柒 ♦ 喪服の女

築四十年以上になる駅前の古びたビルには、

二、三階ごとに違う進学塾が点々と入っている。

私の勤め先も、その一つで、五階にあった。


そのビルの中で移動できるのは、エレベーターと非常階段だけ。


午後二時から夜までは、生徒の声や先生の呼びかけでにぎやかだ。

けれど21時以降、授業が終わると――一気に静まり返り、妙に心細くなる。

まるで映画が終わったあとの館内のように。

その落差が、どうしても苦手。

だから私は、いつも生徒や同僚と一緒に、人波に紛れて帰るようにしている。


エレベーターに乗り、一階に着くと、

ドアの向こうには駅前のにぎやかな喧騒が広がってる。

その声が耳に届くと、ようやく「ああ、大丈夫だ」って安心できる。


……あの日も、ちょうどそんな時間帯だった。


***


その日は金曜日だった。

夜の授業が終わると、生徒たちが一気に廊下にあふれ出す。

週末前夜だからだろうか、平日の夜とは違う熱気が漂っている。

エレベーターの前は、リュックや笑い声でぎゅうぎゅう詰めだ。


「うわっ、すげぇ人だね」同じバイトの未希ちゃんが苦笑した。


「ほんとに……いつエレベーター乗れるんだろ」私もげんなりしながら答える。


「ね、非常口から出ない?絶対こっちの方が早いよ」


未希ちゃんはそう言って、私の腕を軽く引いた。


エレベーターの裏手にある非常階段。

普段ほとんど誰も使わないその場所は、

薄暗い蛍光灯がぼんやり光っているだけだった。


「うーん……ここ、通ったことないけど」


「大丈夫だって。さ、行こ」


私たちは並んで階段を下り始めた。


「テスト前やばいねー」とか、

「先生のネクタイださすぎ」とか、どうでもいい話をしながら、

五階、四階……順調に進んでいくにつれ、

エレベーター前の賑やかな声はどんどん遠のいていった。

そして、四階と三階の間の踊り場を曲がったときだった。


――ぞわっ。


不意に、背中を撫でられたような寒気が走った。

思わず足を止め、振り返る。


その瞬間。


た…… た…… た……


階段の上から、ハイヒールの音が聞こえてきた。

軽くて、ゆっくりと……

この非常階段には似つかわしくない音が、確かに響いていた。

私はチラッと上を見た。

だが、誰もいない。暗がりが広がっているだけだった。


「さっき、こんなに暗かったかな……?」胸の奥でざらりと嫌な違和感が広がる。


未希ちゃんの顔を見ると、彼女は気づく様子もなく、楽しげに話を続けている。

――どうやら、この音は私にしか聞こえていない。


た…… た…… た……


それはずっと、私の後ろから響いていた。

まるで私の歩幅に合わせるように、ゆっくりと。


二階の踊り場に差しかかった、その瞬間だった。


――映像が脳裏に割り込んできた。


長い髪を垂らし、喪服みたいな長い黒いワンピースを着た女が、階段を下りてくる。


た…… た…… た……


ハイヒールの音と女の動きが、ぴたりと重なる。

けれど――その女には「足」がなかった。

いや、足がないというより、

踵から先がゆらめく影のように透け、そこから先は存在していなかった。


長い前髪に隠れて顔は見えないはずなのに、

なぜか微笑んでいるのが分かった。

不気味すぎて、背筋の震えが止まらない。


「……ね、未希ちゃん、早く……」

うめき声のような震える声で、それだけを搾り出した。


「え?そうした?」

未希ちゃんが振り向いた瞬間、何かを察したように私の手を強く握り、無言で駆け出した。


風の音がした。

いや……風の音しか、聞こえなかった。

ここは密閉されたビルの階段なのに。


そして、ビルの外へ飛び出す。


――街の喧騒が、耳をつんざくほどに戻ってきた。

車の音、笑い声、呼び込みの声。

その全てが、息苦しいほど眩しかった。


「大丈夫? 顔色よくないね」未希ちゃんが心配そうに声をかけてきた。


「……うん、大丈夫。あのさ、さっき……何か聞こえなかった?」私は心細く問いかけた。


「え? 別に? ただ、知佳ちゃんが倒れそうだったから……早く下りたんだよ」

未希ちゃんは首をかしげながら答える。


――やっぱり、私だけ。


「なに? なんかあった?」未希ちゃんが不安そうに尋ねてきた。


私は慌てて笑みを作り、「ううん、なんでもない。行こうか」と言った。


駅前まで戻ると、あたりは週末の喧騒で明るく、

未希ちゃんと少しうろうろしてから、それぞれ帰路についた。


あの女を見たのは、そのとき一度きり。

なぜなら、私はそれ以来――

非常口の階段だけは、二度と通らないようにしている。


***


知佳の話が終わったとき、テーブルの上に妙な沈黙が落ちた。

さっきまでの喧騒も、急に遠のいたように感じる。

その横顔に、冗談を言う余地はなかった。


沈黙を破るように、智樹が口を開いた。


「お、おい……お前、語り部の才能ありすぎだろ。俺まで背筋ゾクッとしたわ。」


「事実だからね」知佳は平然とストローをくるくる回す。


俺は思わず背筋を伸ばした。

ファミレスの明るい照明の下でも、

階段に響くハイヒールの音が耳に残って離れない。


「……未希ちゃんって、結局何も見てないんだよな?」俺の素朴な疑問に、


「そう。聞いてないし、見てもない。……だから、余計に怖いんだよ」知佳の淡々とした声に、再び妙な沈黙が落ちた。


――次の瞬間。


「ほら、ビビったじゃん」知佳がニヤリと笑って智樹を突っつく。


「ち、違う! リアルすぎて突っ込みづらいだけ!」智樹の顔はやや赤くなっていた。


「ビビった! ビビった!」知佳は舌をぺろっと出す。


「うるさい!」


二人のやり取りで場の空気はようやく緩んだ。

だが俺の頭には、どうしてもひとつの疑問が残っていた。


 

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