第6話 繋がる悪夢

『五日目』


「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」


 身体を起こすと、治験施設の白い天井が視界に広がる。

 呼吸は荒く、全身から冷や汗が噴き出している。


 そして、背中。夢の中でキラーに掴まれた場所だ。

 そこには、赤く、まるで爪痕のような跡がくっきりと残っていた。


 もちろん、実際に傷がついているわけではない。

 だが、皮膚の下がうっすらと赤くなっているのは、夢の中の痛みが、現実の身体にまで影響を及ぼした証拠だった。


「……危なかった」


 アオイは震える声で呟いた。記憶にない場所に逃げ込んだ。

 そして、夢から覚めた。昨日の偶然が、確信に変わりつつあった。


 しかし、同時に、キラーがこれほど明確に、そして現実の身体にまで影響を与えるほどに、強力になっていたことに、アオイは背筋が凍り付くような恐怖を感じた。


 これは、ただの悪夢ではない。

 アオイは、ヘッドギアを乱暴に外した。まだ4日。

 残りの日数を考えると、眩暈がした。



 五日目の朝。アオイは共有スペースで、昨夜の悪夢について話し始めた。


「みんな、昨日どうだった? 俺は、古びた商店街の夢でキラーに追い詰められたんだ。必死で記憶にない場所を探したんだけど、あの町、初めて見たはずなのに、なぜか既視感があって。結局、キラーに追い詰められて、一か八か、店のなかに飛び込んだら目が覚めたんだ」


 アオイの言葉に、ユウキが大きく頷いた。


「わかる! 俺もだよ! 昨日は、昔通ってた小学校の夢だったんだけど、キラーがすげー追いかけてくるんだ。記憶にない場所を探そうとするんだけど、廊下も教室も、全部知ってる場所だから、なかなか見つからなくて焦ったぜ」


 ケンタも疲れた顔で続いた。


「俺もひどかった。なぜか実家の近くの森の夢で、キラーが木々の間からぬめっと現れるんだ。森の中は道がないから、どこへ行けば『記憶にない場所』になるのか、全然分からなくて。結局、キラーにギリギリまで追い詰められて、やっとのことで森を抜けた先にあった家に飛び込んで目が覚めたよ。まじで焦った」


 サクラは、自分の腕の薄い痣を見つめながら呟いた。


「私も……。自分の部屋の夢だったんだけど、壁から黒い手がいくつも伸びてきて、どこにも逃げ場がなくて……。必死で窓から飛び降りて、知らない場所を目指そうとしたんだけど、どこも知っている場所ばかりで……。でも必死に逃げてたら、来たことのない道にたどり着いて目が覚めました」


 彼らの話は、アオイの経験と共通していた。

 覚醒の法則は正しくても、キラーは、被験者の記憶を盾にして、その覚醒を阻もうとしているのだ。


 特に、知りすぎている場所、曖昧な記憶の場所が、キラーの狩場として巧妙に利用されていることが明らかになった。

 アヤカが冷静な口調で分析した。


「やはり、キラーは私たちの記憶を読み取り、私たちにとって『記憶にない場所』への到達を困難にしているようです。特に、忘れ去られているだけで、記憶の奥底に残っている場所は、危険な罠となり得ます」


 カズキは、昨日よりもさらに顔色が悪く、震える手で茶を啜っていた。

 彼の目には、深い恐怖と絶望が宿っている。


「俺は……俺は、昨日もダメだった……。必死で逃げたのに、どこにも行けなくて……」


 彼の身体には、昨日よりもさらに生々しい、複数の痣や擦過傷ができていた。


「カズキさん……」


 アオイは言葉を失った。


 アヤカがカズキに寄り添うように言った。


「大丈夫です、カズキさん。私たちは協力します。次の夜こそ、必ず成功させましょう」


 残された日数は、あと5日。この悪夢は、日々その巧妙さと凶悪さを増している。


『五日目・夜』


 アオイはベッドに横たわり、ヘッドギアを装着した。

 昨日の苦戦が脳裏をよぎる。あの『古びた商店街』は、どこか懐かしく、そして恐ろしい。

 それでも、この法則を乗り越えるには、逃げるしかない。


 次に意識が覚醒した時、アオイは、薄暗く寂れた古びた商店街に立っていた。

 ここは、先日アオイが一人で迷い込み、脱出に苦戦した『忘れ去られた幼い頃の町』だ。


 アスファルトのひび割れ、色褪せた看板、遠くから聞こえるような子供たちの声。

 その全てが、知っているはずのない懐かしさを訴えかけてくる。


「また、ここか……」


 脱出への焦りとは別に、この場所への奇妙な郷愁が胸に広がる。

 ここは、アオイの両親が暮らしていた町なのだろうか。


 事故のショックで失われたという、アオイの幼少期の記憶。

 もしここがその場所なら、キラーに追い詰められながらも、何かを思い出せるかもしれない。

 その時、商店街の奥から、冷たい空気が押し寄せてくる。


「ドスッ……ドスッ……」


 あの足音だ。キラーが迫っている。

 漆黒の巨体、人型のキラーが、ゆらりとその姿を現した。

 アオイは走り出した。記憶にない場所を目指して。

 その時、商店街の片隅から、怯えたような声が聞こえた。


「あ、アオイくん……?」


 振り向くと、そこにいたのはサクラだった。

 彼女もまた、アオイと同じく青ざめた顔で周囲を見回している。


「サクラ……! なんでお前がここに……!?」


 驚きと同時に、アオイの胸にわずかな安堵感が広がった。

 一人ではない。この恐怖を共に味わう仲間がいる。


 サクラが震える声で言った。


「私……私、この町……どこかで見たことがあるような気がします。でも、思い出せない……」


 彼女の言葉に、アオイははっとした。

 サクラも、この町に既視感を感じている?

 まさか、この町が、アオイとサクラ、二人の共通の記憶の場所なのだろうか。


「ドスッ……ドスッ……」


 キラーの重く粘つく足音が、すぐ後ろまで迫っている。


「逃げるぞ、サクラ!」


 アオイはサクラの手を掴み、走り出した。

 彼女の手は、驚くほど冷たかった。

 アオイたちは、記憶の曖昧な商店街を必死で駆け抜けた。


 シャッターが降りた店、ひび割れた歩道、色褪せたポスター。

 どれもこれも、見慣れないはずなのに、どこか引っかかる。

 この町全体が、二人の奥底に眠る記憶を刺激し、純粋な記憶にない場所への到達を阻んでいるかのようだ。


「サクラ! 何か、ここについて覚えてないか? 何でもいい!」


 アオイは叫んだ。キラーに追われながら、焦燥感に駆られながらも、アオイは記憶を取り戻したいと強く願っていた。


 この町が、俺の両親のいた場所ならば、何か手がかりがあるはずだ。

 サクラも必死に周囲を見回す。


「あ、あの……! あそこの時計台! 私、あの時計台の音を、どこかで聞いたことがあるような……」


 サクラが指さした先には、商店街の真ん中に立つ、古めかしい時計台があった。

 その時計の針は、奇妙な時間で止まっている。


 アオイも、言われてみれば、その時計台に覚えがあるような、ないような……脳がひどく混乱する。

 その時計台の根元で、漆黒のキラーが、ゆっくりと巨大な腕を振り上げた。


「ッ!」


 アオイはサクラを庇うように、別の路地へ飛び込んだ。

 しかし、その路地も、見覚えがあるような、ないような、曖昧な光景が続く。

 子供たちが遊んでいたであろう、朽ちたブランコ。その横には、小さな祠が立っている。


「祠……? 私、この祠の隣で、よくお母さんとお花をみていたような……」


 サクラが息を切らしながら呟いた。

 サクラの言葉が、アオイの脳の奥底を刺激した。祠。花。お母さん。

 そこで、アオイの脳裏に、一瞬だけ、微かな光景が閃いた。


 それは、まだ幼いアオイが、その祠の前で、両親と手を繋ぎ、満開の花を見上げている、とても暖かな記憶の断片だった。


「こ……この記憶は……?」


 アオイは、その記憶の断片を必死で掴み取ろうとした。この町は、俺たちの幼い頃の記憶の場所だ。

 ならば、この町のどこかに、俺たちが確実に行ったことのない場所があるはずだ。


 記憶の奥底を必死に漁り、その光景を頭の中で組み合わせていく。

 キラーは、容赦なく追ってくる。その漆黒の巨体が、アオイたちのすぐ後ろに迫っていた。


「くそっ!なにかを思い出せそうなのに」


 アオイは叫んだ。

 サクラも顔を歪めながら、必死に記憶を辿る。


「行ったことのない場所……行ったことのない場所……! あ、あそこ! あそこの商店街の裏路地! あそこだけは、子供の頃、危ないからって、お母さんに行っちゃダメって言われてた場所です!」


 サクラが指さした先は、確かにこれまでアオイの意識の中には全く存在しなかった、薄暗く、ゴミが散乱した細い路地だった。

 こんな場所に、子供が行くはずがない。そして、アオイの記憶にも、この路地の光景は一切ない。


「そこだ!」


 アオイはサクラの手を強く握り、その路地へと飛び込んだ。

 キラーの巨大な手が、あと一歩のところで届かない。

 路地の奥へと進むと、突然、景色が激しいノイズと共に歪み始めた。

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