第32話 言えない秘密と、優しい嘘

「……また、今日もダメだった」

一人暮らしの部屋の洗面所。雛は、鏡に映る自分の青ざめた顔を見つめながら、手にした小さなプラスチックの棒をぎゅっと握りしめた。そこには、残酷なほどはっきりと、二本の線が浮かび上がっている。

(嘘……。何かの、間違いだよね……?)

最初は、ただの風邪だと思っていた。

卒論の疲れが出たのだろうと。

でも、一向に良くならない体調。周期を過ぎても来ない月のもの。胸騒ぎがして、薬局で妊娠検査薬を買ったのは、ほんの気まぐれのつもりだった。

(どうしよう……)

頭が真っ白になる。

嬉しい、とか、幸せ、とか、そんな感情はどこにもなかった。ただ、ひたすらに怖い。これからどうなってしまうんだろう。健太くんは、なんて言うだろう。

健太くん。

彼の顔を思い浮かべると、胸が締め付けられるように痛んだ。

彼は今、人生で一番大事な時期にいる。海外派遣もあるという一流企業への就職活動。夢に向かって、全力で走っている。

『俺さ、いつか海外ででっかい仕事してみたいんだよな!そんで、胸張って雛の隣に立てるような男になるからさ!』

いつか、彼が屈託のない笑顔でそう語ってくれた言葉が、脳裏に蘇る。

彼の夢。彼の未来。彼のキャリア。

その輝かしい滑走路のど真ん中に、私が、障害物になってしまう。

(言えない……。絶対に、言えない)

もし、このことを話したら、健太くんはなんて言うだろう。

きっと、優しい彼は「俺が責任を取る」と言うに違いない。そして、内定を辞退して、実家の工務店を継ぐ道を選ぶかもしれない。彼の大きな夢を、私が、この子の存在が、奪ってしまう。

それだけは、絶対に嫌だった。

彼には、彼の信じる道を、全力で走ってほしい。

「……ごめんね」

雛は、まだ平坦な自分のお腹を、そっと撫でた。

「ごめんね……。ママが、弱くて……」

涙が、ぽろぽろと溢れて止まらない。

その日から、雛の巧みな嘘が始まった。

「雛ちゃん、本当に大丈夫?顔色、悪いよ」

カフェテリアで、香が心配そうに声をかけてくれる。

「ううん、大丈夫だって!昨日、夜更かしして卒論やってたから、ちょっと寝不足なだけ!」

「無理しちゃダメだよ。何かあったら、いつでも聞くからね」

「うん、ありがとう、香ちゃん」

優しい親友の言葉に、胸が張り裂けそうになる。本当のことを、全部打ち明けてしまいたい。でも、できない。この秘密は、私一人で抱えていかなければならない。

健太の前では、さらに必死に笑顔を作った。

「健太くん、面接どうだった?手応えあった?」

「おう!バッチリだぜ!なんか、もう内定もらったようなもんだな!」

「すごい!さすが、健太くんだね!」

本当は、彼の活躍を心から喜べない自分がいる。彼の成功が、私をどんどん追い詰めていく。

ごめんね、健太くん。こんな風にしか、君を応援できない。

夜、一人になると、不安で押しつぶされそうになる。

産婦人科には、まだ行けていない。一人で行くのが、怖かった。もし、本当に妊娠していたら?もし、先生に「おめでとうございます」なんて言われたら?私は、どんな顔をすればいいんだろう。

たった一つの秘密。

その秘密が、雛を仲間たちから、そして何よりも愛する人から、少しずつ、しかし確実に孤立させていく。

優しい嘘を重ねるたびに、彼女の心はすり減っていく。

誰も知らない、彼女だけの戦い。

それは、あまりにも孤独で、そして、あまりにも切ないプレリュードだった。

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