第4話:あまりに突然の喪失

ひなたが三歳になった春、

桜が舞い散る美しい季節だった。

俺たちの輝かしい未来は、

一本の電話で、一瞬にして消え去った。

何もかもが、嘘みたいだった。

信じたくなかった。


ひなたが三歳になった春。

幼稚園の入園式を目前に控えた、穏やかな午後だった。

リビングの窓からは、満開の桜並木が見えた。

薄紅色の花びらが風に舞い、

まるで祝福の雪のようだった。

美咲はひなたに新しい制服を試着させ、

「ひなた、似合ってるわよ!可愛い!」と、

笑顔で写真を撮っていた。

ひなたも嬉しそうにくるくると回る。

そのワンピースの裾が、ひらひらと揺れた。

俺もその光景を眺めながら、

これから始まるひなたの園生活に、

そして美咲との変わらぬ幸福な日々に、

胸を躍らせていた。

その瞬間まで、俺の人生は完璧だった。

未来は、どこまでも明るく続いていくと信じていた。

空の青さも、太陽の光も、

全てが俺たちの味方をしているようだった。


しかし、その幸福は、あまりにも唐突に終わりを告げた。

一本の電話が、俺の人生を根底から揺るがしたんだ。

耳元で鳴り響く、けたたましいベルの音。

それは、まるで終焉を告げる鐘のようだった。

病院からの連絡だった。

美咲が予期せぬ交通事故に巻き込まれ、

緊急搬送されたという知らせ。

頭が真っ白になり、足が震えた。

体が鉛のように重く、動けない。

呼吸の仕方も忘れてしまったかのようだった。

ひなたを近所の葵に預け、病院へ駆けつけた。

救急処置室の前で、俺はただ待つことしかできなかった。

生きた心地がしなかった。

時間だけが、残酷なほどゆっくりと過ぎていく。

壁にかかった時計の秒針が、

心臓を直接叩くように響いた。

どれくらいそうしていただろう。

永遠にも感じられる時間が流れた後、

医師に呼ばれ、処置室へ入ると、

そこに横たわっていたのは、

見たことのないほど血色の悪い美咲だった。

その顔は、まるで蝋人形のように冷たかった。

肌に触れると、すでに微かな熱しか残っていなかった。

医師からは「最善を尽くしていますが…」と、

絶望的な言葉が告げられた。

俺は、ただただ、美咲の手を握りしめ、

彼女の意識が戻ることを、必死に祈った。

俺の祈りは、届かなかった。

数時間後、美咲は静かに息を引き取った。

その瞬間、俺の目の前で、

世界が音を立てて崩れ落ちていくようだった。

全ての光が、一瞬で消え失せた。

まるで、大きな穴が、心にぽっかりと開いたようだった。


あまりにも突然の出来事に、俺は現実を受け入れられない。

頭の中は真っ白になり、

心臓が凍りつくような感覚に襲われた。

輝かしい日々は一瞬にして終わりを告げ、

深い絶望が俺を襲う。

手のひらから、大切なものが音もなくすり抜けていくような、

そんな感覚だった。

通夜、そして葬儀。

美咲の生前の功績を讃えるかのように、

多くの人々が参列する盛大なものとなった。

式場には、黒い服の人々が溢れかえっていた。

有名企業の役員たち、ひなたの幼稚園の先生、

そして遠い親戚たち。

誰もが美咲の死を悼み、その突然の逝去に戸惑っていた。

悠真は、弔問客への挨拶もままならず、

ただ放心状態でひなたを抱きしめていた。

ひなたは、悠真の腕の中で、

「ママ、おやすみしてるの?」と問い、

幼いなりに母親の不在を感じ取り、

顔を悠真の胸に埋めていた。

その小さな体が、震えているのがわかった。

ひなたの体温だけが、唯一の現実だった。


その夜。

ひなたは、美咲がいつも身につけていた

お気に入りのエプロンを抱きしめて寝るようになった。

そのエプロンからは、まだかすかに美咲の香りがした。

悠真は、ひなたの小さな寝顔を見つめながら、

静かに涙を流した。

美咲の命日は、ひなたの3歳の誕生日から、

わずか数週間後のことだった。

誕生日には、美咲がひなたのために、

手作りの特別なケーキを作ってくれた。

あの日の美咲の笑顔が、鮮やかに脳裏に蘇る。

ひなたの満面の笑みと、

それを見守る美咲の優しい眼差し。

その記憶が、悠真の胸を、

さらに深く、えぐり取るような痛みに襲った。

リビングの棚の奥に仕舞われたままになっている、

美咲が残した、ひなたの成長を記録するための

高価な一眼レフカメラ。

そのレンズは、もう二度と美咲の笑顔を捉えることはない。

レンズの奥に、美咲の笑顔が写り込んでいる気がした。

悠真の心は、深い闇に沈み込んでいった。

この悲しみから、どうやって抜け出せばいいのか。

全く想像できなかった。

真っ暗な部屋で、俺はただ、

ひなたの寝息だけを聞いていた。

それが、唯一の、現実との繋がりだった。

冷たい床に座り込み、膝を抱える。

世界から取り残されたような、孤独が押し寄せてきた。

その夜、ひなたは寝言でぽつりと呟いた。

「ママ、きょうも いいこにしてたよ」

俺は、ひなたの手をそっと握った。

それが、闇の中で唯一の、灯火だった。

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