第三章 新しい季節のクロスロード 第21話 秋風の匂いと、無力感の影
あの熱狂的だった夏が過ぎ、大学のキャンパスを吹き抜ける風が、少しずつ秋の匂いを運び始めた頃。俺、佐々木裕也と香の関係は、穏やかで、そして確かなものになっていた。
講義が終わると、自然と互いの教室の前で待ち合わせ、一緒に帰るのが日課になっていた。他愛もない話をしながら、夕暮れの並木道を歩く。ただそれだけの時間が、何よりも満たされた、宝物のような時間だった。
「あ、裕也くん、お疲れ様」
経済学部の講義室から出てきた俺を見つけて、香がぱっと顔を輝かせる。
「お疲れ。そっちはもう終わったのか?」
「うん。今日はデッサンの講評会だったから、少し早めに。…どうだった?今日の講義」
「まあ、いつも通りかな。教授の声が、いい感じの子守唄だった」
俺がそう言うと、香は「もう、また寝てたの?」と楽しそうに笑う。
この何でもない会話。この穏やかな時間。これが、俺たちの新しい日常だった。
いつものように、仲間たちが集うカフェテリアに向かう。そこにはもう、健太や雛さん、辰彦たちの姿があった。
「おー、来たな、主役のお二人さん!」
健太が、ポテトを頬張りながらニヤニヤと手を振る。
「主役じゃない。それと、口に物を入れたまま喋るな。汚い」
辰彦が、隣で本を読んでいた純奈さんの髪にポテトの破片が飛ばないよう、さりげなく手で庇いながら言う。
「んだとー!愛の伝道師と呼べ、伝道師と!」
「どの口が言うんだか。ねー、瞳ちゃん」
雛さんが、隣に座る瞳さんに同意を求めると、瞳さんは「ふふ、健太くんは元気だね」と穏やかに微笑んだ。その隣で、和樹も幸せそうに頷いている。
八人になった俺たちの輪は、夏を経て、さらに心地よい一体感に包まれていた。
「そういえば香、最近元気ないんじゃないか?なんか悩み事か?」
不意に、健太が真面目な顔で香に尋ねた。その言葉に、俺もハッとする。そういえば、ここ数日、香の笑顔にどこか影があるような気がしていた。
「え……?」
香は、少し驚いたように目を丸くした。
「いや、なんでもないよ。大丈夫」
そう言って笑う彼女の笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
その日の帰り道。二人きりになった時、俺は思い切って尋ねた。
「健太の言ってたこと、本当だろ。何かあったのか?」
俺の問いに、香はしばらく黙って俯いていた。そして、ぽつりと、小さな声で話し始めた。
「……友達の、ことなんだけど」
「友達?」
「うん。美術系のサークルの子で……。ちょっと、モデルのアルバイトで、事務所とトラブルになっちゃって……」
香の話を要約すると、彼女の友人であるミキさんという子が、悪質な契約を結ばされ、不当な条件で働かされているらしかった。辞めたいと言っても、高額な違約金を請求すると脅され、誰にも相談できずに一人で悩んでいるのだという。
「私、話を聞いてあげることしかできなくて……。『大変だね』とか、『大丈夫?』とか、そんなことしか言えなくて……」
香の声が、震えている。
「ミキは、すごく追い詰められてて、泣いてて……。なのに私、本当に、何もしてあげられない。それが、すごく……悔しくて」
彼女の言葉が、ずしりと胸に響いた。大切な友人が苦しんでいるのに、自分は無力だという、そのもどかしさ。
俺は、かけるべき言葉が見つからず、ただ、彼女の隣を歩くことしかできなかった。
「ごめんね、裕也くん。暗い話しちゃって」
「いや……。ミキさんのこと、心配だな」
「うん……」
別れ際、香は無理に笑顔を作って言った。
「でも、大丈夫。きっと、何とかなるから」
その笑顔が、あまりにも儚くて、俺は胸が締め付けられるようだった。
楽しかった夏の思い出が、まるで遠い昔のことのように色褪せて見える。
俺たちの穏やかな日常に、秋風と共に、小さく、しかし確かな影が落ちているのを、俺は感じていた。
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