第4話 漆黒の闇、追跡者
『三日目』
三日目の朝も、アオイは寝不足で重い体を起こした。 昨夜の物置小屋での出来事が、まだ脳裏に焼き付いている。
あの黒い『染み』の不気味さは、現実で味わうどんな恐怖よりも生々しかった。
朝食も喉を通らず、食欲は湧かない。
午前中、共有スペースへ向かうと、すでにユウキとケンタがソファに座っていた。
二人とも、アオイと同じように顔色が優れない。
目の下に薄いクマができているのは、寝不足の証拠だろう。
「よお、アオイ。今日も悪い夢見たか?」
ユウキが気だるそうに声をかけてきた。
「ああ。お前らも見たのか?」
アオイが尋ねると、ユウキが重いため息をついた。
「ああ。今度はさ、俺の家のリビングだったんだ。テレビがついてるのに誰もいなくて、なぜか妙に寒くて……そしたら、カーテンの隙間から、昨日のお化けみたいな影が、ゆっくりとこっちを覗き込んでくるんだよ」
ユウキは肩を震わせた。
「すげーリアルでさ。声も出ないし、体も動かないし。もう、夢だって分かってるのに、マジでやばかった」
ケンタも頷く。
「俺もだ。今度は学校の屋上だったんだけど、誰もいないのに誰かの視線を感じるんだ。下を見たら、校庭の真ん中に真っ黒な影が立ってて……それがだんだん大きくなって、こっちに手を伸ばしてくるんだよ。足がすくんで動けねぇし、もう死ぬかと思った」
アオイも自分の見た夢を話した。
クローゼットの奥の『気配』と、物置小屋の『黒い染み』。
場所は違えど、二人と同じように、明確な形を持たない『何か』に追い詰められるような恐怖だったことを伝えた。
「夢の中でこれは夢だってことを感じれるのは、あのヘッドギアのせいなのか?この悪い夢を見せてるのも……」
アオイは指摘した。
「たしかに夢のなかでは自分の意思で動いたりできないもんな。あの夢だってここにきてから見るし」
三人は顔を見合わせる。
単なる偶然で片付けるには、あまりにも共通点が多すぎた。
あのヘッドギアや、この治験と関係があるのだろうか。
漠然とした不安が、言葉にならないまま、俺たちの間に漂った。
その時、一人の少女が、俺たちの座るテーブルにゆっくりと近づいてきた。
長い黒髪を揺らし、手に持っていた文庫本を胸の前でぎゅっと抱きしめている。
名前はサクラだ。
彼女は、おどおどした様子で俺たちをちらりと見上げると、震えた声で話し始めた。
「あ……あの……」
透き通るような声だったが、その中に明らかな怯えが混じっていた。
彼女の顔は青ざめ、大きな瞳は不安に揺れている。
「も、もしかして……皆さんも……へんな、夢……見てますか……?」
サクラの問いかけに、俺たちは顔を見合わせた。ユウキが最初に口を開いた。
「ああ、見てるよ。すげーリアルな悪夢。なんか、ずっと黒い影に追いかけられてさ」
ケンタも頷く。
「俺も。マジで心臓に悪いって。夢だって分かってても、汗びっしょりで目が覚めるんだよな」
二人の言葉に、サクラの顔に微かな安堵の色が浮かんだ。
彼女は文庫本を抱きしめる腕の力を少し緩め、再び震える声で話し始めた。
「私……今朝、目が覚めた時、声も出なくて……。夢の中で、ずっと誰かに名前を呼ばれてるのに、振り向いたら誰もいなくて……でも、視線だけは、ずっと背中に感じてて……。それがだんだん、私の部屋の壁とか、天井とかから、真っ黒い手が、にじみ出てくる夢だったんです。私、もう怖くて怖くて……」
彼女の声は途切れ途切れになり、目に涙が浮かんでいる。
サクラの悪夢は、俺たちのそれよりも、さらに直接的な恐怖を伴うものだったらしい。
部屋の壁や天井から手が滲み出てくる、という描写は、俺たちの見た『黒い染み』や『影』の、より進化した形なのかもしれない。
アオイはたまらず、サクラの言葉を遮るように言った。
「大丈夫だよ、サクラ。それは、ただの夢だ」
ケンタも慌てて同意する。
「そうだよ! 怖いのは分かるけど、所詮は夢だから。どんなにリアルでも、死ぬわけじゃないし、大丈夫だって!」
ユウキも柔らかい声で続いた。
「そうそう。俺も一回、夢の中で崖から落ちたことあるけど、目が覚めたらちゃんと生きてたし。大丈夫だよ」
俺たちは、サクラを励ますように、それぞれが経験した『所詮は夢』エピソードを語った。
自分たちも怖い夢を見ているからこそ、サクラの恐怖が痛いほど理解できた。
だからこそ、そう言ってあげたかった。
サクラは、ほんの少しだけ顔に血色を取り戻し、小さく頷いた。
「そうですよね……。夢、ですもんね……。でも、なんか、ここに来てから、ずっと体が重くて……」
彼女の言う通り、俺たちも疲労感を抱えていた。
夢がリアルな分、精神的な消耗も激しいのだろう。
「そうだよ、夢だよ。でも、本当にリアルすぎて、疲れるよな」
アオイはそう言いながら、どこか安心している自分に気づいた。
みんな同じ夢を見ている。きっと大丈夫。
これは高額な報酬に見合った、単なる治験なのだ。そう信じたかった。
サクラは、ほんの少しだけ顔に血色を取り戻し、小さく頷いた。
「ありがとうございます……」
共有スペースには、再び穏やかな時間が流れた。
しかし、その根底には、皆が共有する、形のない『悪夢』の影が、ぼんやりと横たわっていた。
『三日目・夜』
その日の夜も、ベッドに横たわり、ヘッドギアを装着する。
昨日までの悪夢を思えば、正直気が滅入るが、逃げる選択肢はない。
10日間。たったそれだけ耐えれば、この生活は終わる。
そう言い聞かせながら、アオイは意識を暗闇へと沈めた。
次に目覚めた時、アオイはまた自分の部屋にいた。
しかし、昨日の物置小屋のように薄暗くはない。
夕暮れ時の、どこか物悲しい光が窓から差し込んでいる。
リビングからはテレビの音が聞こえ、親しい人の気配がする。
安心感が胸に広がる。もしかして、今日は普通の夢なのか?
アオイはリビングへ向かった。
そこには誰もいなかった。テレビだけが意味もなくつけっぱなしになっている。
そして、またあの冷気が肌を撫でた。
カーテンの隙間。テーブルの影。ソファの隅。視線を感じる。
それは、昨日まで感じていた『気配』だ。
だが、今日のそれは、より明確な殺意を帯びているように感じられた。
アオイはゆっくりと後ずさる。
リビングの奥、キッチンの入り口の暗がりから、何かが這い出てくるような音と、焦げ付くような不快な匂いがした。
具体的な姿はまだ見えない。
だが、それは確実にアオイに向かってきている。
「う、うわぁっ……!」
反射的に背を向け、玄関へと走り出した。
恐怖で足がもつれる。鍵を開け、ドアノブをひねり、がむしゃらに外へ飛び出した。
そこは、アオイの住むアパートの前の、見慣れた路地だった。いつも通る道。
だが、振り返ると、アパートの玄関のドアは漆黒の闇を吐き出すかのように歪んでいた。
その闇の中から、影がずるりと這い出てくる。
それは、二本の足で立ち、明らかにアオイを追跡しようとしている。
アオイは息を呑んだ。今度は違う。漠然とした恐怖ではない。
これは、明確な『追跡者』だ。
「やめろ……!」
叫んでも声にならない。
アオイは全力で走り出した。曲がり角を曲がり、また曲がり。
見慣れたはずの景色が、まるで無限に続く迷路のように感じられる。
背後からは、引きずるような、ぬめるような音が追いかけてくる。
無我夢中で、アオイは知らない路地へと逃げ込んだ。こんな道、通ったことがない。
細く、薄暗く、両側には古びた民家が壁のように連なっている。壁には見たことのない落書きがされていて、道端には見たことのない雑草が生い茂っている。
その路地を駆け抜けようとした、その時――。
目の前の景色が、一瞬にして歪んだ。まるでテレビの砂嵐のように、全てがぐちゃぐちゃになる。
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