16.1945年(春和元年)8月 南シナ海

 伏せられた長い睫毛は、まだ涙で濡れたままのような気がした━━。


 泣き疲れて眠った睦子ちかこの手をマコトが握ったまま一時間ほど経過した。


 ━━悪い、睦子。


 そう思いながら、マコトはそっと手を離す。


 理由はただ一つ、人間である以上逃れられない生理現象の限界であった。

 それさえなければ朝まで、手を握っていても構わなかったかも……と思い、いや、それは肩や腰が痛むな、と思い直した。

 船室に他の者が立ち入らないように、外から鍵をかけて、かわやへ向かう。


 ━━『ちかこ』と呼んだのは、女帝として帝国の敗戦の責任を一人で背負い込むつもりだった彼女を、ただの女の子のように名前を呼んで、使い捨ての女帝の運命から引き剥がしたかったから。


 引き剥がせたかは微妙なところだが、それでも。


 そして、不敬に当たるから、おいそれとは声に出しては呼べないけれど、心の中で呼ぶのは自由だろう、とマコトは思った。


 ━━せめて、自分だけは。


 同情と憐憫と共感━━身分も立場も違うが、異質なものとして扱われる辛さは理解できるから。


 マコトは厠から出て、煙草を吸おうと、甲板へ向かう。

 ディーゼルエンジンのけたたましい音が鳴る甲板の、どうにか雑談が出来る程度の騒音で済む位置が喫煙所になっていた。

 

「おー、陛下をお泣かせするとは色男になったな、お前」


 先客がいた。

 藤木と小坂は並んで、紫煙をくゆらせていた。


「藤木中佐、船室の壁が薄いから、全部聞こえていたと思いますけど、陛下を泣かせたのは俺だけではありません。彼女を女帝に祭り上げて、この戦争の責任を負わせようとした者、全員です」

 

 どうせ、聞き耳を立てていたのだろうと、マコトは藤木を睨む。

 藤木は、おやおやと頭を搔く。

 だが、思わぬところから牽制が飛んできた。


「いや、壁板の隙間から全部見てましたけど、中尉はやっぱり外国育ちなんですね……手の甲に接吻キスなんて、あんなキザなことする人だったとは、意外です」


 無表情で煙を吐き出しながら小坂が言った。

 ちなみに中尉とはマコトの陸軍での階級だ。


「小坂軍曹? え? 見てたって?」


 いつも物静かな小坂の牽制に、マコトは動揺する。


「あー、小坂、こいつは根暗だけど、男前だからそのぐらいはやるときゃやるんだよ」

「藤木中佐、まぜっ返すのはやめてください。ちょっと待って、いつから、どこまで見てたんですか? なんで小坂さんが?」


 すると、ヒッヒッヒと藤木が笑う。


「あー、俺が一応、お前が陛下に不埒なことしねえか見張っとけって言ったんだよ」

「中佐? するわけないでしょ! 相手は陛下ですよ。……ていうか、小坂さん、全部見てたんですか?」

「ええ、抱擁も。一時間ほど手を握ったままだったのも。青春ですね、甘酸っぱいです」

「うわあ……」


 マコトは頭を抱える。

 聞き耳を立てられていたのと、見られていたのとでは、同じようで恥ずかしさの質が違う。


「お願いです。小坂さん。これ以上言わないでください」

 

 マコトが両手で血が集まる顔を覆いながら言う。


「相わかった」


 寡黙な男は紫煙を吐いて、沈黙してくれた。


「いや、陛下相手に十分不埒じゃねえかよ」


 だが、このクソ親父、いや、藤木はニヤけながら、ふーっと紫煙を吐き出す。

 

「不埒じゃありませんよ。泣いてる女性に対しての紳士の対応です」


 断じて邪な気持ちで抱きしめたわけではない、たぶん、とマコトは即座に反撃する。


「お前、外国育ちだけど香港だし、ガキのときまでじゃねえか。紳士ってガラでもねぇし、わざわざ抱きしめなくてもよかっただろう。ただの役得だろ?」

「ち・が・い・ま・す!」


 確かにそうだが、そこは強めに否定しておく。

 確かに帝国での生活のほうが長いので、普段なら女性には触れない。

 挨拶のように軽い感じで、抱擁なんかしない。

 でも、役得などという邪なものではない。

 たぶん。


 ━━触れなければ、あのまま壊れてしまいそうな気がしたんだ。


 女帝には本来、誰も触れてはいけない。

 でも、その深い孤独を受け止めるには、ああするしかなかった、気がする。


「まあまあ、カッカ怒んなよ。煙草一本やるから陛下のこと、どう思ってんのか正直に教えろよ?」

「どうせ、シケモクでしょ。いりませんよ」


 ニヤケ顔の藤木の差し出した煙草を断り、自分の煙草をポケットから出して、咥え、マッチを擦って火をつける。

 夜の海に向かって、煙を吐き出す。

 海と月が煙でゆらゆらと白く霞む。


「陛下がお望みになるのなら、手を出すな、とまでは言わんが立場はわきまえとけよ。女帝相手の場合、その先がないからちゃんと自重しとけ」


 不意に藤木が真面目な調子で言った。


 マコトは軽く、灰青色の目を見開く。

 

 睦子が以前言った。


『未婚の女帝は男系で継承される皇統に混乱を生じさせないために生涯独身が我が国の伝統だけど、それを変える勇気があるの? それなら、どうぞ』


 あれは、挑発に対する挑発で、その気はなかっただろうが、言っていた内容は、彼女に課された古い掟だ。


 ━━極東の島国の女帝は結婚も出産も許されない。


 もっとも、本来ならマコトは睦子に直答じきとうすら許されない身分だ。


 彼女に恋をしたら、それは悲恋にしかなり得ない。


「わかっていますよ」


 それがわからないほど、マコトは初心うぶでも愚かでもない。


「あとこれ、牧原侍従長から預かった亡命用資金だ」


 革袋を三つ、藤木はマコトに手渡す。


「お前のここまでにかかった経費はそこから出していい。後はちゃんと管理しろよ……ってお前は細けえし、真面目だから大丈夫だろうが」


 中身は米ドル札と英ポンド札、英ポンド金貨銀貨、指輪などの換金性の高い宝飾品、金塊。


「……大金ですね」

「女帝のお手元金だ。これでも少ないぐらいだ。必要経費を考えたら、そこまで余裕はないぞ」

「ああ、確かにイスタンブールまで、安全を金で買うことも考えれば、妥当な金額ではありますね」


 イスタンブールまでは、長旅になる。

 上海から香港までのような無茶な旅を、これ以上、強いるわけにはいかない。

 睦子は丈夫なほうだが、それでも長期にわたって劣悪な環境に耐えられるようには出来ていないだろう。

 健康を害することは避けたい。


「女帝と金をイスタンブールまで任せられる奴が、お前しかいねえんだ。気張っていけよ」


 バンッと、力強く肩を叩く藤木に、


「痛いですってば」


 とマコトは言ってから、目を伏せる。


「信用していただいて、ありがとうございます」


 面倒だが、決して悪い気はしない。

 それに、これは『不二組』での最後の任務になる。

 まだ決まったわけではないが、敗戦で軍は再編、ないしは解散となる。

 特務機関は軍以上に敗戦国には必要のない、邪魔な機関だ。

 このまま消滅となるだろう。


「で、お前、イスタンブールからその先はどうするか決めてるか?」


 藤木は冷徹な諜報員のくせに、部下のことを家族のように心配する。

 だから、無茶な任務も何だかんだ文句を言いながらも引き受けてしまう。

 人心掌握術の一環だろうが、それに騙されるのも悪くないのだ。


 そして、その先のことを━━少しだけ考えてからマコトは答えた。


「……女帝の亡命に加担した以上、連合国に占領された本土に戻るわけにもいきませんから、通訳として雇ってもらえたら御の字、血反吐を吐く思いで覚えた語学を生かして欧州のどこかで暮らしますよ」


 藤木は少しだけ心配したように、小さく息を吐いてから言う。


「そうか」

「藤木中佐は、どうなさるおつもりで?」


 マコトが聞くと、藤木は顔をしかめる。


「パレンバンの後は、なんとか一回本土に戻って、後始末だ。それから連合国に捕まって、証拠不十分で釈放を勝ち取って、身綺麗にしてから再出発だ。あー、もうこっちはいい歳だってえのに!」


 心底嫌そうに叫ぶ。


「原田さんたちは、あのまま現地解散、でしたっけ?」

 

 マコトが原田たちについて確認すると、藤木は暗い海の向こう側の何か遥か遠くにあるものを見る目をした。

 その目の奥にあるものは諦念、とマコトは感じ取った。


「あいつらは余罪が多すぎるから、到底本土には帰れねえよ。原田の二つ名なんて『不二組の爆殺魔』だぜ。戦時下じゃなきゃ、ただの凶悪犯なんだよ」

「……ですね」


 マコトは同意して頭に巻いた包帯に触れる。


「東亞ホテルのアレ、絶対、火力間違えてましたね」


 あんなに派手にガラスが割れるとは聞いていない、予想はしていたが。


 マコトも諦念を込めて、盛大にため息をついた。


「で、小坂、お前はどうするんだ?」


 藤木は、小坂にもこれからのことを聞いた。

 先程から律儀に沈黙を守って、紫煙をくゆらせていた男は、一拍遅れてから、こう言った。


「妻子が待っている本土に帰ります。復員して、人足にんそくでもして、少し金が貯まれば何か商売でも、と考えています」


 小坂は主に藤木の警護や連絡係をしていたので、マコトや原田のように、連合国に戦犯で逮捕される余罪がない。


 なのでこの発言は、当たり前のことを、当たり前に言っただけである。


 だが、マコトは猛烈に嫌な予感がした。

 それは藤木も同じだったようで、二人同時に、こう言った。


「死にそうなこと言うのはやめましょう」

「死ぬなよ、小坂」




 こうして、8月の終わり、スマトラ島パレンバンへ一行は到着し、特務機関『不二組』は解散となった。


 彼らの戦争は、実質ここで終わった。


 ━━だが。


「手を『ハル』」

「ええ」


 マコトが差し出した手に睦子の手が重なる。


 マコトは睦子をエスコートして、英国客船改造型輸送船『メアリー・オブ・インディア』号に乗り込む。


 香港生まれの英国人貿易商マシュー・エヴァンスとその華僑の妻として。




 亡命女帝と混血諜報員の逃避行と戦いは、ここから、また、始まる━━。


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