第15話
楊異は貌利と丹香を連れてきていた。丹香は別れた後にすぐに楊家に戻らなかったのだろう。子賁の指示に従い、将軍府の騒ぎの際にすべてを見聞きしたうえで楊家に戻り、楊異に話したのだ。このあたり丹香は非常に気が利く。
子賁を見ると、楊異は泣きそうな顔で拝礼した。
「子賁様…ご無事でようございました」
「楊氏、結局かようなことになってしまった。申し訳ない」
そういうと、激しく楊異は首を横に振った。
「いえ、いえ…。楊異はひどく大事なことを忘れておりました。それを丹香に怒られたのです」
「何」
思わぬ言葉に、後ろに座る丹香に目をやるときりりと太い眉を上げたまま口を開いた。
「どんなに自由でも、子賁は自分を育てた人間を忘れられるわけない」
この言葉は丹香だからこそ言えるセリフだろう。丹香はガリアから兄とともにローマ軍の捕虜となり、後に剣闘士養成所の下働きをしていた。亡き兄は剣闘士として当時ボレアスと名乗っていたブリタニア人の貌利に殺されたのである。
亡き兄に様々に教えられながら育てられ、命がけで逃がしてもらった少女である。己を愛し育てた人間の手の大きさをよく知っている。
それに、深く楊異がうなずいた。
「この手に育てられたとおっしゃったと…一番大事なそれに楊異は全く気付いておりませんでした。貴方様にとって己も自由も将軍からいただいたものであるならば、将軍にお返しになる…そうおっしゃられましたら異は何も言うことはございません」
そしてほっと息をついた。ふと目容が柔らかくなる。
「私にも息子がおりました。幼くして亡くなりましたが…生きていればあなた様ぐらいの年齢です」
初めて聞いたその事実に、子賁はどうして楊異が自分を命がけで亀茲から連れ出したのかを初めてうかがうことができた。
容姿が全く違うとはいえ、息子の面影を追っていたのだろう。そう考えると他人の自分に対する楊異の必死さにも得心が行く。
「ただ、貴方様に幸せになってほしい…楊異の願いはそれだけです」
その言葉に、文遠も静かな目で楊異を見ていた。
子賁は穏やかに言う。
「文遠は親代わりですが、貴方は命を救ってくださった、命の恩人です。楊氏の望んだ形に返すことはできなくなりましたが、その分お返しは必ず差し上げたい」
「白氏」
その言葉に、楊異は落涙する。
「楊氏」
穏やかに文遠が口を開く。
「楊氏の言葉、大層耳に痛かったぞ。…だが、その親の心は死ぬまで忘れん」
「将軍…すっかり生き返られましたな。この家に向かう最中から気に灼かれそうでした」
楊異もさすがに剣を握ったことのある者である。文遠の気配が変わったことにすぐに気づいたらしい。
文遠が苦笑した。
「菲才とは困ったものだな。忘れていたが…子賁にも、お前にも、多くの者に生かされているのを思い出したのよ。ありがたいことだ」
その言葉に楊異が文遠に向かって激しく一回叩頭した。
「かような商人に…もったいない」
ありがたい。
そしてなんとも激しい男だな。
子賁は感動しつつ感心していた。
本来、字は貴人や士大夫の証でもある。庶民の中には字を持たぬ者も多く、楊異は諱で呼ばれているように庶民の出であった。まさに裸一貫から大店を持つほどの商人になったのである。
そこまで成功した根底には勇気があり肝の座ったところがあるからに他ならない。楊異は若いころは侠を奉じて天下を周遊していた。今のように角が取れ清濁併せ持つようになったのは、年齢を重ねたからであろう。だが人間の根底というのはそうは変わらない。
今も楊異の根にあるのは、――侠が求める激烈な直情である。
ようやく楊異が落ち着いたころに、子賁は楊異に託すことを伝える。
「楊異殿、丹香をお願いできるか」
「子賁、オレを仲間外れか」
不満そうに丹香がいう。それに子賁が首を緩く横に振った。
「そうではない。お前にはしばらく楊家でやってほしいことがある」
「なんだ」
「次の戦いはおそらく北の袁紹だ。楊氏の荷駄を守りつつ、北方の様子を探れ。だが深入りはするな。かならず荷駄と動き、荷駄と一緒に帰れ。どんなに良い情報がありそうでも一人で残るな。帰るたびに何を見聞きしたかを話せ。俺はここにいる」
子賁が動けない状態はしばらく続くだろう。となればその間にできることはやっておいて損はない。それに丹香も本格的にいろいろ学んでいかねばならない年齢である。
「やりがいあるな。分かった。…楊氏、世話になる」
それに納得したように丹香が満足げにうなずいた。楊異もうなずく。
「わかりました。丹香はあずかります」
「貌利もしばらくは丹香と一緒に動け。お前は隠密には向かないが荷駄の守護にはぴったりだ」
「分かった」
「様子を見てお前はこちらに来てもらうことになるだろうが…まずは荷駄を守りつつ騎乗から学べ。追々騎兵になってもらわないといけないからな」
貌利がうなずく。そして子賁の言外の意図を汲んだように、もう一度目を合わせて貌利はうなずいた。
丹香が暴走しても貌利がいればそこまで大事にはなるまい。
貌利には丹香を見守りつつ、騎乗を学んでもらいたかったという意図がある。貌利は剣闘士時代に騎乗をした経験はあるが、こちらの馬の扱いは違うため学びなおす必要がある。生え抜きの文遠隊は騎兵としてはかなり実力があるだろう。いきなり放り込んでも騎射ができねばろくな動きができない。
一通り話し終えたところで、つと楊異が傍らに置いた小箱を差し出した。
「役に立つと思い、お持ちしました」
「これは」
「白氏が西方より持ち帰った没薬と、甘草などの生薬です。今朝第五恭和様より毒消しをお探しという話がございました。お代にもなると思われます」
中を開けると、さらに小箱が数箱入っている。一つずつ箱を開ければ没薬といくつかの生薬の匂いが立ち込めた。いずれも質がいいのは香りでわかる。
「ありがたい。第五先生には薬の入手に楊氏を使うように勧めていいか」
「もちろんです。店には薬種を多数そろえております」
楊氏の交易路ならほとんどの生薬は手に入るだろう。
その会話の最中、文遠は貌利のほうを見ていた。
貌利は床に座り、得物の開扉剣を傍らに置いている。
「貌利、といったか」
穏やかな文遠の声に貌利が顔を上げ、文遠を見た。
「なかなか重そうだな」
「いや、それほどでもない」
そういうのに、「持ってみてもいいか」と文遠が言った。かすかに嘲笑のような色が貌利の口の端に浮かぶ。貌利も大剛で大概の相手より強いと言える人間ではある。
が、貌利、お前忘れてないか。
お前俺に負けたじゃん。その俺の剣の師が文遠だぞ。
やれやれ、と子賁は眉を下げたが、まぁ文遠の実力を知ってもらうにはよい機会なのだろうと思いなおす。そしてそれを文遠も考えているのだろう。
気軽に片手で渡された開扉剣を、いとも簡単に文遠が受け取る。貌利の目が広がった。剣とは言っても幅1尺5寸、長さ6尺もある鉄の板である。
重さは70斤(約17kg)はあるか。
人間業ではない。
そのまま無造作に片手にぶら下げ庭に降りると、文遠が一つの庭石の前にたつ。石と言っても文遠の胸ぐらいの高さのある、小岩の大きさだ。
それに剣を高く振り上げる。開扉剣は剣という名ではあるが、刃の一方は彫刻を施された青銅の板で包まれており、実際は刀の形状になる。
そのいわば峰の側に返して振り上げたのだ。
「まさか」
貌利が小さく呻く。
いくら大剣でも真っ二つに折れることもある。岩を切るとなると、恐るべき膂力と技術が必要だ。
一瞬ゆらりと陽炎のように揺らめいた気が、すぐに炎の燃え上がるように文遠から立ち上る。
次の瞬間、落雷のように剣が振り下ろされた。
天を劈くような、異様な金属音が響く。
一瞬後にゆっくりと小岩が二つに割れ、左右に倒れた。
音のない地響きが発生し、余韻のように空気を震わせる。
「久しぶりに気持ちよく切れた」
剣は折れるどころか日々一つなく、曲がってもいない。
あっさりと言いながら剣を返す文遠を、貌利は剣を受け取ることさえ忘れて茫然と見つめた。
そして震える声で呟いた。
「あなたは人間ではない…戦神だ…マールスの化身だ」
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