53. 犬になって

「随分と早いのね。はあ……ネルド、本当に役立たず」

「ルーティ。リゼはどこだ」

「随分と必死ね。大事な“妹”なら、この部屋で眠ってるわ。それと――」


 彼女は左手側の扉を指さし、淡々と言った。


「とっても大切な、マリア様も一緒よ」


「そうか。なら、そこをどいてくれ」

「教えてもらって、ありがとうのひとつも言えないの? 自分にとって大事なもの以外は、本当にどうでもいいのね」


「……ありがとう」


 棘のある言葉だが一理ある。

 礼を言って、扉の前へ立った。


「開かないよ。ロックしてあるから」


「なら、こじ開ける」


 ギアに力を込める。

 その様子を見て、ルーティの口元がふっと緩んだ。

 余裕の笑みだ。


「無理やり開けたら、部屋ごと爆発する仕掛けになってるけど。試してみる?」


 なんでそんな物騒な仕掛けがあるんだよ。

 でも、もし本当なら厄介だ。


「解除できないのか?」

「もちろん、できるわ」

 

「そうか、なら頼むよ」

「嫌」


 思わず彼女の顔を見る。

 ルーティは不満げに、冷え切った瞳でこちらを見返していた。


「さっきから上から目線。自分の立場が分かっていないみたいね。私がここで助けを呼べば、不審者のあなたは終わりよ?」

「……お願い、します」


 深々と頭を下げた。

 これで聞いてもらえるなら安いものだ。


「……嫌」

「えっ」


「前にも言ったでしょ。この女が嫌いなの。リゼには何の感情もないけど」


「どうして……どうしてそこまでマリアを敵視するんだ!?」


「理由? 単純よ。ただの嫉妬。それだけ」

「嫉妬……?」

「そう。だって、この世界は残酷なんだもの。どれだけ努力しても、才能には敵わない。後からやって来たあいつが、あっという間に評価されてのし上がっていく」


 彼女の声は笑っているようで、微かに震えていた。


「キラキラして、みんなから慕われて……それを見て思ったの。“ああ、どうあがいても私は底辺にいるしかないんだ”って」

「完全な逆恨みじゃないか。そんなことで……」


「そんなこと!?」

 

 怒声が地下に響く。

 

「親に捨てられて、ひとりで生きていくって決めて、必死にしがみついて……それでも誰からも必要とされない気持ちが、あなたなんかにわかる!?」


 押し殺した涙が混じったような、悲痛な叫びだった。


「……似てると思ったの。初めて会った時、あなたも私と同じ匂いがするって」

「ルーティ……」

「でも、違った。あなたも所詮、明かりに集まる羽虫の1匹に過ぎなかった」


 ――そうか。同じなんだ。

 生まれや格差、世界の構造に絶望して、自分を“底辺”だと決めつけていた、少し前の俺と。


 この子にも必要なんだ。

 今の俺がそうであるように、必要としてくれる誰かが。


「……扉、開けてほしい?」

「お願いします!」


 彼女の問いに、再び深く頭を下げた。

 聞いてもらえるなら、プライドなんていくらでも捨ててやる。


「じゃあ――」


 彼女の口元がゆっくりと歪む。

 その笑みは、愉悦と支配が入り混じったようなものだった。


「犬になって」

「……え?」

「私の言うことを、何でも聞くの。絶対に裏切らない、忠実な犬に。それが条件」


 静寂に、ルーティの声が冷たく響いた。


「……わかった。それでふたりを助けられるのなら」

「いい子ね。でも、本気かどうか確かめさせて」

「どうすればいい?」


 彼女の表情がふっと柔らかくなる。

 初めて出会ったときの、あの無邪気な笑みを思い出した。


「『愛してる。絶対に離さない』って言って、私を抱きしめてくれますか?」


 ……できない。


 抱きしめて、愛をささやくだけ。

 簡単なことだ。痛くも痒くもない。

 むしろ、ご褒美のようなことのはずなのに、どうしても体が動かなかった。


「……ごめん。それはできない」

「はあ!? たった今なんでもするって言ったじゃない! 嘘つき!」


「ごめん。でも、それだけはできない」

「嘘でも演技でもできないって……そんなに、マリアがいいの!?」


 叫ぶような声。

 その瞳には、怒りよりも、傷ついた子どものような寂しさが滲んでいた。


「マリアは関係ない」

「嘘よ!」


「本当だ。だって俺、フラれてるし」

「……え?」


「そりゃ、最初はいいなって思ったさ。性格はちょっとアレだけど。でも、あいつには別に好きな男がいる。見てくれだけはいい、どうしようもない馬鹿野郎がな」


「それに、前にも言ったけど……俺はそのうち、みんなとは会えなくなる。だから、恋愛とか、そういうのは考えないようにしてた」


「だったら、どうして私に構ったの!? どうせ、大事にするまでもない手頃な女だからでしょ!?」

「……否定はしない。ごめん」


「……っ!」


「でも、楽しかったんだ。君といるのが。結果的に君を傷つけた。……本当に、悪かった」


 全部、本音だった。

 そして気づいた。

 俺が傷つけたのはマリアだけじゃない。

 彼女ルーティも同じだ。


「……もういい」


 ルーティは小さく俯き、呟いた。

 声は震えていなかった。

 むしろ、凍えるほどに冷たく澄んでいた。


「随分と上から目線ね。弄ばれてたのはそっち。勘違いしないで」


 そう言うと、彼女はつ、と足先をこちらへ向けた。


「舐めなさい。跪いて、私の靴を」

「えっ……」


 あまりに唐突な命令に、思考が止まる。

 その顔には、怒りも悲しみもなく――ただ、壊れたような笑みだけが浮かんでいた。


「もう、情愛は求めない。忠誠だけでいい。……ふたりが大切なら、できるでしょ?」


「それくらいなら、いくらでもやるよ」


「……そう。なら、見せて」


 靴くらい、いくらでも舐めてやる。

 跪き、顔を近づけた――その瞬間。


 ガンッ! と扉の向こうから激しい音がした。


「開けなさい!」


 ドア越しに響くマリアの怒声。


「そ、そんな……もう意識が戻ったの!?」


 ルーティがわずかに怯え、声を震わせた。


「痴話喧嘩がうるさいのよ!」

 

 鋭い罵声が続く。

 

「くだらない話を延々と聞かされる身にもなってよね」

 

「くだらない……ですって?」


 ルーティの体がびくりと震えた。

 怒気が空気を震わせる。


「ええ、くだらないわ」

 

 マリアの声は冷たく、挑発的だった。

 

「『犬になって』? 笑わせないで。そんなの、ペットにしてどうするつもり? それに、人質を盾に言うことを聞かせようだなんて、自分に魅力がありませんって宣言してるようなものよ」


「なっ……!」


「そんなんだから、いつまでも下っ端なのよ」


 ……結構ひどい。というか、さりげなく俺のこともディスってないか?


「アンタに何がわかるっていうの! みんなからチヤホヤされて、カリナ様からも認められて……ずるい!」


「ずるい? 何言ってんの。まず、私の方が可愛い。そのうえ努力もしてる。当然の差じゃない。あんたは何かした? 人に媚び売って、下品な輩とつるんで、ヨイショされて満足してただけでしょ」


「ひどい……やっぱり嫌い。許せない……!」


 ルーティの目が潤んでいた。


「その言葉、そのまま返すわ。あの時のこと、許さないから」


 女同士の舌戦に、俺は完全に蚊帳の外だ。

 このまま放っておいたら、どっちかが爆発する。

 どうしたものかと考えていた、その時。


「あなたたち、こんなところで何をしているのです」


 気高く澄んだ声が通路に響いた。


 振り向くと、そこに立っていたのは――カリナさん。

 第一聖女の威厳をまとい、俺たちを見下ろしていた。


 どうやら……助かった、のか?

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