第8話:遺された色彩、交差する道


春奈の家での新しい生活が始まって数週間が経った。

賢一は日中の配達以外は、もっぱら『筆の儚いちから』の執筆に時間を費やしていた。

新しい環境は、彼の心に穏やかさをもたらし、創作への集中力を高めてくれていた。


しかし、古本屋を失ったこと、そして不安定な未来への不安は、心の奥底に常に影を落としていた。


そんなある日、賢一に次の配達依頼が届く。

今回の配達先は絵に精通した人らしい。

本はすっかり倉庫の中だし、何にするか悩んでいると春奈が自分の部屋からとっておきの一冊を持ってきた。


「きっとこれが良いんじゃないかな?夢乃の大切なもの」


それは、夢乃が描いた遺作の画集だった。

表紙には、鉛筆のデッサンで描かれた、まだ色のない鳥の絵。

賢一はそれを手に取った時、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。


「これは春奈にとっても大切な形見なんじゃないのか?」


正直、賢一は自分も知らないその遺作を手放すことを躊躇していた。

しかし春奈は少し訳知り顔でこう助言する。


「それはもちろん。だからこそ、これを届けるべきなんだと思う。それが今の私たちに必要なこと、という意味なんじゃない?」


その言葉におそらく春奈には彼女なりの意図があるのだと察して配達することに決めた。


配達先は、静かな山の麓にひっそりと佇む一軒家だった。

庭には手入れの行き届いた草花が咲き乱れ、どこか牧歌的な雰囲気が漂っている。


インターホンを押すと、白髪混じりの男性がゆっくりとドアを開けた。

彼の顔には深い皺が刻まれていたが、その瞳は穏やかで、しかしどこか鋭い光を宿していた。


「本の配達にまいりました」


賢一が遺作の画集を差し出すと、男性の表情がわずかに強張った。

彼は画集を慎重に受け取ると、その表紙をじっと見つめた。


「これは…夢乃さんの絵ですね」


男性は低い声で呟いた。

賢一は驚いた。

夢乃の作品を知っているとは。

男性は賢一の顔を見つめ、さらに続けた。


「あなたは…坂本賢一さんですね。まさか、あなたが配達に来るとは。一度、お目にかかりたいと思っていました」


男性の言葉に、賢一はますます困惑した。


「まあ説明はあとにして、まずはこちらへどうぞ」


男性は賢一を奥の部屋に招き入れた。

そこはアトリエのようだった。

イーゼルには描きかけの絵が置かれ、棚には色とりどりの絵の具や筆が並んでいる。

そして、その一角には、賢一もよく知る、絵本の数々が積まれていた。


男性は、かつて賢一が応募した文学賞の審査員を務めていた、著名な絵本作家、佐久間さくま光一こういちだったのだ。


佐久間は夢乃の画集を丁寧にページをめくった。

一枚一枚の絵に、まるで語りかけるように視線を落としている。


「夢乃さんの絵は、いつも純粋で、生命力に満ちていました。私は彼女の才能を高く評価していましたよ。しかし…」


佐久間はそこで言葉を区切ると、賢一に視線を向けた。


「あなたは、以前、私が審査員を務めた文学賞に応募しましたね。たしかに良く書けた作品だった。物語の構成も、言葉選びも、非凡な才能を感じた。ただ、あの時のあなたの作品には…どこか、割り切れない感情が見え隠れしていた」


佐久間の言葉に、賢一は息を呑んだ。

それは、賢一が抱えていた、夢乃の死に対する後悔や、自分自身の不甲斐なさ、そして創作への迷いが入り混じった感情そのものだった。

佐久間は賢一の目を見つめ、優しい口調で続けた。


「絵を描く者も、物語を紡ぐ者も、作品に自身の内面が映し出されるものです。喜びも、悲しみも、迷いも…全てが作品に宿る。私自身も、絵本作家として挫折を経験しました。描きたいものが描けなくなり、筆を折ろうとした時期もあった。その時、私を救ったのは、他でもない、夢乃さんの絵でした」


佐久間は夢乃の画集の、まだ色がない鳥の絵を指差した。


「この鳥も、彼女が遺したものだ。しかし、この中に、彼女の無限の可能性と、未来への希望が込められている。完成しなかったからこそ、見る者の想像力を掻き立て、それぞれの色を塗ることができる」


佐久間の言葉は、賢一の心に深く染み渡った。

賢一が抱えていた「完璧でなければ」という呪縛や、過去の挫折への囚われが、少しずつ解けていくようだった。


夢乃の遺作の画集は、彼女の「死」ではなく、「生」と「可能性」を賢一に示唆しているかのようだった。

そして、佐久間自身もまた、過去の挫折を乗り越え、再び筆を握っている。


「あなたも、きっとそうですよ。あなたの物語は、まだ完成ではないかもしれない。でも、未完成だからこそ、これからどんな色でも塗れる。過去の挫折や、心の中に抱える迷いも、全てがあなたの作品の色になる」


佐久間の言葉は、賢一の心に新たな光を灯した。

過去の挫折や、夢乃の死に対する後悔と向き合い、それらを自身の創作の糧とする。

佐久間との対話は、賢一が過去を克服し、前へ進むための大きなきっかけとなった。


「良いものを見せてもらいました。この画集はあなたが大切に持っていてください」


そう言って佐久間は配達に持ってきた画集と、自身が描いた一枚の絵を渡してくれた。


春奈の家に戻った賢一は、今日の出来事を春奈に話した。

佐久間光一との出会い、夢乃の画集、そして佐久間の言葉。

春奈は賢一の話を、じっと聞き入っていた。


「夢乃も、きっと賢一にそう伝えたかったんだと思う。完璧じゃなくていい。賢一が感じたままを描くことが、何よりも大切だって」


春奈の言葉は、佐久間の言葉と重なり、賢一の心に深く響いた。

彼は、春奈の存在が、自分にとってどれほど大きいかを改めて感じた。

彼女の支えがあるからこそ、自分は今、こうして創作に向き合えている。

しかし、言葉にできないこの想いは、賢一の心の中で、未完の物語のように渦巻いていた。


その夜、いちかが眠りについた後、賢一はリビングでノートに向かった。

彼の頭の中には、佐久間の言葉と、夢乃の遺作の画集の鳥が、鮮やかに描かれていた。

『筆の儚いちから』の構想は、より自由な発想と、深いテーマへと広がりを見せていた。


彼は、佐久間光一との対話、夢乃の遺作の画集が持つ可能性、そして春奈の温かい支えを思い出しながら、新たな一文を書き加えた。


『筆は、遺されたものの中にこそ輝く。それは、時に過去の挫折をも色彩に変え、心の奥底に隠された希望の種を蒔く。』


賢一の心には、古本屋の取り壊しという現実の暗闇の中にも、確かに希望の光が差し込んでいた。

彼は、新しい物語を紡ぎ出す決意を胸に、固くペンを握りしめた。


(第8話 終)

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