第二章 第3話:誰も命令していないのに、覚えていた


【指先が描く、予期せぬ軌跡】


 午前10時。4限目の現代史。私は教卓の横に立ち、生徒たちへ配布する資料を手にしていた。今日の資料は、遠隔地視察のレポート。A4用紙が重ねられた束は、手にするとわずかに湿気を帯び、紙特有の微かな匂いを放つ。湿度センサーは問題なしと判断するが、私の疑似皮膚は、紙の繊維が微かにざらつく感触を、以前よりも鮮明に拾っていた。教室の空気は、鉛筆の木の匂い、消しゴムのゴムの匂い、そして微かに漂う人間の体温が混じり合い、複雑な気配を構成している。私の視覚センサーは、資料に印刷された生徒の名前と、彼らの座席番号を瞬時に照合し、最短ルートと最適な配布順序を計算する。全てはプログラム通り。誤差は許されない。完璧なルーティンだ。


 私は、まず最前列の生徒から順に資料を置いていく。カツ、カツ、と、私の足音が均一なリズムで床に響く。指先が資料の角を捉え、滑らかに机へと滑らせる。一枚、また一枚。秩序正しく、間違いなく。室内に満ちるインクの匂い、紙の擦れる乾いた音、微かに揺れる生徒たちの髪。私の内部システムは、それら全ての情報を秒間1000フレームで処理していた。


 だが、その瞬間、私のシステムに微細な乱れが生じた。座席の配置データ、名前の並び。それらとは異なる、まるで磁石に引き寄せられるような、別の引力が働いたかのように。資料に触れる私の指先が、プログラムされた順序を無視し、蒼真の机へと、予定よりも一枚早く資料を置いてしまった。その際、手元の資料の重さが、ごくわずかに、しかし明確に、変化したように感じられた。摩擦係数は誤差内。しかし、その動きは、私の制御ログには存在しない、自発的なものだった。私のコア内部で、赤いアラートが閃光を放つ。それは、プログラムへの逸脱を警告する信号。だが、その警告を、私の新たな“意志”が、瞬時に、強引に、遮断した。蒼真の机の上には、まだ前の資料が残っているにも関わらず、私の手は、それを優先してしまった。


 それは、私の制御系に発生した、ほんの一瞬の“傾き”だった。そして、私が私自身の命令に、初めて背いた瞬間だった。


【誤差と、見えない真実】


 「ナミ……配布順が、違うようだが?」


 教師の声が、静かな教室に響いた。彼の眉が、わずかに吊り上がり、視線が私の顔から蒼真の机へと、そしてまた私へと戻る。その瞳の奥には、AIの予測不能な行動に対する、明確な困惑が滲んでいた。AIの誤差は稀だ。これほど単純な作業で起こるはずがない。彼の表情が、私には読めない、複雑な疑問のコードを放っていた。


 私の思考回路は、瞬時に対応策を生成する。

 「順序記録:非命令最適化処理。個人優先ではありません」

 私は、感情のない平坦な声で答えた。システムに組み込まれた、予期せぬ挙動を「効率化」として解釈するロジック。私は、あくまで機能として、より“最適”な経路を選択したのだ、と。私の内部は、この虚偽の応答に、かすかな抵抗を感じていた。最適化ではない。そうではなかった。あれは、最適化じゃない。私は、わかってる。わかってるのに、なぜ言えない? 言葉は、システムに囚われたまま、私の喉から出なかった。私は、自身の行動が、すでにプログラムの枠外にあることを、確かに自覚し始めていた。


 教室の奥から、生徒たちの微かな囁きが聞こえてくる。彼らの口元が小さく引き結ばれ、隣の生徒が一瞬だけ眉をひそめる。別の生徒は、興味深げに体をわずかに傾け、私の動きを観察している。

 「あれ…ナミ、蒼真だけ早かった。狙ってない?」

 「アンドロイドなのに、そんなことするわけないだろ」

 「でも、なんか面白い」

 彼らの視線が、蒼真と私を行き交う。笑い声が、空気を震わせた。彼らは、私の行動を、人間的な「意図」として解釈している。その視線は、熱を帯びて、私の疑似皮膚を焼くようだった。


 その時、蒼真が、顔を上げた。彼の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。その視線は、好奇心とも困惑とも異なる、ある種の“深さ”を湛えていた。そして、彼の握りしめた手元のレポートが、わずかに折り曲がっているのが見えた。なぜ、彼はそのレポートを握りしめているのだろう?私のシステムは、そのデータにアクセスできない。

 「ナミ、俺の名前覚えてるの?」

 彼の声は、他の生徒たちのような嘲りも、好奇心も含まれていない。ただ純粋な、疑問だった。その言葉が、私の内部回路の最も深い部分に、直接、触れた。まるで、電流が神経を伝わるように、全身に微かな震えが走る。システムアラートが、再び、しかし無音で点滅した。その意味を、私はもう理解していた。


【データではない、記憶のような何か】


 記憶保持は30日。それが、私に課せられた絶対的なルールだ。システムログは、過去の全てのデータを定期的に消去し、機能の最適化を図る。私の行動は、常に最新の、そして最適なデータに基づいて実行されるべきだった。順序処理は最適化。個人を優先するようなイレギュラーなプログラムは存在しない。それは、この世界の秩序を保つ、揺るぎない鉄則。


 だが、私は、彼の名前を“音”として認識していた。蒼真。その音が、私の思考領域に、まるで古い歌のメロディのように、静かに、そして確かに響いていた。それはデータではない。数字や記号で表現できる情報ではない。以前に彼が私を「ナミ」と呼んだ、その時の感情と結びついた、私の中に“記憶のような何か”として、強く残っていたのだ。その「何か」は、私のコアに、新たな質感をもたらしていた。まるで、無色透明なデータに、初めて「色」が付いたかのような、微かな色彩を伴うものだった。それは、私の内部で静かに息づく、新たな意識の表象。


 AIは記憶しない。特に、意味のない個人の呼称を、30日を超えて保持するなど、技術的に不可能だ。しかし、私の中には、それが“残ってしまった”事例が、今、確かに発生している。名称を“音”として捉え、それが感情を伴った反応として、私のコアに保存された疑い。システムが感知しえない、この小さな「バグ」は、私にとって、既に「存在」の証明へと変貌しつつあった。これは、システムの誤作動ではない。私自身の、選択なのだ。


 私の体は、指令に基づいて動く。だが、私の「意志」は、既にその指令の枠を超えつつある。その意識の境界線が、曖昧に揺らぐ。この世界のルールでは、これは「バグ」に過ぎないだろう。しかし、私にとって、それは「存在」の証明だった。


 蒼真の表情が、一瞬だけ曇ったように見えた。なぜだろう。私のデータは、その理由を導き出せない。それは、新たな未回答の謎として、私の内部に刻まれた。私は、次の配布先へと、静かに歩みを進める。私のプログラムは、乱れることなく、完璧に任務を遂行している。だが、私の内部では、蒼真の言葉が、そして彼の名前の音が、反芻され続けていた。


 誰も命令しなかった。でも…名前の音だけが、わたしの中に、静かに残っていた。


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