第5話 冬の境界

雪が降り始めた。


この町に“雪”が降るのは、実に異例だった。

いつもなら冷たい雨か、霧が漂うだけの冬。


だが今年は違った。

それはまるで、すべてを覆い隠す“上書き”のような雪だった。


静かに、白く、すべてを塗り替える。

それはまるで、記憶の修正。

現実の“再構成”だった。


「……町が、終わろうとしてる」


美波はそう呟いた。

俺たちは、最後の答えを求めて、かつて兄と早苗が最後に目撃された場所――

上流の水門跡へと向かっていた。


そこは、雪と氷に閉ざされ、地図にも名前が残されていない場所だった。


辿り着いたとき、そこには“建物”ではなく、“形”があった。

氷の彫像のような、崩れかけたコンクリートの塊。

それが、確かに「門」であったことを思わせる巨大な影。


そしてその中心には、凍った水の柱が立っていた。

まるで町の記憶を支える“柱”のように、静かに立っていた。


「この中に……兄がいる気がする」


俺の言葉に、美波は何も答えなかった。

ただ、小さく頷いていた。


氷の柱に触れる。

冷たい感触の中に、なぜか“熱”を感じた。


目を閉じた瞬間、映像のように記憶が流れ込んできた。


兄の声。

笑い声。

川で遊んだ夏の日。

雪の日に凍えながら食べた温かいスープの味。

俺をかばって怒鳴ってくれたときの、あの背中――


すべてが蘇ってくる。


そしてその最後に、兄が“誰か”の手を取り、

霧の中に消えていく光景が見えた。


早苗だった。


彼女は振り向き、俺に向かって口を動かした。


『――ここは、“忘れられる”場所。

でも、忘れないでくれるなら、私たちは、ここにいられる』


その瞬間、氷の柱が軋む音を立てた。


ひびが入り、亀裂が走る。


「離れて!」

美波が叫ぶ。


だが、俺は一歩も動けなかった。


俺の中の記憶が、今にも崩れ落ちそうになっていた。

兄がいなくなった日。

あの時、本当は、見ていたのだ。


兄が、水の中に手を伸ばし、誰かに引かれていく姿を。

俺は――見て見ぬふりをしたのだ。


恐ろしくて、目を背けた。

それを“忘れた”ふりをして、生きてきたのだ。


その罪が、いま氷を砕いていた。


ドォン、と音を立てて柱が崩れ落ちる。

その中央から、水が噴き出した。


だが、それは普通の水ではなかった。

光を帯び、記憶の色をした水だった。


その中に、兄がいた。


静かに目を閉じ、微笑んでいた。


俺はその手を、掴んだ。


その瞬間、世界が反転した。


雪が、霧になり、霧が水となり、水が言葉になって、

言葉が――記憶になった。


美波の声が、遠くで聞こえる。


「戻って……ここに戻って……」


俺は、兄の手を握りながら、首を横に振った。


「もう一度……ここから、始めなきゃいけないんだ」


兄が頷いた。


水の中で、確かに頷いた。


――そして、町は崩壊した。


雪は消え、建物は崩れ、人の姿は消えた。

だが、そこには“何か”が残っていた。


記憶だった。


水に沈み、霧に消え、氷に閉ざされてもなお、

人が誰かを“忘れない”という意志だけは、消えなかった。


それが、この町の最後であり、

そして最初の一滴だった。

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