第2話:自由に描く太古の世界


古本屋「月虹堂」の賢一は、帳場で再び溜息をついていた。


先日の配達で少し心が浮かれたのも束の間、現実は厳しかった。

配達だけで売上が増えるわけでは当然なく、店は相変わらず閑古鳥が鳴いている。


そんな中、再び配達依頼の手紙が届く。

今度は近所にある総合病院の小児病棟宛で、本は『お任せ』だそうだ。


「子ども向けの本かぁ。何が良いか悩むなぁ…」


賢一の視線の先で、娘のいちかが、段ボール箱から見つけた古い図鑑を広げていた。

表紙には、精巧な筆致で描かれた恐竜の絵があった。


「パパ、この恐竜さん、どんな色だったのかな?」


いちかが指さすのは、まだ色を塗られていない、線画だけのティラノサウルスの絵だった。

それは塗り絵ができる恐竜図鑑、『自由に描く太古の世界』だった。


「さあな。誰も本当の色は知らないんだ。だから、好きな色を塗ってやればいい」


賢一がそう言うと、いちかは目を輝かせ、「じゃあ、いちかが塗ってあげる!」と色鉛筆を握りしめた。

その無邪気な姿を見ていると、賢一の心に、わずかながら温かいものが灯った。


「よし、じゃあそのシリーズにするか。いちかのおかげで助かったよ。ありがとう。じゃあパパ、配達に行って来るね。もうすぐ春奈さんが来てくれるから、それまでひとりでお留守番できるかな?」


いちかは無邪気に笑って頷き、また恐竜図鑑に向き合っていた。


配達先は、小児病棟だった。

清潔だがどこか殺風景な廊下を通り、賢一は指定された部屋番号の病室のドアをノックした。


ベッドには、小さな男の子が横たわっていた。

賢一が図鑑と12色ほどの色鉛筆を差し出すと、男の子の顔がパッと明るくなった。


「恐竜図鑑だ!色、塗ってもいいの?」


賢一が頷くと、男の子は震える手で色鉛筆を握り、真剣な眼差しで恐竜の絵に色を塗り始めた。

緑、青、赤……。


枠線からはみ出したり、思いがけない色が塗られたりしても、男の子は楽しそうに、そして力強く筆を進める。

賢一は、その様子をじっと見つめていた。

まるで、病気の苦しみを忘れさせるかのように、男の子の心は自由に、無限の色彩で満たされていく。


「塗り終わったら、ボクの恐竜、学校の友達に見せるんだ!」


そう満面の笑顔で塗る男の子の姿は、賢一には、入院していた頃の夢乃や、留守番している、いちかの姿と重なって見えていた。


帰り道、賢一の心は満たされていた。

単なる本を届けただけではない。

子供の心に、創造の喜びと、自由な発想の種を届けられたような気がした。


それは、賢一が作家として、古本屋の店主として、ずっと求めていたものだったかもしれない。

夢乃も、こんな風に、人々の心に色を添えたいと願っていたのだろうか。

いや、もっと素直に、あの少年やいちかのように描くことを楽しんでいたのかもしれない…。


古本屋に戻ると、春奈がいちかと一緒に、賢一が同じシリーズの恐竜図鑑の塗り絵を楽しんでいた。

いちかの塗った恐竜は、病室の男の子とはまた違っていて、現実にはありえないような、カラフルな色で彩られていた。


「どう?この恐竜、かっこいいでしょ!」


いちかが自慢げに見せる。


「ああ、すごくいい色だ。こんな恐竜がいたら、きっと誰もが振り返るだろうな」


賢一は、心からの笑顔で答えた。


「絵って、自由でいいんだよ、賢一」


春奈が、いちかの頭を撫でながら言った。


「夢乃も、そう言ってた。上手く描こうとするより、感じたままを描くのが一番だって」


春奈の言葉は、賢一の心に深く響いた。

それは、賢一が作家として、かつて囚われていた『こうあるべきだ』という固定観念を打ち破る、大切なヒントのように思えた。

自分の筆も、もっと自由に、もっと大胆に、色を塗るように物語を描けるのではないか、と。


その夜、賢一は再び帳場でノートに向かった。

新たな小説の構想は、少しずつ形を変え始めていた。


彼は、今日出会った男の子の、枠線にとらわれない自由な色の塗り方を思い出しながら、新たな一文を書き加えた。


『筆は、見えない線を描く。それは、時に固定観念という名の檻を破り、無限の色彩を放つ』


賢一の頭の中には、物語の登場人物たちが、既成概念を打ち破り、自由に羽ばたく姿が鮮明に描かれ始めていた。


そして小説のタイトルを『筆の儚いちから』と記した。


(第2話 終)

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