第四話 見知らぬ世界

 マキが個室に移って八日目。朝食を終えた頃、先日会ったヨシヒロとサトが再びやって来た。サトは小さな包みを抱えていた。

 ヨシヒロと目を合わせてうなずき合うと、サトがマキに優しく声をかけた。


「マキや、御身の具合はいかがにて候ふ? 御食事などは召しあがりておはしますか? / マキちゃん、体の具合はどう? ごはんはちゃんと食べられてる?」

「おかげさまにて、からだもいとようなりにけり。御食も、まことに美味しくて、うれしういただき候ひました / はい、おかげさまでずいぶん元気になりました。ごはんもとてもおいしくて、うれしくいただきました」

「それはなによりにて候ふ。ここは病みたる人々の身を養ふところなれど、御身の療養も終へまししかば、先だちて申したごとく、今日よりはヨシヒロ殿の御もとへ参られ候ふべし。皆々、御身をお待ち申し上げて候ふ。さ、まゐらむ用意をいたしましょう / それはよかったね。ここは病気の人たちが体を休める場所だけど、あなたの治療ももう終わったからね。前にも言ったように、今日からはヨシヒロさんのところへ行くことになってるの。みんな、あなたのことを楽しみに待ってるわ。さあ、出発の準備をしましょう」


 そう言うとサトは抱えていた包みをマキに手渡し、開くよう促した。包みの一番上には、母の形見である篠笛が大切に収められており、その下にはこの世界に来たときに着ていた白装束と帯が、きれいに洗われて畳まれていた。

 マキがそっと笛を手に取り、胸元にぎゅっと抱きしめるのを見て、ヨシヒロは微笑み、持っていたもう一つの包みから真新しい草履を取り出した。

 ヨシヒロがサトに何か小声で告げると、そのまま部屋を出ていった。

 サトに促され、マキは白装束に着替え、笛を懐に収めて草履を履いた。しばらくすると、ヨシヒロが戻ってきた。

 ようやく馴染んできたこの場所を離れるのは、マキにとって不安だった。しかし贄の儀で身にまとった装束に再び袖を通し、母の篠笛を胸に抱いたことで、ヨシヒロのもとへ行く覚悟が固まった。


 サトとヨシヒロに伴われ、マキは病室を後にした。

 廊下では、水色の服を着た女性たちと白衣の男性が見送ってくれた。

 さらに廊下を進み、三人は窓のない小部屋に入った。戸が触れずとも閉まり、部屋がわずかに揺れた。マキが不思議そうにしているうちに、再び戸が開き、先ほどの廊下とはまるで違う、広々とした部屋が現れた。部屋の一方は屋外へと続いていた。


 歩きながら、サトがマキに声をかけた。

「我らはこれより、“自動車”と申す乗り物に乗りて、ヨシヒロ殿の御もとへ向かいまする。日和もよう候ひて、まことに幸ひにて候ふ / 私たちはこれから自動車という乗り物に乗って、ヨシヒロさんの家に向かいます。天気が良くて、ほんとうによかったわ」

 外に出ると、そこには車輪のついた白い箱のような乗り物が停まっていた。マキはかつて見た牛車を思い出したが、それよりもはるかに大きく、白く、美しかった。牛の姿はなく、どうやら、病室の窓から見たあの道を走っていた乗り物のようだった。


 ヨシヒロが後部の扉を開けた。サトに促され、マキは乗り込んだ。

 サトが隣に座り、ヨシヒロは前の席へ。すでに一人、見知らぬ者が座っていた。サトは黒い帯でマキの身体を座席に固定し、自らも留め具を身につけた。

 サトが前席に声をかけると、自動車はわずかに音を立てて動き出した。

 振り返ると、マキがいた建物の全容が見えてきた。それは、彼女がこれまで見た中で最も大きな建物だった。


 窓の外を流れる景色も、自動車の速さも、すべてが驚きの連続だった。

 二階建ての家々が並ぶ通りを抜けると、自動車はやがて川沿いの道に出た。大きな橋を渡ると、対岸には田んぼが広がっていた。山並みの様子から、マキはこのあたりが小舟で渡った湖の近くであることを察した。

 やがてサトが前席に何か告げると、マキの座る側の窓がするすると開いた。青々とした稲が整然と並び、若々しい風が香りとともに車内に吹き込んできた。


 自動車は田んぼの中の道を抜け、坂をのぼり、生け垣に囲まれた広い敷地に入って停まった。目の前の家は、マキの知るどの神社や寺よりも大きく見えた。

 サトとヨシヒロに伴われて玄関へ進むと、「龍口」と記された小さな美しい板が掲げられていた。屋内に入ると、奥には龍が描かれた衝立があり、さらに案内された部屋の奥にも、龍の絵が飾られていた。

 

 マキには、この世界は神々の世界でこの屋敷は龍神の一族の住まいではないかとの考えが急に浮かんだ。もしそうなら、龍神の贄である自分がここに呼ばれたのは、彼らに仕えるためなのだと悟った。マキは入りかけた部屋から急いで廊下に戻り、平伏し、口上を述べた。


「龍の御族の御方々には、身のほどもしらず、神々にたいそうなご無礼をしてしまひ、まことに申しわけなく存じはべります。これよりは、命のかぎり、おそばに仕へたてまつりたく候ふ。どうぞ、よろしくお導きくださりますよう…… / 龍神の御一族の方々には、身のほどもわきまえず、神々に対してなんとも恐れ多いことをしてしまいました。まことに申し訳なく思っております。これからは、命のあるかぎり、おそばに仕えさせていただきたく存じます。どうか、導いてくださいますように……」

 サトは急いでマキの横に膝まずき肩を抱いた。

「おもひたがへずたまへ、我等は神にあらず。御身は下女にあらず。かねて申した通り、御身は我等にとりてだいじなる人なり / 思い違いをしてはいけません。私たちは神ではないのです。あなたは下女でもない。前にも言いましたが、あなたは私たちにとって、かけがえのない大切な人なのですよ」

 顔を上げたマキに、サトは言葉をつづけた。

「マキや、さるにおそろしがりたまふな。われら、ながらく御顔を見まほしく思ひてまゐりしを。こののち、ヨシヒロの申すこと、よく聞きたまへ。何も心配には及ばぬゆゑ、心静かにておいでなさいませ / マキ、どうか恐れないでください。私たちはずっと、あなたに会いたいと願っていました。このあと、ヨシヒロの話をよく聞いてください。もう何も心配はいりません。心を静かに、ここにいてくださいね」

 マキはおずおずとサトに導かれ立ち上がった。

 ヨシヒロは突然のマキの行動に困惑していたが、サトが理由を伝えると何度かうなずき、マキを部屋へと迎え入れた。


 大きな机の一辺にマキがサトと並び座ると、向かいにはヨシヒロと並んで、穏やかな表情の女性が座る。右側の一辺には、自動車の前席にいた中年の男性と、少しふくよかな女性の姿があった。その女性は六つの透明な器をのせた盆を抱えており、器をそれぞれの前に丁寧に並べた。器には香ばしい香りのする薄茶色の飲み物が入っていた。

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