第5話 命の灯と命の水がめ

名前を名乗ったあの日から、ほんのわずかだが、日常の景色が変わって見えた。

朝、目覚ましが鳴る前に起きて、窓を開けた。

まだ夜の余韻を残す空気が、ひんやりと肌をなでた。

「石動

昴 いするぎ、すばる」

声に出してみる。

こんなふうに、自分の名前を独り言で言うなんて、子どもの頃以来だった。

小学三年生の春だった。

初めてのクラス替えで、自己紹介をした。

「石動

昴です。よろしくお願いします」

教室が一瞬静まり、誰かが「え、何て?」と小さく笑った。

「イシドウ?」「スバルって車?」

それを皮切りに、昴のあだ名は“ピカピカ号”になり、

出席を取られるたび、ひそひそと笑われた。

誰かに悪意があったわけではない。

ただ、子どもたちの無邪気さは、ときに鋭い刃になった。

それ以来、昴は“人前で名乗ること”にためらいを覚えるようになった。

大人になり、社会に出た。

会社では最低限のやり取りだけをこなし、昼休みもひとりで外を歩いた。

チームで仕事をしていても、名指しで呼ばれることは少なく、

「これ、あの人に回しといて」で終わる。

「石動さん」ではなく、「あの人」。

そのことが、じわじわと昴の心を削っていった。

けれど、あの寺に行き、

あの僧に出会い、

枯山水の“目に見えない流れ”を感じたことで、何かが変わった。

「もう少しだけ、生きてみよう」

そう思えるようになった。

答えは出ない。誰も完全な解をくれるわけではない。

けれど、“問いを抱えながらでも、生きていていい”

そういう感覚が、昴の中に根を張りはじめていた。

ある日の夜、息子が昴の隣に座って言った。

「ねえ、お父さん。お父さんの名前って、なんかかっこいいよね。星の名前なんだよね?」

昴は一瞬、胸が詰まった。

「……よく知ってるな」

「うん。学校の図書館に星の本があって。スバルって、いっぱい星が集まってるやつでしょ?」

昴は笑った。

「そうだ。たくさんの星が、寄り添って輝いてる。それが“昴”や」

「へえ……。ぼく、星、好きになりそう」

「そうか……それは、いいことだ」

その夜、久しぶりに泣いた。声は出さなかった。

ただ、涙があふれて止まらなかった。

“ひとつだけの星”だと思っていた名に、

“いくつもの光が集まった姿”があると知った。

自分はひとりじゃなかった

名前の意味が、生きる意味へとつながる。

あの山寺に通い続けるうちに、私は和尚と親しくなっていた。

知らないことだらけだった。そのお寺では、縁日に護摩祈祷を行っており、法話もされている。

その、和尚さんは、静かな口調だが、言葉の一つひとつに力があった。

ある日の夕暮れ、庫裡の縁側で和尚は言った。

「石動さん、人生には『苦』もあるが、『変化』もある。

変わらんと思うてる景色も、実は護摩の火のごとく、燃えておるのや」

和尚は、護摩壇(ごまだん)の前で護摩木を丁寧に置いていった。

真言の声が静かに響き、火がゆらゆらと揺れはじめる。

「護摩の火は、心の迷いを焼き尽くし、願いを浄める。

お前の心にも、必ず炎が灯る。見失うなよ」

私はその護摩の火をじっと見つめた。

焦げる匂いの中に、自分の心の闇が少しずつ溶けていくような気がした。

ある晩、和尚は寺の本堂で法話を開いた。

地域の人々が集まり、私はその輪の中にいた。

「生きる意味は、外から与えられるもんやない。

己が感じ、己が歩き、己が悟るもんや」

和尚さんの声は、心に響いた。

生きることは「答えを探す旅」ではなく、「問いを持ち続けること」

あの言葉が蘇る。

それから私は少しずつだが、日常に光を見出せるようになった。

職場のしがらみや孤独は消えない。だが、護摩の炎が消えぬよう、私は心の火を絶やさずにいようと思った。

「和尚さん、ありがとうございました」

ある朝、私はそう呟いた。

小さな寺の、静かな護摩の火の灯りが、私の未来を照らし始めていた。

その朝、山里の寺は深い霧に包まれていた。

本堂は、湿った木の匂いがしていた。

雨が降った後の静けさが、山の寺にゆっくりと広がっていた。

私は、いつもより早く座布団に座った。

どこかざわつく心を鎮めたくて、護摩壇の炎が灯るのをじっと待っていた。

ドォォォン……

大太鼓が一打、空気を揺らした。

続いて、法螺貝(ほらがい)の低い唸りが谷にこだました。

ボォォォオ……ボォォ……

本堂の奥から、和尚がゆっくりと入堂する。

紫の袈裟が朝の光に照らされ、濃い香の香りがふわりと流れる。

昴は、自然と背筋を正していた。

なぜだろう

この寺に来るたび、何かに見つめられているような感覚になる。

和尚は壇上に座し、目を閉じ、合掌。

チチチン、チチチンと作法の音と読経が一体化する

やがて、護摩壇の火がともされた。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ……」

真言の響きが、堂内の木の梁に吸い込まれていく。

火はまだ小さく、炎は静かに揺れていた。

昴は、その火をじっと見つめていた。

薪がひとつ、ふたつ、護摩壇にくべられるたび、火は応えるように高く跳ねた。

(あの炎……まるで、自分の中にある怒りや苦しみを焼いてくれているようだ)

そう思った瞬間、不意に胸が詰まりそうになった。

誰にも言えずに飲み込んできた悔しさ、虚しさ、

心の奥に押し込めていた言葉たちが、煙となって昇っていくようだった。

(自分は、なぜこんなにも、満たされないんだろう)

昴の目に、うっすらと涙が滲んだ。

火を見ているだけで、涙が出るなんて。

「カァァァン……」

磬(けい)の音が響き、火がさらに高く舞い上がった。

香が強くなり、煙が天井へまっすぐに昇っていく。

炎は生きていた。まるで心の中の何かに呼応するように。

昴は、ただ見つめることしかできなかった。

護摩はゆっくりと終わりに近づいていた。

和尚が最後の真言を唱え、祈りが本堂を包む。

火が静まり、煙だけがまだ細く上がっていた。

堂内は静寂の中にあった

やがて、和尚が静かに口を開いた。

今度は、誰にともなく、けれど誰の心にも響く声で。

「今日はな……

ある友人の話を、みんなに聞いてほしいと思うんや」

和尚の声は、火の余韻とともに穏やかに流れ始めた。

昴は、その声に自然と引き込まれていった。

「その友人は、お釈迦さまの足跡をたどるために、インドを旅した。

雨季でな、地面はぬかるみ、空気は重く、湿気を含んだ土が足にまとわりついたという」

「そこで、ある光景に出会ったそうや」

「泥まみれのサイが一頭、角を中心にして寝転がり、ぐるぐるぐるぐる回り、地面を削り続けていた。

その動きで、地面がすり鉢状になっておった。

友人はガイドに訊ねた。『どうしてあのサイは、あんな風に回っているのか?』と」

和尚の声が、静かに力を帯びていく。

「ガイドはこう答えた。

『あのサイは、あと数日で死にます。死が近づくと、こうして回るのです』」

「『でも、それだけではないのです』と。

『あの周りに並んでいるサイたちは、あのサイの“家族”です。

あのサイは、今、自分の身体を使って、“水がめ”を作っているのです』」

「水がめ……?」

そう思った瞬間、和尚の真言が少しだけ止まり、ゆっくりとした声が重なった。

「サイは、自らの死期を悟ると、最後の力を振り絞って地面を掘る。

乾季に向けて、雨水が溜まる“命の器”を作るのや。

それを見て、家族は学び、水を受け継ぐ。

それが、サイの“死の準備”なんや。」

「人間やったら、どうや?」

「これはウチのもんや。他所者には使わせん!

祖父の代からの土地や!

と、争うことがようある」

「けれどサイは、そうやない。

必要な分だけ、水を分け与える。

誰のためでもなく、“命のため”に水を遺す。」

和尚は続けた。

「お釈迦様は、こう言うた」

『自らを灯とし、サイの角のごとく、ただ独り歩め』

「この“独り”とは、孤独に沈めという意味ではない。

他と群れずとも、己の道を恐れずに進めという教えや」

「そしてその道の果てに、

自分の命で、誰かを生かすことができるなら

それが、尊い“終活”やないかと、わしは思う」

「物を残すんやない。

形を遺すんやない。

心と祈りを、命の水として残す。

それが、ほんまの意味での“灯火”やろうな」

香煙が本堂の天井へ真っ直ぐ昇っていった。

和尚は、最後にこう結んだ。

「みんなも迷ってええ。ぐるぐる回ってもええ。

でもな、

その回る足跡が、誰かの命を救う“水がめ”になる

そのことを、忘れたらあかんのや」

“サイの角のように、ただ独り歩め”

その歩みの先に、あなたの水を待っている命が、きっとある。

山を下る道すがら、昴は言葉にならない何かを胸の奥に感じていた。

蝉の声が耳に届いても、風の音が木々を揺らしても、

さっきまでの護摩の火の音と、和尚の声が、ずっと耳に残っていた。

(自分の人生って、意味なんてあるんだろうか……)

ずっとそう思っていた。

誰にも認められず、頑張っても報われず、

“なぜ自分だけ”という想いが、何年も胸の奥に渦を巻いていた。

でも、今日

火を見て、共に祈り、

サイの話に触れた時、少しだけ、自分の中で何かが“静かに溶けた”。

「自分のことばかり考えてたな……」

昴は、木立の間から見える遠くの山並みに目をやった。

サイは、自分が死ぬ前に水を残す。

それを見た家族が、命を繋いでいく。

孤独のようでいて、誰かのために生きる最期の姿。

(自分も、何か残せるだろうか)

(誰かの命の“水がめ”みたいなものを……)

そう思った瞬間、

「……まだ終わりやない」

という声が、心の奥から聞こえた。

今の自分が、すぐに何かできるわけじゃない。

でも、ぐるぐると回って、悩んで、もがいて

それでも、何かを残そうとするその姿は、

決して無駄じゃないのかもしれない。

帰りのバス停に向かう途中、

昴は立ち止まって、ふと空を見上げた。

夏空が、少し眩しかった。

それは、今までよりも、ほんの少しだけ「優しい強さを持った」光だった。

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