第二十三話 ハチマンコーヒーで、また会おう

 澄んだ青空に、いくつかの細い雲が、そっと浮かんでいた。

 体育館の入口脇に咲く早咲きの河津桜から、ひとひらの花びらが舞い降り、板張りの床にすっと滑り込む。


 体育館の中は、凛とした空気に満たされていた。

 まるで、白いスケッチブックをひらき、最初の線を引こうとするときのような、静かな緊張。

――描き終えたページをそっとめくる切なさと、新しい余白に鉛筆が触れる、迷いのない音。

 ただ、紙に滲んだ温もりだけは、たしかに残っていた。



 卒業式が終わり、みんなとの別れの挨拶をすませて、美術準備室に向かった。

 遠くからはまだ、誰かの別れの声が聞こえている。けれど、この部屋の中は、嘘みたいに静かだった。


 私は、駄菓子屋の人魚姫に会いに来た。

壁に立てかけられた、あの絵の前に、私は立った。


 女の子の顔は、ミサキちゃんやユウカ、そして――私にも、どこか似ている気がした。

 でも、誰の顔とも、はっきりとは重ならない。

 柔らかな微笑みと、どこかイタズラっぽい眼差し。

 とても魅力的な、ひとりの女の子になっていた。


「……そろそろ、行くね。ありがとう」


 小さくそう声をかけて、私は部屋をあとにした。


 校門を、小走りに抜けたとき、制服のスカートの裾が、ふわりと風に揺れた。

 見慣れた通学路が、もう、少しだけ遠くに感じられる。

 同じはずの道が、どこか違って見えた。


 この制服のまま、もう一度、ハチマンコーヒーに行きたかった。



 ハチマンコーヒーの扉を開けると、ふわっと広がるコーヒーの香りと、ナナさんの声が迎えてくれた。

店内には、午後の光が満ちている。

 ユウカとアキラは、すでに席についていた。


「ハルちゃん、おめでとう!」


「ありがと、ナナさん」


「人魚姫にお別れ、ちゃんと言えた?」

ユウカが優しく問いかける。


「……うん」


 アキラが身を乗り出して言う。


「てかさ、なんか……こうしてここに三人でいるの、めっちゃ久しぶりじゃない?」


「ほんと。ありがとう祭のあと、あの集中モードやばかったよね」

 私は苦笑しながら言った。


「それぞれ、ちゃんと進路が決まって……ほんとによかったね」

 ナナさんが、テーブルのマグカップをそっと並べながら言った。


「そうそう! ナナさん、知ってるとは思うけど、ユウカをめちゃくちゃ褒めてあげて!」


 アキラが勢いよく振り返る。


「この子、現役で筑波大学の医学部受かったんだよ⁉︎ ヤバすぎ」


「うわぁ、すごい……ほんと、よく頑張ったね」


 ユウカは照れたように笑って言った。


「……ありがとうございます。ようやくちょっと、ほっとしました。医者になれるように、またコツコツ頑張ります」


「アキラちゃんは京都だったよね?」


「うん。京都外国語大学。アユさんと話してるうちに、インドネシアに興味わいちゃってさ。だったらインドネシア語、勉強してみようかなって」


 ナナさんが感心したように笑う。


「そういう出会いだったんだねぇ。ハルちゃんは?」


「京都精華大学で、デザインの勉強してきます。美大は無理だったけど……でも、今思えば、いちばん合ってた進路だったかもしれない」


「だから、京都で遊ぶんだよね、私たち」


 アキラがウキウキした様子で言った。


「うん。また京都で会おうね」


「いいなぁ。……たまには、私も混ぜてよ」 


 ユウカがぽつりとつぶやく。


「えー、でも真嶋くんも筑波大でしょ? それはそれで、楽しいんじゃないの〜?」 


 私はにやりとユウカをからかう。


「……でも、農学部はけっこう離れてるし、会うことなんてまずないってば」


「けど〜?」


 ユウカは、反射的に手のひらを前に出して制した。


「ちょっと……ほんと、やめて」


視線をそらしたまま、耳がわずかに色づいていた。


「佐々木くんも京都だよね? 同志社だったっけ?」


「そうそう、ウチの元副部長ね。……まあ、ばったり町中で会ったら、笑うかも」


「去年のありがとう祭、ちょっとしか見れなかったけど、ボラ部が頑張って、すごく盛り上がってたよね」


 私は、アキラとナナさんの顔を順に見る。


「ほんとに。高田高校さまさまです。今年は金岡くんが部長で、しっかり仕切ってくれて」


「“ソーシャルインパクトは続けることに意味がある”とか言ってたよね。らしいっていうか」


 アキラが笑いながら言った。


「そうそう。今年の色もね、ちゃんとにじませてくれてて……なんか、うれしかったな」


 優しくナナがフォローする。


「また、今年のありがとう祭、来れたらいいね」


 私は、二人の顔を見ながら、一昨年のことを少しだけ思い出していた。


ナナさんが、ぽつりと呟く。

「……ほら、ここにいる“三羽の渡し鳥ちゃん”たち。ちゃんと旅に出て――またふらっと、戻ってきたらいいのよ」


「またナナさんの、謎のいい話きたー」


「……これでも一応、営業トークなんだからね」

ナナさんが笑って、コーヒーの香りがふわりと揺れた。


「ハルちゃんは、大学でも絵を描くの?」


 ナナさんの問いかけに、私は少しだけ首をかしげた。


「……まだ分からないけど、描くと思います。

でも、ありがとう祭で展示した写真がね、すごく印象に残ってて。

時間が流れてるっていうか、光の感じとか、景色の中に物語がある気がしたんです。

だから、これからは写真も撮ってみようかなって」


ナナさんが、穏やかにうなずいた。


「そうか。……じゃあ、またそのうち、新しい作品、見せてもらおうかな」


「はい」


少しの間を置いて、ナナさんはやわらかく三人を見渡した。


「で、みんなはいつ旅立っちゃうの?」


「……私は、いろいろ挨拶があって、十日後くらいになりそうです」


 ユウカは、カップを両手で包みながら言った。こぼれそうな感情を、湯気の向こうにそっと隠すように。


「私も。なんだかんだで、そのくらいにしたよ」


 アキラは苦笑まじりに答える。引っ越しの荷造りが全然終わっていない、と昨日もぼやいていた。


「……私、一週間後」


 私は少し間をおいて言った。言葉にしてみると、思ったよりも早い気がして、胸の奥がきゅっとなった。


「そっか。すぐだね。……寂しくなるなあ」


 ナナさんの声が、テーブルに落ちた影のように、静かに響いた。


 しばらくして、ユウカがふと店内を見回した。


「なんだか、いろんなことがあったね」


「しばらくは来れなくなるね……」


 アキラが少し寂しそうに呟いた。


「また、いつでもお帰りください」


 ナナさんが、穏やかな口調で言う。


「“お帰りなさい”って言えるのを、楽しみにしてるよ」


 その言葉に、私たちはほっとしたように笑った。


 ナナさんがカウンターの奥から、三枚のカードを取り出してきた。

 テーブルに戻ると、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。


「はい、ではみなさん、プチ卒業式のお時間です。恒例・ナナさんの謎いい話のコーナー、卒業SP!」


「え、なにそれ」


 アキラが目を丸くする。


「じゃあ、アキラちゃんからいくよ」


 ナナさんは、紫のありがとうカードを一枚持ち上げて、少し誇らしげに読み上げた。


「江口晶殿。“アキラの“結ぶ力”は、アキラを一番幸せにするよ。きっと!”」


「なにそれ〜! ありがたいけど、ちょっと照れる!」


 みんなが笑う中、ナナさんは次のカードを手に取った。


「続いて、ユウカちゃん」


「吉高優花殿。“たくさんの景色を見た、すてきなお医者さんになってね”」


 ユウカは少しだけ目を伏せて、小さくつぶやいた。


「……ありがとうございます」


「そして最後は、ハルちゃん」


 ナナさんが一瞬だけ私と目を合わせてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「広瀬晴殿。“ハルのまなざしは、誰かに“幸せの見つけ方”を教えてるよ”」


 その言葉が、静かに空気に溶けていく。

私はただ、うなずくことしかできなかった。


「はい、それぞれ、お納めください」


 ナナさんが、にこにこと三人にカードを手渡す。


「これって……ナナさん流の卒業証書?」


 アキラがカードを両手で掲げて見せる。


「そう。ありがとうの、証書です」


「ナナさん、これ二行あるよ」


 カードを見つめながら、私はつぶやいた。


「そうなの。入りきらなくて。思いがあふれちゃった」


「じゃあ、残りの二行を使って、私たちも“ありがとう”を、ハチマンコーヒーに返そうかな」


 ユウカが、笑みをにじませて言った。


「ありがとう。でも、できるだけ遠くまで行っておいで。できるだけ長い時間をかけてね」


「……はい」


 そう言った三人とも、少し目を落としていたと思う。



 朝の宇佐駅には、まだ冬の名残があった。

 ホームの端に差し込む日差しはやわらかく、

 冷たい風の中に、ほんの少しだけ春の匂いが混じっていた。


「いいよ、わざわざ」そう言ったのに、

「記念だから、見送らせてよ。私とユウカは同じ電車で行くし」

 そうアキラが言った。


「アキラ、わざわざ私に合わせて早い便にしてくれたんだよ」とユウカ。

「だって寂しいじゃん」


……とのことで、三人はそろってホームに立っていた。


「ハル、また京都で会おうね」


 アキラが笑いながら言う。


「うん。着いたらまたLINEするね」


「わかった」


「いいなあ、やっぱり。京都に遊び行くよ、絶対」


 ユウカも笑みを浮かべる。


「じゃあ二人で、いい場所探しとくね」


 そのとき、サクラが少し照れたように前に出てきた。


「お姉ちゃん、あの、これあげる」


 小さなカササギのチャームがついた、宇佐八幡の縁結びのお守りだった。


「……今年も、いいことあるといいね」


 その言葉に、私はふと、一昨年の正月の記憶を思い出していた。


「ありがとう。覚えててくれたんだ。……大事にするね」


 思わずハグしようと手を伸ばしたが、

 サクラは、ちょっと恥ずかしそうに一歩下がってかわした。


「可愛い妹だなー、って思ってただけなのに」


「なんで縁結び?」とアキラが聞く。


「いろんな縁のことだよ。……恋愛には縁がなかったけど」


「京都で探しなさい」


「だね」


 そのタイミングで、ユウカが小さな紙袋を取り出した。


「そうだ、ユウ先生からメッセージと……餞別、預かってた」


「餞別?」


 袋を受け取ると、シャカシャカと乾いた音がした。


「スイートピーの種だって。研修医のとき、患者さんからもらったのをずっと育ててたら、増えたんだって。

『植えて育てろよ』って、私たちに」


「ユウ先生、花なんて育ててたんだ。……意外」


「花言葉、調べてみよ」


 アキラがスマホを取り出す。


「出発、門出、優しい思い出……あ、“私を忘れないで”ってのもあるよ」


「そこまで考えてるとは思えないけどね」


 ユウカが肩をすくめた。


「メッセージには『しっかりがんばりや。まあ、さよならだけが人生だ』って書いてた」


「なにそれ……」

サクラが、少し眉をひそめて呟いた。


「さよならだけが人生だ、か……」


アキラが少しだけ遠くを見るように言った。


 私はスイートピーの種が入った小袋を摘み、光にかざした。

 白く揺れる太陽に透かしてみると、中の種のひとつひとつが、淡く輪郭を結んでいた。


「あーあ、ユウ先生、ぜんっぜんわかってないなぁ……」


 小袋をシャカシャカ振りながら、ふっと笑って、口をとがらせた。


「人生は、“返事がいらない、ありがとう”だよ」


 小袋の中で、種がかすかに揺れた。


 四人で、顔を見合わせて微笑んだ。


 私は、最後にもう一度、みんなの顔を見た。

 そして、ハチマンコーヒーがあるこの町。


 心の中で、大きな「ありがとう」を、そっと抱きしめる。


「ありがとう。またね!」


 遠くから近づいてくる白い電車の姿が見えた。

 荷物を手にして、私は一歩、前に出る。


「また会おう、ハチマンコーヒーで」


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