第38話

「お前が行くかとおもった」

「あん?」

 文遠が甲をつけ、闇夜に紛れて公明のところに立った翌日貌利に言われ、筆の墨を硯で落としながら子賁が舌打ちをした。

 貌利は傍らで武器を手入れしている。己のものだけでなく、子賁や文遠の武器の手入れは最近文遠の役割になっていた。

「それこそ当てつけになるだろう。面倒なことはご免だよ」

 ふむ?と考えた後で納得したように貌利がうなずいた。すでに子賁が文遠の校尉になってしばらくたつ。文遠が子賁の育ての親であることも、大層子賁を大事にしているのもすでに周知の事実だった。そんな子賁を同じような立場の者を無くしかけている公明に差し向けるのはいかにも当てつけがましい。そう思われるだけならまだしも、不安定な公明が子賁を傷つけようものなら文遠がどんな反応を示すかわかったものではない。

 そうなればまさに面倒事だ。

「あとは…さすがに公明殿も私的な交流も多少は持った方がいいと思ってな」

 余計なお世話かもしれんが、といいながら竹簡に文字を書き連ねる。

 貌利が深くうなずいた。

「確かに。いくら家族同然でもあれでは叔知の息が詰まる」

「それだけじゃないんだけど」

「うむ?」

 筆先を隅に浸しながら言う子賁に、誤字で汚れた竹簡を削る手を止めて貌利が聞き返した。

「あのガタイ凶悪組、慎み深いとみられているからいいけど、見方を変えれば究極の人間不信だろ。確かに公明殿のあの姿勢はもめ事には巻き込まれにくいが、いつまでも味方がいないのはさすがにな。これは文遠も同じ」

 いつか困ることになる、という子賁の意見は確かにその通りだった。

 とはいえ、まさか自分の将、しかもマールスにも劣らぬ武威の男に副将になってみたら、と進言してのける頭の構造はどうなっているのだろうか。

 それを聞いた方も聞いた方だ。のそのそ甲をつけて本当に人の隊に副将としてついていったというのだから。

 この話を聞いたとき、貌利は爆笑した。正直四半刻ほど笑いが止まらず、腹が痛くて今日の教練もうまく動けなかったぐらいだ。

 こんな主従、羅馬にいたころも聞いたことがない。

 だから面白いのだ。

 今もにやにや笑いが止まらず困っているぐらいだった。

 一方のんびりした顔でうん、と子賁が伸びをする。

「もう一つは俺の羽伸ばしだ。朝晩分かたず文遠の面倒見ているんだぞ。休みが欲しい」

「本音はそれか」

「あいつら二人とも少しは子離れってものを学ぶべきじゃないかね。苦労が絶えんよ」

 深いため息に貌利は苦笑いをした。

 お前こそ甘やかし放題で親離れできていないのでは、と口にしたら恐らく子賁の手元の硯が飛んでくるだろう。貌利はにやにやと笑いながら砂金を刷いたような無精髭を指で掻いて、そのまま黙った。


「子簾将軍の命で副将を務めます。聶遠と申します」

 眼の前で甲を外して拝跪する男に、公明は子簾とまったく同じ顔をして見せた。

 看病疲れと精神的衝撃ゆえだろう、隈の強く浮き出た顔で唖然とする公明に、まぁそうなるだろうな、と文遠は内心独りごちた。

「文遠」

「聶遠です」

 しれっと訂正する文遠に、公明は髻さえ結んでいない己の頭をぐしゃぐしゃと掻きまわした。混乱でイラついているらしい。

 その後におもむろに目頭を指でもみだした。

「文遠、俺は今日諧謔に付き合う余裕は持ち合わせていない」

「ふざけて等おりません。子簾殿の御命令で今日から叔知殿の代理として所属いたします」

 隊を分捕りに来たわけでないことは明言しないといけない。このあたり文遠は自分の立場と存在の性質を理解している。

 文遠がその気になれば、たいていの軍は乗っ取れてしまう。

 公明の指が止まる。

「…どういうことだ」

 ようやく丸座を文遠に勧めてから、公明が聞く。

 そこで文遠は子簾から聞いた懸念点と希望をそのまま伝えた。

 論功行賞に困る、という一言で深く公明がため息をつく。

「そうか、もう勝利が見えている以上、もはやその後の事を考えねばならないのだな」

「はい。勝利こそ見えましたが、まだ袁家は滅びておらず、鄴さえ落ちておりません。今後は年単位の軍旅が催されるでしょう。となれば論功行賞で士気をあげることは必須となりますゆえ」

 いかにも副将らしく、丁寧な口調で文遠は言う。

 文遠も公明が賞されたいと思っているわけではないのはわかっている。むしろそんなものを放っても叔知のもとにとどまりたいだろう。だが、どのような理由であれ公明ほどの功があっても気持ちよく賞されないとなると、他の将に対して示しがつかない。

 少数勢力である曹軍は、こういうところで落としを出せない泣き所がある。

 そしてそれは公明にも十分に伝わったようだった。

 文遠の言葉にしばらく沈思した後に、おもむろに公明が口を開いた。

「貴殿ほどの人物に副将をさせるのは面はゆい。貴殿は自隊に戻られよ」

 文遠は静かな男だが、あの武威で名高い呂軍でひとかどの将と見られていたのである。気位が相当高い。

 それに対し、緩やかに文遠は首を振った。

「いえ、同行させていただきます。無事に論功行賞まで貴方様を支えるのが私の役目です」

 密かに公明の顔色をうかがいながら文遠が押す。文遠とのやり取りの中でかなり気持ちが落ち着いてきたようだが、あとは論功行賞が終わるまで叔知の生死を隠し通す必要があるからだ。結果がどうであれ、一喜一憂することは到底いい影響を与えるとは思えない。

 徐公明には当然ながら麾下が多くいる。彼らのことを考えねばならないからこそかろうじて冷静さを取り戻せているのである。戦闘中はぬかることはないだろうが、万が一を考えると誰かが公明を正気に引き戻す役割を担うべきだろう。

 ふと文遠が口元を緩める。

「徐公明殿の軍は精鋭ぞろいです。その中で叔知が中核を担っていたということは、時間の中で積み重ねた信頼関係がなせた仕事でしょう。それはすぐには埋められるものではない」

 暗に自分はあくまでも代わりであり、叔知が必ず戻ることを示唆する。

 信頼までいかなくても、この非常時に時間なしで信用に至れるのは結局威と武力だ。だからこそ、自分なのだと。

 暴といわれる軍に身を置いたことがあるからこそ、文遠は時間の貴重さも、その代わりになるものが何かもよくわかっていた。

「なにも見返りがなくてもいいのか」

 公明の言葉ににやりと文遠が笑った。

 『副将をやってみたらどうだ』

 付言なしで子賁がいうのであれば、楽しんで来いということだろう。

 少なくとも文遠は今の状態を楽しんでいた。

「かまいません。気分転換だと思っております」

 話しているうちに気持ちが立ち直ってきたのだろう。

 公明が立ち上がる。

「遠、供をせよ。今一人華北の将を打たねばならん」

「はっ」


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