第14話 石穿つ雨

 その男は、怒っていた。世界中のすべてに対して。


 男の名は、間宮。彼は、自分が常に正しく、自分だけが物事の本質を理解していると信じていた。だが、世界は彼を評価しなかった。会社では上司に疎まれ、同僚からは煙たがられ、先日、ついに閑職へと追いやられた。


「愚か者どもめ。奴らには、俺の正しさが理解できんのだ」


 彼の不満は、やがて煮えたぎるような怒りへと変わり、その矛先を求めていた。そんな時、彼は「森の図書館」の噂を耳にした。悩める魂を救う、だと?馬鹿馬鹿しい。だが、もし本当にそんな場所があるのなら、自分の正しさを証明し、愚かな世界を断罪するための知識が見つかるかもしれない。


 彼は、半ば挑むような気持ちで、その図書館を探し当てた。


 中へ入ると、司書のサヨが静かに彼を迎えた。間宮は、椅子に座ることもせず、腕を組み、値踏みするような目でサヨを見た。


「あんたが、ここの司書か。俺の悩み、あんたに解決できるのかね?」


 彼は、自分の経歴や不満を、まるで他人の罪状を読み上げるかのように、一方的に語った。自分の正しさ、周囲の愚かさ。その独白には、一欠片の自己懐疑もなかった。


 サヨは、彼の言葉の嵐を、ただ静かに受け止めていた。彼女には、彼の傲慢さの鎧の下に、誰にも理解されないという、深い孤独と恐怖が渦巻いているのが見えていた。


 やがて、サヨは一冊の、ひどく古びた分厚い本を持ってきた。


 ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』


「これは、己の信じる正義のために、ただ一人、世界に戦いを挑んだ、気高い騎士の物語です」


 サヨは、その本をカウンターに置いた。


 間宮は、そのタイトルを見て、顔を歪めた。


「ドン・キホーテだと? ……この俺を、あの狂人と同じだとでも言うのか。俺を、馬鹿にしているのか!」


 彼の声が、静かな館内に響き渡った。彼の信じる「正義」が、滑稽な道化の物語と重ねられた。それは、彼にとって最大の侮辱だった。


「お前に、俺の何がわかる!」


 間宮は叫び、カウンターを乗り越えた。彼の怒りは、ついに物理的な暴力となって、サヨへと向けられた。彼は、サヨの華奢な肩を掴もうと、その手を伸ばした。


 サヨは、悲鳴も上げず、身じろぎもしなかった。


 ただ、深い哀しみを湛えた瞳で、迫りくる男の手を、じっと見つめていた。


 その指先が、サヨの服に触れるか、触れないか、その刹那のことだった。


 図書館が、呻いた。


 地響きのような、低い振動が、床から這い上がってきた。本棚という本棚が、まるで巨大な生き物のように、ぎしり、と音を立てて軋んだ。


 間宮の頭上、何万冊もの本が、一斉にカタカタと震え始める。


 そして、彼の伸ばした手のすぐ目の前で、本棚から一冊の本が、まるで盾のように、スッと滑り落ちてきた。続いて、もう一冊、また一冊と、無数の本が意思を持ったかのように飛び出し、サヨと間宮の間に、分厚い本の壁を瞬時に作り上げたのだ。


「なっ…」


 間宮は、目の前で起きた超常現象に、言葉を失い、後ずさった。


 本の壁は、静かに崩れ落ち、元の場所へと吸い込まれるように収まっていく。


 だが、図書館の怒りは、まだ収まっていなかった。

 館内の空気が、鉛のように重くなった。間宮は、見えない力に全身を締め付けられ、金縛りにあったかのように、身動き一つ取れなくなった。呼吸さえ、ままならない。


 彼の信じてきた、怒りという名の暴力。それが、この場所では、赤子の戯れのように、無力だった。


「……あなたを、誰も傷つけはしない。この場所では」


 重圧の中で、サヨの静かな声が響いた。それは、叱責ではなかった。ただ、どうしようもない事実を告げる、哀しみの声だった。


「あなたを傷つけているのは、あなた自身の、その硬い鎧だけです」


 次の瞬間、間宮の身体は、強い力で後ろに突き飛ばされた。彼は、図書館の入り口から、現実世界の小径へと、まるで吐き出されるように転がり出た。


 振り返ると、もう、そこに巨大な楠の姿はなかった。ただ、冷たい雨が降りしきる、ありふれた路地裏があるだけだった。


 間宮は、雨に打たれながら、呆然と立ち尽くしていた。何も解決しなかった。誰も、彼を理解しなかった。だが、彼の心には、生まれて初めて、一つのひびが入っていた。


 自分の信じる「力」が、全く通用しない世界があるという、絶対的な事実。そして、あの司書の、最後の哀しみに満ちた瞳。


 彼は、そのひびを抱えたまま、濡れたアスファルトの上を、よろよろと歩き出した。


 彼が、ひびの先に、いつか光を見るのか、それとも、さらに硬い殻でそれを塞いでしまうのか。それは、誰にも分からない。


 森の図書館は、ただ、一つの揺らぎを与えただけだった。答えは、まだ、彼の長い雨の中にあった。

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