこたちと遊んでいた誠が、
ぱたぱた急に走り寄ってきて、父の前に立ちはだかった。
三歳の顔には似合わぬほど真剣な表情で、父を止めようとしていた。
「ここダメ!」
「絶対ダメ~!」
数分前、誠はそう言って、小さな体で必死に父を押しのけていた。
仕方なく甥の“許可”を得て右側に腰を下ろした父は、
そのとき「頑固な孫だな」と笑っただけだった。
だが今、目の前でブランコが崩れ落ちた光景を見て、父の血の気は一気に引いた。
そして、事情が分からず首をかしげる家族に向かって、
父は気持ちを整えながら、さっきの出来事を静かに語りはじめた。
楽しい会話が盛り上がり、
雰囲気に乗せられたおじさんが立ち上がり、
父の隣に腰を下ろした――その瞬間。
座面がバリッと裂け、お尻ごと枠に沈み込んだのだという。
「……それで、誠があんなに“座るな”って言ってたんか」
父は青ざめた顔で低くつぶやいた。
場の空気が一瞬で凍りついた。
もし六十代の父があの席に座っていたら、
若いおじさんとは違い、ただでは済まなかっただろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます