第3話 夏の霧
梅雨明けの知らせが届くよりも早く、町には濃い霧が降りた。
それは、どこかからゆっくりと流れ込み、
朝になると、町全体を呑み込んでいた。
見慣れた家並みがぼやけ、足元さえ霞むほどの霧。
だが、奇妙なことに――その霧は、町の外には出ていかなかった。
車で町境の国道まで行くと、そこには霧ひとつなかった。
まるでこの霧が、この町だけを選んでいるようだった。
俺の部屋にも、霧の匂いが入り込んでいた。
窓を閉め切っていても、湿った空気が布団に染み込んでくる。
町の放送では「気象による自然現象」と繰り返していたが、
誰もその説明を信じてはいなかった。
霧が出始めてから、町の人々に異変が起き始めた。
それは“忘却”だった。
ある主婦は、自分の子どもの名前が思い出せなくなった。
商店の店主は、釣銭を渡す手順を何度も間違え、客と口論になった。
そして、老人のひとりが自宅を出たきり戻らず、
翌日、川沿いの浅瀬で座り込んでいるのを発見された。
彼は、こう呟いていたという。
「誰かが、呼んでたんだよ。水の中でさ、声が……」
町の掲示板に張り出された“注意喚起”には、
「体調不良や精神の混乱に留意」「外出時は必ず連れ立って」などと書かれていたが、
実際には“誰も信じていない”のではなく、
“誰も口にしたくない”空気が支配していた。
まるで、何かを思い出すと、
その瞬間、自分も消えてしまうとでも言うように――。
俺もまた、夢を見るようになった。
霧の中、濡れた石畳を歩きながら、
兄の名前を繰り返し呼んでいる夢だ。
霧の向こうから返ってくる声は、兄ではなかった。
それは、あの少女の声だった。
「ねえ、どうして戻ってきたの……?」
返事をしようとしても、喉が凍りついたように声が出ない。
足元からは、冷たい水がにじみ出てきていた。
夢から目覚めたとき、俺の布団は、またしても濡れていた。
窓は閉まっていた。
もう、この町の“水”は空気に混じっている。
呼吸するたび、喉の奥に湿気がまとわりついてくる。
記憶の中にも、霧が差し込んでくる。
兄の顔を、思い出そうとするたびに、
――輪郭が、ぼやけていく。
霧が出はじめてから一週間。
町の至る所で、記憶の歪みや錯乱が表面化しはじめていた。
町の診療所には、連日「耳鳴りがする」「人の声が聞こえる」「記憶が混ざる」と訴える住民が押し寄せていた。
医者は「ストレス性の症状」とまとめていたが、俺には、それが“水の霧”によるものだとしか思えなかった。
そんな中、俺は偶然、一人の若い女性と出会った。
場所は神社の裏手――春に少女を見た、あの池のほとりだった。
彼女は膝を抱えて座り、霧の向こうをじっと見つめていた。
「……また、始まったのね」
そう呟いた彼女に声をかけると、ゆっくりとこちらを振り返った。
年の頃は二十代半ば。どこか懐かしさを覚える顔立ち。
「君、ここの人……?」
「ええ。私は“早苗”の妹よ」
その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
「早苗って……兄と、失踪した……?」
「失踪じゃない。連れていかれたの」
彼女の口ぶりは、あまりに自然で、それが真実であるかのように響いた。
「私は、姉が消えた日を覚えてる。
あの日も今日みたいに、霧が出てたわ。霧が深くて、空気が重たくて……
姉は『呼ばれてる』って言って、ふらふらと川のほうへ歩いていったの」
「止めなかったのか?」
彼女は、ふっと笑った。
「止められなかった。あの霧の中では、声なんて、届かないのよ」
沈黙が流れた。
風が吹き、霧が舞った。
その一瞬、俺の目に、池の水面に人の影が浮かんだ気がした。
「私は、あの霧を恨んでる。でも同時に、惹かれてるのよ。
だって……霧の中に、姉の声がするの。
それに最近は――あなたのお兄さんの声も、聞こえるの」
彼女はそう言って、俺の手を握った。
その手は冷たく、湿っていた。
「見に行くべき場所があるわ」
彼女はそう告げると、立ち上がった。
向かう先は――町のはずれ、廃業した水力発電所跡だった。
「そこが、始まりよ。
町の水の流れが変わった場所。
人が“連れていかれた”最初の場所」
水が蒸気となり、霧となって空気に溶けるように、
人々の記憶もまた、曖昧になっていく。
俺は彼女のあとを追った。
答えがあるなら、そこにしかないと、そう思った。
廃発電所は、山の斜面に沿って造られていた。
入口の鉄扉は錆びついて半ば開いたままで、そこから覗く内部は暗く、ひどく湿っていた。
「ここ……もう何十年も放置されてるはずなのに、なんで湿ってるんだ?」
俺の問いに、彼女――美波みなみはぽつりと呟いた。
「……水は、残るの。
流れなくなっても、止まっても。
ここには“忘れられた水”がたまってるのよ」
中に入ると、すぐにカビと泥の混じったような匂いが鼻を突いた。
懐中電灯の明かりを頼りに進んでいくと、
床のあちこちに黒く濡れた跡が続いていた。
それはまるで誰かが素足で歩いたような――
“濡れた足跡”だった。
「これ……最近のものだよな」
俺の声が微かに震える。
美波は無言で頷いた。
地下に通じる階段がある。
そこは本来、流れ込んだ水を蓄え、動力を生み出していた場所。
今は、もう動いていないはずだった。
だが、階段の先からは、ぽた……ぽた……という音が響いていた。
規則的な、しかしどこか不自然な、まるで心臓の鼓動のような水音。
降りるたびに空気は重くなり、
呼吸をするたびに、喉の奥に生ぬるい霧がまとわりついてくる。
地下空間にたどり着いたとき、
そこには“溜まり水”が広がっていた。
一面が水。
天井からは細い水の筋が垂れ、空間全体が濡れていた。
だが――そこに“立っている”人影があった。
水の中央に、背を向けた人影。
肩まで濡れていて、髪が長く、指がゆっくりと水面をなぞっている。
「……姉さん……?」
美波が小さく呟いた。
その声に反応したように、人影がゆっくりと振り返る。
だが――その顔は、歪んでいた。
目鼻の位置がずれ、皮膚が水に溶けかけている。
それでも、どこかに兄と早苗の面影が混ざっていた。
「帰ってきたんだね……」
男でも女でもない、ねっとりと湿った声がそう言った。
俺は美波の手を握り締めた。
「なにかが……混ざってる」
人影はもう、かつての誰かではなかった。
水に飲まれ、霧に溶け、記憶と存在が混ざり合い、“戻ってきた”何かだった。
美波が、震えながら後ずさる。
「霧の中で呼ばれると、戻れなくなるの。
人は、水の中では“自分”を保てないのよ……」
俺は咄嗟に懐中電灯の光を上げ、人影に向けた。
だがその瞬間、影は水面へと崩れ落ちた。
まるで自重に耐えきれなかったように。
静寂が訪れた。
俺たちは動けず、ただ水の中に響く水滴の音を聞いていた。
ぽた……ぽた……ぽた……
「行こう」
俺は小さく言った。
「まだ終わってない。ここにいた“誰か”は……終わりを知らないままだ」
地上に戻ると、夜の霧はより濃くなっていた。
光はすべて吸い込まれ、空間さえも歪んで見える。
まるで、この町そのものが、霧の中で“水に沈み始めている”ように感じた。
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