第2話 迷い神
その神様は、消えかけていた。
冷たい秋雨が、アスファルトを黒く濡らしている。かつて彼の住処であった井戸はとうに埋め立てられ、今では月極駐車場の一部となっていた。その片隅に、申し訳程度に残された苔むした霊石が、彼のかつての社の唯一の名残だ。
彼の名は
雨粒が、彼の透き通った身体を、何の抵抗もなく通り抜けていく。信仰とは、神の輪郭を保つための糸のようなものだ。その糸が全て断ち切られた今、彼の存在は世界の景色に溶け、霧散する寸前だった。
(寒い…忘れ去られるとは、かくも寒いものか)
虚ろな思いで、ナ井はふらふらと歩き出した。行くあてなどない。存在そのものが「迷い子」となった彼が、神社の境内に残る一本の古い銀杏の木の背後で、空間が陽炎のように揺らめいたのを見たのは、偶然か必然か。
誘われるようにその揺らめきを抜けると、肌を刺すような冷たい雨は止み、温かく、乾いた空気が彼を包んだ。目の前には、巨大な楠の図書館が静かに佇んでいた。
中へ入ると、暖炉の炎が彼の半透明の輪郭をほのかに橙色に染めた。ここは、全てが確かな重さと手触りを持っている。本の革の匂い、インクの香り、木の床がきしむ音。あまりに濃密な「存在」に満ちた空間で、ナ井は己の希薄さが恥ずかしいような、それでいて安らぐような、不思議な感覚に陥った。
「ようこそ、神様。ひどい雨でしたね」
カウンターの向こうから、司書のサヨが穏やかな声で言った。彼女は、神の来訪に少しも驚いた様子を見せない。
「どうぞ、こちらへ。暖炉のそばがよろしいでしょう」
勧められるままにソファに腰掛けると、身体がほんの少しだけ、輪郭を取り戻した気がした。
ナ井は、途切れ途切れに自分のことを語った。長すぎた時間のこと。失われた信仰のこと。そして、すぐそこまで迫った「無」への恐怖を。
「ワシは、消えかけておる。役目を終えた神に、存在する意味などあるのかのぅ」
サヨは静かに聴き終えると、頷いた。
「意味、ですか。それは、とても重い言葉ですね」
彼女はそう言うと、図書館の奥深く、ひときわ古びた本が並ぶ一角へと姿を消した。やがて戻ってきた彼女の手には、ぶ厚く、荘厳な雰囲気さえ漂う一冊の本があった。
彼女がカウンターに置いた本のタイトルを、ナ井は目で追った。
ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』
「これは、ある一族の、そして一つの世界の、記憶と忘却の物語です」
サヨは言った。
「あなたの悠久の時に比べれば、ほんの百年の話かもしれません。ですが、この中には、生まれては消えていく幾千もの魂の輝きが詰まっています」
ナ井は、その本を受け取った。何百年も生きてきた彼が、今さら人間の、それもたった百年の物語を読んで何になるというのか。だが、サヨの静かな瞳に見つめられると、彼はその本を読まずにはいられなかった。
ページをめくると、彼はたちまちマコンドという村の、ブエンディア一族の、目まぐるしくも濃密な歴史の渦に引き込まれていった。
そこでは、現実と幻想が溶け合い、人々の情熱、愛、憎悪、そして孤独が、世代を超えて受け継がれては、やがて忘れ去られていく。繁栄を極めた村が、やがて地図から消え、人々の記憶からも消えていく様は、まるでナ井自身の運命をなぞっているかのようだった。
だが、物語を読み進めるうちに、ナ井は気づいた。
ブエンディア一族が忘れ去られ、マコンドが風に吹き払われた後にも、「物語」は残ったのだ。彼らが生きたという事実は、この一冊の本の中に、永遠に刻まれている。
(そうか……)
ナ井の心に、静かな光が灯った。
(役目を終えることと、無価値であることは違う。忘れ去られることと、存在しなかったことは違う)
彼は井戸の神だった。その井戸はもうない。だから、彼の「役目」は終わったのだ。それは、どうしようもない時の流れだ。だが、彼がこの土地で、人々の暮らしと共に、確かに存在したという「物語」まで消えるわけではない。
読み終えた本を閉じると、ナ井は深く、静かな息をついた。彼の身体は相変わらず透き通っていたが、以前のような寒気と恐怖は消え、穏やかな諦観と、不思議な充足感が満ちていた。
「サヨ殿。礼を言う」
「いいえ。答えを見つけたのは、あなたご自身です」
図書館を出ると、雨は上がっていた。彼は自分の社があった駐車場の片隅に戻り、苔むした霊石にそっと腰を下ろした。
すると、若い男女が駐車場に車を停め、彼のすぐそばを通りかかった。
「ねえ、見て。こんなところに、こんな石がある」
女性が、霊石を指さして言った。
「昔、ここに大きな井戸があったんだって。おばあちゃんが言ってた」
男性が答える。
「へえ、そうなんだ。なんだか、いいね」
二人は、特に祈るでもなく、ただ少しの間その石を眺めると、雑踏の中へと消えていった。
ナ井の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
そうだ。ワシは、この土地の物語そのものなのだ。
もはや彼は、祈られる神ではないのかもしれない。だが、それでよかった。彼はこの場所の記憶、名もなき歴史の一部として、静かにここに在り続けるのだ。
秋の澄んだ空気が、心地よかった。消えゆくことへの恐怖から解放された神は、永遠にも似た穏やかな孤独の中で、静かに目を閉じた。
彼の傍らでは、サヨから借りた『百年の孤独』が、風に吹かれてはらはらと、落ち葉のように消えていった。
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