12.1945年(春和元年)8月15日 香港
レース襟の白いブラウス、サマーウールの紺色のフレアスカート。
古い型のものだけど、当時は出していたであろうブラウスの裾をスカートのウエストに入れれば、今風にも着られる。
赤い革表紙の辞書を、サイドテーブルに置いたまま、私は客間から出た。
━━1945年(春和元年)8月15日、正午。
太陽はまだ南中せず東に傾いている。
本土より随分西の香港で、帝都と同じ標準時を適用しているから、夜明けが遅くて日暮れも遅い。
応接間のラジオは雑音だらけな上に蝉時雨が重なり、ちっとも聞き取れない。
流れる内容は、私の知らないところで私の名前で発布された終戦の
代読しているのは、私の叔父様であり摂政である
ああ、世界は、国家は、戦争というものは、なんでこんなに馬鹿馬鹿しいのだろう。
少しだけ聞き取れた内容にうんざりする。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。
これからも皆さん耐え忍んでください、だなんて。
馬鹿にしてる。
こんなの、私も民も馬鹿にしている。
学友の父が戦地で死んだ
女官の兄が戦地で死んだ。
父帝が暗殺の疑いを残す形で崩御した。
帝都が空襲で燃え、十万人も死んだ。
私を上海に送るために多くの艦船が沈んだ。
これは私の主観的な出来事に過ぎない。
帝国全体で見れば、一億人分の一億通りの失くしたものがあるに違いなくて。
たくさんたくさん人やモノが奪い奪われ失われたのに。
それを、こんなにあっけなく『終わり』だなんて。
身の内に怒りが渦巻いている間に、ラジオ放送が終わった。
私は我に返って顔を上げた。
これから、さて、どうなるかしら?
「陛下、動かないでください」
向けられた銃口。
冷たい声。
なのに、今にも泣き出しそうな目をしている、マコト。
━━ああ、やっぱり、あなたはそちら側だったのね。
あなたに助けられたときに、牧原侍従長や綾小路が見た『亡命』という夢は潰えていたのね。
拳銃の引き金に、指は掛かっていない。
ひょっとすると、銃弾も入っていないのかもしれない。
殺す気はない。
マコトの所属する派閥、香港の陸軍は『女帝を生かして使う』ことを、望んでいるのね。
「……俺にも捕虜虐待等のジュネーブ条約違反があります」
それは、そうでしょうね。
あなたの仕事は、綺麗な手のままではいられないでしょう。
「命令なく自発的に行ったこともあります。降伏要求の宣言、第十項に明記されている戦争犯罪人の処罰……罪に問われる可能性が俺にもあるんです。だから、香港占領地総督部と英国海軍の密約、その命に従い、あなたを英軍経由で連合国へ引き渡します。我々の罪が少しでも軽くなるように、無事に故郷へ戻れるように……協力してください」
らしくない、小悪党みたいな、卑怯な命乞いの口上。
あなたの故郷はどこなのかしら?
でも、もうそれを聞くのも無粋ね。
だって、きっと、あなたにも守るものがあるから、こんな卑怯な言葉を紡ぐんでしょう?
あなたにこんな卑怯なことを言われたら、私の怖気づいた気持ちは、投げ捨てるしかないじゃない。
「銃を下ろしなさい。私は逃げないわ」
泣き出しそうな灰青の瞳をまっすぐ見つめる。
それから視線を外して、あたりを見渡す。
慌ただしい軍靴の足音がして、武装した香港防衛隊の兵士たちが私を取り囲む。
私は立ち上がり、お腹から声を張り上げる。
「今日まで我が帝国軍は勇敢に戦い抜きました!
帝として、すべての将兵と英霊に!
心から敬意と感謝を表します!
諸君の戦いは、まさしく大義でありました!
この先の責任を負うのは私の役目です!
さあ、連れていきなさい!」
私は先帝照和帝第一皇女、今上帝
決して無様な姿は見せはしない。
背筋をピンと伸ばして、前を見つめる。
先導を待たずに、前へ歩き出す。
人垣が私を通すために、割れた。
応接間を出るとき、一度だけ振り返った。
━━どうか、あなたの『戦後』が良いものでありますように、祈りを込めて。
私はマコトに微笑んだ。
泣き笑いみたいになってしまったけれど。
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